湖西線50年、北陸線、サンダーバード

 踏切のない高規格腺として、颯爽と開業した湖西線。今年で50年だそうです。雷鳥から名前の変わったサンダーバード681系683系もJR化後すぐの特急車両なので、快適さんは維持されていますが、かつては富山、金沢まで一直線だった名門特急も敦賀止まりの短い区間特急になりました。
 今は結婚した娘が高校生の時、七尾の友人の実家に遊びに行くとき、夏休みの繁忙期で全く予約が取れず、ほとんど立ちんぼでそれでも快適だったと言っていたのを覚えています。
そのJR西日本を代表するサンダーバードと、経由していた北陸本線が新幹線開通で三セクとなり大幅に区間が短縮しました。
 湖西線も50周年というと、通過する駅、施設もさすがに経年の疲れを感じさせます。
 北陸新幹線がいつ延伸するかどちらに延伸するかも定かではなく、681系も登場から30年をしてリニュアル工事はしているものの、これからこの短区間の連絡特急をいつまで続けるのか読めないところです。
 北陸線には、蒸気機関車が走ったさらに昔の旧線区間のトンネル遺構、湖西線にも前身ともいえる非電化の江若鉄道という私鉄の遺構があります。北陸新幹線ができると、今のサンダーバードは無くなりさらに世代が交代していくのかと思うと時の流れを感じます。
 最新鋭の特急と思われたサンダーバード681系、683系も新しい新幹線の最新設備の重厚な車両に比べれば、さすがに見劣りします。時代の寵児ともてはやされてもいつかは脇役に回り、引退、承継の時を迎えるのは、人も電車も同じです。

氷見、高岡、北陸応援

 北陸新幹線とサンダーバードの乗り継ぎ切符を使って夏旅です。
 富山県に入った新高岡から、キハ47系というディーゼル車に乗り、城端線、氷見線経由で、高岡から氷見へと海の見える絶景を眺めながらの小さな旅でした。
 京都は祇園祭のクライマックス前ですが、能登半島の地震被害を受け、元々過疎に悩む日本海側も地元が祭りを支えています。
 なかなか、都会とは違い、運行本数もまばらで、観光に頼るだけで街が活性、復興とならないかもしれませんが、少し行けばイオンもドラッグストアもコンビニもあります。自然も豊かでゆったりした時間が過ごせます。

京都宗仁地区

 

 京都駅から東へ僅か5分ほど歩くと、一等地ともいえる交通至便の場所に京都芸術大学が移転してきました。ここは宗仁地区と言われた場所です。
 大学からさらに東に入るこの建物は柳原という地域にあったことから柳原銀行と呼ばれたものです。現在記念館としてなってます。
 かつて、このエリアは京都市内でもインフラも経済支援も遅れたいわゆる被差別地域でした。
 今でこそ、鴨川は河原を恋人同士が均等感覚に寄りそう恋人たちのスポットで、木屋町や高瀬川は風情や活気のある歓楽街です。しかし、平安京の端の鴨川はかつて治水にも苦労をした土地で、定住するのは難しく、平将門、石田三成や石川五右衛門らの刑場の河原として知られていました。処刑に関わる仕事や、牛馬を殺し、革を細工する仕事は穢れた仕事として忌み嫌われて、不遇な土地を与えられて住まわされていました。その一つが平安京の京都市の南東部、宗仁地区です。
 言葉を選ぶこと、どうもためらい勝ちになりますが、どう表現しても差別の時代であり不適切な言葉や表現も溢れていた時代からのことですし、あまり表現を抑えても内容が伝わらなくなります。ご容赦ください。
 私の亡くなった母やら祖母などは戦前、戦後を通じて、この地区について他の噂されていたいくつかの地域同様「近づくな」と言い伝えられて来ました。京都の旧市内に住んでいた人にとって、他のさまざまな都の慣習と同様に、伝わっていったものなのでしょう。
 そしてそう言った差別は、結婚や教育、ビジネスの場面にも暗然と存在していたのです。

