石破茂総裁誕生

 まずは、石破茂氏が逆転で総裁ということに驚きを禁じ得ません。
 石破さんや高市さんに対しても好き嫌い、フォローやアンチは極端かもしれません。小泉進次郎が若さで脚光を浴びたものの、想像を絶するレベルの受け応えのおバカぶりでで「ダメだこりゃ」と失墜し、究極的な消去法での総裁選びの結果ともいえます。

 しかし、その場で最後のチャンスをつかめたというのも石破氏が何かを持っているともいえます。何せ無派閥でそれまでの総裁選には、党員の人気はそこそこあり善戦しながらも議員票で敗れあり、推薦議員が集まらず立候補できなかりと敗北を繰り返しました。直近の岸田さんの際の総裁選では河野、小泉と連合して河野を応援して自分は出馬せず。たまにテレビや動画配信サイトで政権の論評をする、党内では不遇で人望なく総裁選はあきらめたオワコン扱いでした。
 今回、裏金問題で自民党の派閥が雲散霧消する中、数奇な運命と使命が石破氏を待っていました。


 田中角栄の弟子、軍事オタク、鉄道ファンとしても知られています。キャンディーズなどのファンでもありました、
 鉄道に関しては乗り鉄でマニアでもあり、地方の鉄道の存続問題をインフラとともに考える発言はされています。リニアには疑問符で、もう少し地方を結ぶ高速鉄道網に注力すればと、角栄の教え子らしい面も見せています。

 アメリカから嫌われて潰された角栄の轍は踏まず、アメリカからの武器購入、日米地位協定など問題があって改めるべきところがしかるべくやって欲しいところです。

長浜鉄道スクエア 北陸本線の要衝

 長浜駅のびわこ側には、現存する日本で一番古い駅舎を改造した建物が長浜鉄道スクエアという施設として、駅に併設されています。
長浜市街は駅の東側に広がり、この鉄道の記念施設を訪れたのは30年以上前、30歳になる前だと思います。レイルウエイライター種村直樹さんのミステリにずばり「長浜鉄道記念館」とうのがあります。30年前では鉄道スクエアという名前ではなかったのでしょう。当時から30年以上、改装もしながら保存しているのはすごい歴史的意義です。

展示車両はD51蒸気機関車と、交流電化対応のED70電気機関車の2台です。

 昔の駅舎をうまく活かし、改札口や駅業務、駅長室を再現していますし、ジオラマや年譜、ビデオ画像で往時をしのぶことができます。
 北陸本線は、敦賀延伸の新幹線で注目されました。並行在来線ということで、直江津~敦賀の間は第三セクターとなり、米原から敦賀の45キロほどの短い区間のみとなりました。
 しかし、敦賀~長浜間は、日本で3番目にできた古い路線です。当時は東海道線が今より北側のルートで関ケ原から長浜につながり、長浜から大津は琵琶湖を船で結んでいたのです。大津~神戸、新橋~長浜に次ぐ最古のルートであり、現存する駅舎で最も古いのが、この旧長浜駅なのです。
 陸路と湖上交通の交錯する要衝だった長浜は北陸本線が米原経由、東海道線も陸路で全通すると、中間駅に成り下がります。二代目になるかつての駅も哀愁を帯びた北国で、車両も交流用で京阪神とは趣が違いました。今は京阪神から新快速が来るアーバンネットワークに組み込まれました。4両ながら新鋭の電車が行きかいます。かつて琵琶湖を3時間かけて船が渡る待合があったのですが、観光でも楽に日帰りでいける距離です。
 歴史上の人物、紫式部も明智光秀も琵琶湖を渡り、越前に向かいました。その琵琶湖を横に見ながら、快速で駆け抜ける電車たちと、思い出を刻む哀愁ある記念館。

 

