終電繰り上げで鉄道離れ、結局は経営を圧迫する

新型コロナウィルス感染症拡大を受けて、年末年始とくに大晦日の週や運転の中止に始まり、それ以後3月のダイヤ改正でも最終列車の時刻を繰り上げの動きが出てきました。
保守作業の時間確保や、乗務員や駅改札の時間も当然切り上げできて一見効率は良いのですが、これは最終的には鉄道の利便性を下げて「鉄道離れ」を増やし結局は鉄道会社の収益を悪化させることになります。
市営の地下鉄などもこの動きです。
最終に乗れずタクシーや自宅の送迎、徒歩や自転車にシフトする回数が増え定期の元が取れないと定期券を買わなくなります。そうするとますます鉄道を利用するのをためらいます。鉄道ダイヤは本数が多く利用時間が早朝から深夜に及んでいるから安心できるのです。
メガ都市の東京圏、大阪圏はとくにそうです。走らせれば需要は喚起できます。コロナ禍での飲食店の時短の時期だけに、終電繰り上げはとどめておくべきです。

鉄旅の原点大阪万博の迷子 阪急電車

私は熱中すると衝動的で周りが見えない。忘れ物も多く、一人でフラフラする。小学校時代テスト等の成績はいいが、かたずけるとかできない落ち着きのない子でした。今ならADHD気味といわれても仕方のない子でした。

1970年大阪で万国博覧会が開催された。それは当時小学5年生だった私にとても魅力的なイベントに見えました。近未来のさまざまなパビリオンは紹介記事をみるだけでわくわくしたものです。京都の小学生なので一度遠足で、少しだけ初見体験をしました。行列のできる有名なパビリオンは行けず、地味な外国館だけしかこの時は訪れりことができず後日家族でクルマに乗り再訪することができました。
しかし、人混みの大混雑の中、何と私はこの時フラフラして家族とはぐれてしまい、迷子になってしまいました。
小学校5年くらいなので迷子センターのようなところへ行くのはちょうど照れ臭い年だったのではと後から言われています。そういうところに駆け込むべきか、しばらく両親、兄を探しながらもものすごい人なので再会できる雰囲気ではありませんでした。クルマを探すといってもさすがにいくつもの駐車場のどこかわかりません。幸い会場マップはあり、お金もありましたので飲み物を買い電車賃くらいは十分あったので、とりあえずいくつかのパビリオンを見てひとりで帰ることにしました。
当時京都の自宅へのルートは2つ。阪急四条大宮駅が最寄でしたので、南茨木駅からのシャトルバス(南茨木への大阪モノレールはまだ未開業)、万国博西口駅(現阪急千里線山田駅の北側にあった)から淡路乗り換えで京都線のどちらか。西口経由は遠回りですが阪急だけで行けるのでバスよりは簡単な乗り換えと判断して、暗くならない間に西口へ向かいました。鉄道地図や路線図を見るのは好きだったので淡路駅でも迷いはなかったのでしょう。無事自宅には帰りましたが、両親には心配もかけ後々も語り草なエピソードでした。
私の鉄旅の原点でした。
なお大阪モノレールは1980年の開業で、この時会場内交通として環状モノレールと、遊覧ロープウエイもありましたが乗っていないと思います。

松茸食べました

例年せいぜいお弁当の薄いスライス程度ですが、今年は土瓶蒸しとすき焼き食べ放題でたっぷりいただきました。
食感はそれなりですが、他のキノコに比べても値段がはるだけ美味しいわけではないとは思います。
価格と需要のバランス。
まあ本日はお休みで、スタミナ補給とリフレッシュ。
ひさびさに海も見ました。

いくつになっても旅は終わらない

イヤなこと、モヤモヤしたことがあれば少し旅に出たら良いと思います。
海外とか泊りでなくても、今なら人混みを避けローカル線の乗り鉄や、田舎道をドライブしたりがいいでしょう。
朝少し早く出たら結構遠くまで日帰りできます。山や海、森や川、自然を愛でたり、自分とは違う情景に生きる人を想像するだけで少し気持ちが楽になります。
どんなにトシをとっても,人生の旅は続いています。