時の流れをしばし、逆行できます。

13日金曜日の激動

 週末は忙しい上、三連休前ということで予想以上にバタバタした昨日、「13日の金曜日」でした。

 間違いの許されない、人名の漢字を貼り付ける仕事をしている際中に、申し立てや届出の来客、電話で再三中断。自らの扶養の書類も再提出しきり、10月の異動に伴う、仕事の分担の内示に呼ばれる。
 戻って送信して、原稿を確かめると、うーん件数が多いので間違った貼り付けを送信している。動揺しながら、対処法をやっと思い出し、パニくりながら修正、良く気付けたというか、冷や汗ものでした。
 なかなか深刻な申し立ても多い中、ミスもありながらもとりあえずやってきた仕事ぶり評価されているのにはホッとしました。
 異動が多いと大変な時期を迎えますが、少し残業して、今日は前に勤めていた事務所の親しいメンバーと飲み会。

 3年勤めた年金事務所、退所して1年半久しぶりの再会に懐かしくて、心地よい時間でした。

 マイペースで、いろいろやらかしたこともありましたが、やってきた仕事や、そこでの会話、コミニュケーションに今でも感謝されることはやはりお世辞でも嬉しいものです。久しぶりに天使が舞い降りる時間でした。これに驕ることなく私も精進したいです。

 社労士試験を目指し、ライバルに負けたくないという後輩さん、力みすぎず頑張って欲しいです。きっといいことがあります。

Rのつく月に

 残暑の厳しい年は、この頃10月はじめでさえ最高気温が30℃超え、真夏日というのもありました。9月半ばでも当たり前に日中は暑いです。
 しかし、9月ということで、Rのつく月、カキフライがお弁当に入っていました。
 セミの鳴き声は聞かれなくなり、日が傾く時間は早くなり、夕方五時半ごろに仕事帰りに歩くと、西日が建物に遮られやすく猛暑はましです。夜の蒸し暑さは、その日の湿度や風により変わりますが、外の空気もだいぶ低くエアコンなしで耐えられないことはなさそうなくらいです。集合住宅や家の込み入った街中では、惰性でみんなエアコンを使うので結局暑い空気が止まないのが困りものです。

 猛暑が行ってしまっても、夏の疲れは残ります。夏休みが終わり、何となくアンニュイになるのがこの季節です。
 健康やメンタルにも注意が必要です。
 読書やグルメ、スポーツ、芸術など楽しむための秋の過ごしやすい季節のはずです。残暑を乗り切って、季節を心地よく味わいましょう。

大阪が進化している

 普段、古都の落ち着いた街で、右京の太秦から京都御所の間の通勤で、高い建物の少ない町に慣れているので、東京はもうビル街が圧倒的過ぎて、現実味がないくらいです。
 大阪は近いので、未だに遊びにも行きますし、最初に実家以外で住み、長く勤めた都市でもあり、その変貌が見ておきたいとも思います。
 鉄道やら買い物、演劇や展覧会など「点」として通過したり、ピンポイントで行っても、万博を控えまとまっていろいろできてくるパワーにはやはり圧倒され、チョット付き合うのには疲れそうです。

 万博は小学校の大阪万博に何度も行き「制覇」したぐらいなので思い入れはありますが、そんなに強い期待感はありません。「行けたら行くわ」程度の思いです。

 最近では西梅田側にも、大きなビル、施設が複数でき、ウメキタ側にも芝生の大きな広場などできあと数年でさらに進化、完成する空間が広がっています。万博景気、さらにIRと、新駅、新路線も広がり先進性、利便性の高まりと、イベント効果で当面大阪は上がり目でしょう。
 西梅田近辺は10年ちょっと前、通勤にも四つ橋線を使い、取引先の新店舗の立ち上げにもかかわり思い出深い場所です。中央郵便局跡は更地にされ、屋台が出たり、サーカスなどイベントをやっていました。ここにKITTEという切手、郵便局を想起させる商業ビルが建ちました。
 劇場もあり、良いテナントも入っていますが、イマイチ「官」の匂いも残すのが面白いところです。
 まあ大阪は東京ほどではないにしろ広いし、一通りに行くには少し時間もかかりすぎ、気持ちとしては遠く感じるようになりました。大阪は京都より平野も多く、企図された公園も多くあり緑は案外多く、住むのに悪いところではないです。文化や芸術、スポーツイベントも当然開催頻度も高いので便利ではあります。
 しかし、私は人が多い所より、ローカル線や廃線鉄が好きなので、好きなイベントや経由地以外ではそう無理には行かないでしょう。

完走!夏の青春18

 貨物列車博物館に始まり、九州鉄道記念館、芸備線と周り、最後は長浜鉄道スクエアで〆ました。
ちょっと昔の周遊券を思い出し、有人駅では下車印をお願いすることに拘ってみました。最近の切符は表面の紙質がつるつるで、一度乾いてもまた汗などでにじみやすいですが、それでも記念になります。
 こればかりはデジタル化すると無理ですからアナログ切符の今のうちの記念です。
 もう下車印を知らない駅員さんがいるかともいましたが、さすがにそれは無かったです。
 備後落合駅は、駅員さんはいたのですが、「当駅には下車印はもうない、駅スタンプなどでお楽しみください。申し訳ない」と謝られ、恐縮しました。
 こんな小さなハンコですが、青春18切符をはじめ紙の切符がなくなれば、使用する機会そのものも全くなくなるでしょう。それ以前に駅員がいない駅も増えていきます。

 よく準備運動をして、時折乗車中に身体を動かせば元気です。何となく最近年齢を経て、普通車のクロスシートぐらいなら平気で本を読み続けて、眠ることも可能になりました。普通車に一日乗ってるなんて大変と言われますがそうでもありません。
 ただ私より体の大きな人や、血のめぐりの悪い人は、普通車に乗り続けるのかキツイのかもしれません。


 新幹線や新快速と比べて特に思うのはやはり、優等列車が通過する駅にも街があり、家があり、名所もあるので、通り過ぎるのは失礼だなあということです。モータリゼーションの時代とは言え、人が歩いていてはJRの駅を一つ二つ分歩くのでも大変な難行です。
 新快速や新幹線、飛行機や高速道路であっという間に移動するのも旅ですが、移動そのものを楽しむのは鈍行、各駅停車だと改めて思うのです。
 人生だってそうです。生まれも育ちも良く、才能もあってあっという間にキャリアで出世しても、普通の人の一人一人の心が少しも分からないうちに老いていくのは、もったいないことなのです。

運休しすぎ?新幹線の代替を

 1964年開業で60年も経つ東海道新幹線ですが、東京~名古屋~大阪を結ぶ大動脈なのは変わりません。
 トンネルは以降の新幹線より少ないため、浜名湖や富士山など眺望も素晴らしいです。
 建設当時まだトンネルの工法も大型のシールドマシンがない時代でした、路盤もスラブ軌道の技術が確立しておらず、全線バラスト軌道で盛り土に石がしきつめてあるのです。
 このため、雨や雪に弱いのです。
 同線の降雪区間である関ヶ原も、開通直後の冬以来雪対策に頭を悩ませていました、長期間の運休を伴う大規模な改修工事は事実上不可能であり、現在もそのまま運用されているのです。
 未対策の冬季には、関ヶ原通過後、長距離にわたって氷塊の落下による石跳ねで窓ガラスの破損事故が多発したため、初期には前後の駅で氷雪のかき落としを行った。現在は、過去の被害状況を元にバラスト飛散防止シートが敷設されています。
 そして、ここへ来て大雨による雨量基準で運休ということも増えてきました。盛り土やバラストの弱点です。
 トンネルが少ないと、強風による倒木や架線の切断でも運休はありますし、南海トラフの津波にも警戒しないといけません。かつて、最初の東京~大阪を結ぶ鉄道を東海道にするか中山道にするか議論された、東海道の弱点がここへ来て注目されています。

 なお、後年に建設された山陽新幹線以降は区間によってスラブ軌道が採用されている。雪国を走る東北・上越・北陸新幹線はスラブ軌道主体で建設された上、融雪用の温水スプリンクラーも完備しています。
 北陸新幹線の東海道代替ルートが今回話題になっていますが。車両数や時間も含めて、東海道をカバーするほどではありません。リニアというのにはもちろん、いくつか賛否や補償など問題もありますが、東海道新幹線が60年以上経って70年、80年と使い続けられるかというと、難しいのも厳然とした事実なのです。