滋賀石山寺

センチメンタルになると、昔の部下を訪ね石山寺を歩く。紫式部のいにしえの物語に想いをはせ、思い出す昔の話とか、会えなかったあいだの他愛ない話しをする。雄大なびわ湖や滔々と流れる瀬田川を寄り添って眺めるだけで落ち着く。
どんなに美しい花も紅葉もやがては枯れ落ちる。それまでお互いもう少し精一杯走ろう。

世界中の言葉が美しい

世界にいったいどのくらいの言語や方言があるのでしょう。

私の住む関西でも、京都、大阪、神戸や府県ごとは微妙に違い。同じ府県でも旧国によっても少し響きが違う。
これが他の地方へ行くと全体にかなり音まで違う。九州や東北などの人の方言も特徴的ですが、やはり女の子など甘えるときは方言が可愛いです。海外旅行はあまりしてないのですが、外国の映画の俳優さん、子役なども言葉は違えど可愛いです。

首都圏や都市部への集中が進み、SNSやメディアの普及で方言が減っていくのはなんだか寂しいものがあります。人間の最も優しく、可愛い響きは標準語というよりもネィティブな方言のような叫びにあるような気がします。

地方鉄道頑張れ!

地方鉄道にはJRの地方鉄道。赤字ローカル線ということでJRから切り離された第三セクター。同じく整備新幹線の並行在来線として切り離された第三セクター、そして元々の地元中小私鉄に分けることができます。
4分類のどこもが厳しいところです。
三陸鉄道も全線開通したと思えばまた不通区間ができてしまう。芸備線、豊肥線等災害のあと復旧が遅れているところも昨今の自然災害の多さが原因で増えています。経営難での廃止もローカル私鉄やJR中心に増加傾向です。
駅があって、通勤や通学で小さいながらも町の核、中心だったところは、町自体が寂れていきます。モータリゼーションの時代でも鉄道駅のない町は厳しいものがあります。
実際に鉄道の駅がなくなり、その駅前に小さな商店街があったのが消え、バスで通学も買い物も町民が不便がり転居があいついでの廃村の例もあります。
鉄道の駅は昔ほどは賑やかではないですが、赤字でも地元の交通弱者を支えていたのです。
実際によほどのマニア、乗り鉄でないと乗車しての応援は難しいです。遠隔地からの記念乗車券やグッズ購入、自治体へのふるさと納税で3セク鉄道等へ支援できるなら応援していきたいものです。安易な廃止よりも、地方の生き方としての総合的な交通体系を政府は検討していただきたいです。

世界にはまだ見ぬ絶景がある

コロナで旅は制限されてるけど、外国からの旅行も、海外への旅も政府は早く全面解禁したいところです。
GOToキャンペーンの第4弾くらいでトラベルの海外版がくるのではと思います。呼び水があって今最も苦しんでいる旅行や観光産業の復活がないと経済の片肺飛行が続きます。
インバウンド需要に」関係ない人、オーバーツーリズムの弊害を」嫌う人はいますが、もう日本は海外との交流なく、進んでいくことはないのです。
時を見計らい、対策を整え、日本人には世界の美しい景色を見せ、海外の人には日本の観光を進めます。
旅ができる人は限られているかもしれません。それでもその人が伝えることが広がり、また旅をする人や感動する人が増えます。身近な旅の何気ない情景もまた、世界のどこかの人にっ感動を呼ぶかもしれません。
まだまだ、明るい未来の可能性はたっぷりあります、