廃止された鉄道、未来の鉄道

 先日、三次駅で、接続待ちがあったので、レンタサイクルを借りて三江線の廃線跡を少しだけ見ました。
 昭和に廃止され、遺構を探すのも難しい廃線跡散策もしています。しかし、つい数年前2018年(平成30年)に廃止された三江線は108キロにもわたる路線なので、見つけやすいです。もちろん江の川沿いに延々と続くその路線の全貌を訪ねるのはおいそれとは行かないです。
 三次駅近辺の尾関山駅まででしたが、町の人は今まであった駅がなくなってどういう思いでこの遺構を見ているのでしょうか。ほんの一部はサイクルトロッコのようなもので走れますが、山間のトンネルや鉄橋は放置されたままでしょう。
 昭和5年の部分開業から、工事も遅れ昭和60年の開業で、令和を迎えることなくモータリゼーションの波に負けたその姿は哀愁をおびています。江の川に沿ってうねうね迂回しながら100キロの区間を3時間以上かけて走るのですから、ドアツードアのクルマに勝てるはずがありません。芸備線で広島から三次経由山陰本線の浜田までを急行があったとして4,5時間かかるとなると、バスやクルマの倍かかり、片道だけで1日仕事であり、酔狂な人でないと乗らないものでした。
 それでも、廃止となると、惜しむ人いわゆる葬式鉄で賑わいました。それから数年、今はひっそりと、観光案内所に冊子があり遺構を紹介していました。
 北陸新幹線延伸が敦賀以降はいつになるかどこを通るか話題になっていますし、おりしも南海トラフ地震や台風で東海道新幹線の運休で代替ルートも問題になっています。かつて、三江線も新設工事中は、江の川をそこまで迂回せず長大トンネルで射貫く案もあったそうです。この時も、工法の未熟さや、予算、環境面などで、地元の猛反対があって実現しなかったようです。全線108キロと書きましたが、直線距離では60キロ程度で、あとからできた高速道路の方が設備面でも距離面でも優れているのも明白でした。全線開通した昭和末期にはすでにクルマの時代に入り、自然災害での被災で不通、復旧を繰り返す悲運が続き、長大路線ながらついに全線廃線となってしまったのです。
 

 リニアができ、北陸新幹線が全通できる頃、中四国、山陰地方はどうなっているでしょう。北陸との格差は大きくなっていきますし、山陰新幹線、四国新幹線はさらに先で現実のものとは思えません。

 北陸新幹線は山陰や四国への新幹線へのステップだとする主張もあります。与党政治家の中には小浜ルートから山陰への分岐、新大阪からは関空経由、淡路島、鳴門を経て四国新幹線を作れば、リニアで結ばれた新大阪を中心に北陸、山陰、山陽、四国が一体となって発展する国土軸ができる。もしそれが本当なら田中角栄以来の強い主張で、そこをわかりやすく説明すべきです。

 しかし、時間はかかれどもトンネルで一気に駆け抜ける新幹線より、長閑な田園や清流を見ながら走る鉄道にこそ移動の楽しみがあるのも捨て難いものです。
 三江線の橋梁やトンネルが再利用される未來はないのです。

一期一会、旅は奇跡の偶然

 先週、夏休みをとって北九州、広島県などを青春18切符などで、気ままな旅をすることができた。
 九州鉄道記念館と、芸備線完乗、新型やくも初乗りが主な目的だったのですが、広島で7年ぶりに会社の後輩にも会うこともできました。この週に休みを取れたのもたまたまで、彼に会えお好み焼きで飲めたのも僥倖ともいえる幸運な偶然が重なったものです。

 記念館ぐらいは無理すればいつでも行けますが、人と会うのはそう簡単ではないものです。今週であったなら旅自体がキャンセルで、ギリギリの乗り換えのための切符も宿も取りけすなども台風に会えば大変です。今回の台風など、計画運休、交通障害も長く、雨に弱い芸備線なども停まったままですし、今後しばらく乗れないでしょう。

 先週もその前は台風の影響で、少し悪い予想もありましたが、強行してみたら、猛暑がぶり返す良い天気でした。幸運に感謝もしますし、いろいろなことも悟り、伝えるべきなのだなともいます。広島の翌朝は芸備線のダイヤの都合で、9時の列車でも、11時の列車でも三次の接続は同じなので乗り換え案内が11時を示しました。市内をぶらつくか宿でゆっくりしても良いのですが、広島駅に行くと結局先の9時の列車に乗ると、三次で3時間市内を回れました。ここでも三江線廃線跡やミュージアムなどをレンタサイクルで回ることができました、
 計画通り行かない旅もあれば、いろいろ楽しいサプライズがあるのが旅の楽しみです。まるで人生そのもですね。

新幹線接続?の超ローカル駅

 夏草ボウボウと有蓋貨車みたいな待合、決して廃線跡ではありません。
 3セクですが、山陽新幹線に接続する駅です。
 新幹線が通れば街が活性化すると思われるのは十分条件ではないようです。
 新しい新幹線やリニアがいつできるとか、早く自分の街に開通して欲しいとか、乗りたいという人もいるでしょうが、なかなか次はしばらく難しいのです。
 まだ整備新幹線、並行在来線などの問題ができる前、初代のひかりが走った東海道と山陽の新幹線も、すでにそれぞれ60年、50年と経過していき、大盛況の影で一部は負け組の結果が出たような駅もあります。
 
 整備新幹線のように線路建設には自体は自治体負担はなくとも、請願駅と言われる一部自治体負担駅でも、駅の場所や、在来線との接続も問題がありがちですし、のぞみの停まるターミナル駅ではないと街はずれにこだま停車駅を作っても恩恵は少なかった例も意外とあるのです。
 それ以前の課題として、新幹線は短絡新線を使います。速度、到達時間を優先するため、既存の駅に無理に沿うためにカーブしてルートを決めいちいち停まってられない事情もあります。
 写真の奥の高架駅は、山陽新幹線新岩国駅で、手前の草ぼうぼうのホームは新幹線駅から徒歩5分の第三セクター錦川鉄道新岩国駅です。
【新岩国誕生の事情】
新岩国駅は岡山~博多開業当初からの駅です。徳山と広島の中間で、観光名所の錦帯橋もあります。既存の山陽本線岩国駅に作る案、岩徳線西岩国近くの案もありましたが、急カーブも必要な上、距離が長くなり、市街地で用地買収も難しいため、車両基地も併設できる広大な土地のある御庄地区の現在の場所に決まりました。
近くに岩日線御庄駅がありましたが、岩国と新岩国駅は同一駅扱いですが、御庄駅はJR時刻表の乗り換え標準時刻にも載らない、近くにある駅扱いで、鉄道ファンにも謎でした。今でも新幹線の接続は悪いですが、3セクになって錦川鉄道清流線、清流新岩国駅とされ、連絡通路や案内表示はできました。接続は良くないので長々待ったのがこの写真です。JRになる時に、新幹線接続駅にすると岩日線を赤字でも引き受けないといけなかったから、接続駅にせず切り離したとも言われています。
 何より放置されたようなホームのメンテナンスの悪さです。哀愁はありあすが、草生した廃線跡の駅のようです。
 しかし、新幹線の新岩国駅にも課題は多いです。50年も経とうかという経年劣化も、観光地から微妙な距離の難しさもあり、設備面も古く、ショップもほとんどなく、食事もままならないし、トイレや待合室も古いままです。山陽新幹線で最少クラスの乗降客の駅ですが、これが地方の中心からは少し離れたローカル駅の実情です。
 請願駅では、新倉敷駅、新尾道駅、東広島駅、いずれも既存路線との微妙な距離と観光客集客とのズレなどで似たような苦しさを味わっています。東北や上越、北陸、九州などにも似たような事情で、成功した町の駅と、失敗のケースがあります。
 新幹線、主要幹線とローカル線と、上手い接続、連携を行い、町全体がデザインされ、人を呼び込み活気を産まないと意味がありません。
JRや鉄道会社全体もまず本業で儲かる仕組みが必要で、それにプラスしてホテルやショップ事業を推進するべきです。