【萬世永頼】いつまでも人の役に立つ:初代内閣総理大臣の思い

長浜鉄道スクエア(旧北陸本線、柳ケ瀬トンネル東入口にあった石額)伊藤博文の揮毫

日本人が歴史上最も頑張った時期はいつかと考えると、私は明治維新から昭和初期だと思います。欧米列強に追いつくため、政府も役人も必死に学び、努力し、働きました。鎖国をしていた日本が一気に侵略されかねない程遅れている矮小国家だと気づきました。明治の政治家や企業家は、目の前のこともその先の日本の繁栄も命懸けで考え、行動に打ちこみました。
殖産、富国強兵、近代化の旗印が鉄道でした。日本の国土がまた、さして大きくない島国の上、山が多く平地が少ないことは、フランスやドイツ等を見た使節も驚いたことでしょう。
産業を興し、貿易や軍備を進める上で,港と街や工場を結ぶ鉄道を建設するのにも、山を迂回するかトンネルを掘らないと行けなかったのです。
【萬世永頼】(万年経っても永く頼む)「いつまでも人の役にたって欲しい」初代内閣総理大臣、伊藤博文の筆によるものです。明治17年に完成した日本で初めて1000メートルを超え中央分水界を越えた山岳トンネルとなった柳ケ瀬トンネルの入り口の石額です。今はルートは変わりましたが滋賀県長浜から福井県敦賀に至る現在の北陸本線の前身となっています。伊藤は宮内卿時代から鉄道推進派でした。こうして重要な港だった敦賀が東海道線と結ばれ、青森まで続く日本海縦貫線へと結実します。
初めてのダイナマイト使用がこのトンネルで、その後昭和初期の丹那トンネルや清水トンネル等の長大トンネルへこの経験が活きます。
地盤の難しいところや、崩落、湧水もあり、丹那トンネルは70名近い工事関係者の事故死の犠牲で15年の工期でようやくできました。トンネルの地上にあった丹那盆地のわさび澤や水田は渇水していましました。
多くの犠牲の代償として日本の近代化があったのだと改めて思い知ります。
機関車等でもそうですが、トンネルの工法においても削岩機、発破、シールドマシンを欧米から輸出するのではなく学び取り、自国の製作にします。
戦後の新幹線、速度が飛躍的に伸び安全性にも優れています。トンネルの工法は近年は進歩し、過去の難工事のトンネルの横に幅広で長大な新幹線や高速道路のトンネルができています。
昭和40年代の山陽新幹線六甲トンネルは最後の難工事でした。この時代でも40人以上の犠牲者を出していました。
開通後の事故の死者こそ出ていない日本の新幹線ですが、トンネルを掘る労働者はそれだけ大変な現場にいたのです。本当に日本の高度経済成長までをささえたのは、政治家や役人もですが、現場で命がけで使命感だけで働いた人や土地や水利を公共事業に捧げた人、市井の人々の涙ぐましいまでの理解と協力です。
いつの時代も、公共事業は強いリーダーシップで強引に進めないと、大きな国家的成功は描けません。確かに万人にベストとは言えず、犠牲や補償がつきまといます。それでもリーダーがしっかり説明をして明るい未来を語り、新しい未来の日本を共に築いていかないといけません。自分の選挙や派閥等目の前の小さな事しか見えない政治家ではだめです。【萬世永頼】まさに永遠に人の世の頼みとなる政治家が次代のリーダーに望まれます。


京都三条会商店街

京都の三条会商店街に実家がありました。
京都で最も長い約1キロ近い東西への広がりを誇る庶民的な商店街。
今は実家の店も人手に渡り、たまに訪れるだけです。近所だった友達や店の人たちを訪れる。
就職して他所の土地へいっても、里帰りで京都駅から市バスに乗り堀川三条のバス停で降りて両親の顔を見に行くのが楽しみでした。やはり実家でごろっとするのが一番気楽で落ち着きました。
私の小さい頃は食料品等の買い出しでにぎわう、京都市の北部や二条駅からの山陰線沿線まで商圏を持った地域最大の商店街でした。スーパー等の台頭が遅れる京都で長くアーケード型商店街は繁栄していました。それでも時代の波で昭和も後半にはジリ貧でした。寺町や錦のような繁華街ではなく、伏見大手筋のような集約性がない。ただ長いだけの商店街はやがてシャッターを閉めたままの店も増えだしました。
八年前に父がなくなりました。商店街の理事長を務めたこともあり、この街への愛着は誰よりもあったはずです。
世代がどんどん交代し、それでも若い世代が集客イベントをして活性化されました。
夏の夜店は関西に戻ったころ愚息らをはじめ子供たちみんなと大人も楽しむ大イベントでした。年を追うごとに拡大し人が増えました。地ビールやお化け屋敷、ジャズ等の音楽イベントなどもスゴイ人出だと聞きます。
生活必需品が大手量販に流れる中、スーパーやドラッグ、コンビニとも共存しながらこじゃれた飲食や雑貨が入ったりして独自色を強めています。
そんな変化を離れた場所で一人暮らす母に報告するように報告していたのも、母の急逝により終了しました。
街にはそれぞれ、昭和の時代から頑張った人たちの息遣いが残っています。