 インフラの贈れたこの地区には、昭和の高度成長期でもバラックのような建物がほとんどで、雨風をやっとしのぐものの、エアコンはおろか、上下水道、ガスや電気のライフラインまで遅れて、今の大災害にあった被災地の避難所以下のレベルのインフラが、高度経済成長も終わり、バブル景気頃まで整備されずに残っていたのです。
 京都市が中心に、立ち退きを進めて多くは公営住宅に生まれ変わりました。外観の変化とともに随分と昔のような差別は減ったとは聞きます。
 そこまで至るのに、多くの苦労があり、いろいろな政治のかけひき暗闘があったとも聞きます。
 現在、写真の建物は、同地区の皮革業者などが融資をうけるために創業された日本で唯一の差別地区のための銀行でした。
 都は美しい、政治や観光、宗教の中心でありながら、上品さゆえ一方で穢れを誰よりも忌み嫌うことで、根深い差別を産んだ都市でもあるのです。
 今も不自然に残る空き地や、バラックの住宅はあります。京都の町は、美しいだけではなく、格差解消の厳しい葛藤の場でもあったのです。差別とかイジメのような行動は、無意識の中に誰もがしてしまいます。そこに悪気がないことそのものも問題なのです。幸い、令和の世の中は、さまざまな視点で物事を見て、考えられるような時代です。
 情報は入手しやすくなりました。自分が楽しみ、稼ぎ、自分の立場を守ることが果たして、人を傷つけることがないか、さまざまな視点で考えることも大事でしょう。
 

涼しい国を思い出す

 とにかく、日本の、京都の夏は蒸し暑いし、梅雨が明けたらもっとジリジリと熱いので、考えただけでイヤになります。
 寝苦しい夜に、かつて新婚旅行で行ったスイス?や子供が小さい頃の奥入瀬とか白神山地などをゆっくり旅している夢を見ました。
 結局、目が覚めると暑くて寝られなくなるのですが、あの夢の続きはもう一度みたいという感じが残りました。
 パリやローマ、ドイツの都市などは、異文化としては面白くてももうわざわざ行きたいとも思いませんが、スイスの山々や登山電車などはお金さえあれば何回でも行って乗ってみたいです。
 ヨーロッパの川って何となく護岸が工事されているのが見えなくて、平地をいきなり清流が滔々と流れる感じがします。
 夢と妄想、気持ちの中では、暑い日本を旅立ちたいです。

近江鉄道 近江商人の里を走る

 近江鉄道は滋賀県を走るローカル鉄道で、路盤や線路が脆弱なのか老朽化もあり電車がガタンコトンと揺れるため『ガチャコン』の愛称で地元に親しまれています。
 新幹線駅のある滋賀県北部の米原駅から彦根を経て滋賀県のびわこ線からは離れた湖東平野を走り、県南東部甲賀市貴生川でJR草津線、信楽高原鉄道と結ぶ、電化された90キロ近い全長をほこるもののほとんど単線でワンマン列車です。
 地元の買い物や通学、通院、通勤に支えられています。土日はスマイルチケットという1日乗り放題の切符を900円という破格な値段で観光客向けに売っています。片道でも元が取れる長い路線で、その他にも車両や列車でイベントやグッズを企画したりもされ努力していますが、残念ながら多くのローカル線のご多聞にもれず鉄道部門の赤字は厳しいようです。廃止や存続のための上下分離方式、自治体負担も検討されています。


 そんなローカル線ですが歴史は古く、明治33年には官営鉄道の東海道線にわずかに遅れながらも。彦根~貴生川間の主力の本線は開業しています。
 近江商人を描いた『てんびんの詩』の映画、昭和50年代制作で大正時代の設定で、すでに主人公が中学卒業時に大阪へ丁稚奉公に出る友人をえちがわ(愛知川)駅で見送るため話す光景があります。電車は出てきませんが、この時代の鉄道の重要性が分かります。
 近江商人の発祥の地で、出世した企業家のふるさとである現在の東近江市、日野市も結んでおり、この地に早くから鉄道ができたのも分かります。
 経営は昔から苦しく。堤さんが滋賀出身でもあり、西武グループの傘下に入りますが、車両の譲渡などもありましたが、基本的にはメインルートともいえる米原から京都や大阪に向かう高速で大量輸送の新幹線、東海道線にはかないません。湖西を高規格で特急も走る湖西線にも設備や車両では大きく劣ります。
 古い車両や駅設備を、近江商人の家訓の質素さのように使い続けています。
 愛知川や豊郷、五箇荘(写真)あたりでは新幹線がびゅんびゅん走る下で、長閑に1時間に1本の2両編成のワンマン電車を待つのでです。
 五箇荘には近江商人の屋敷などの街並み、豊郷にはヴォーリス建築の建物など、観光資源もあるのですが、いかんせんJR駅、新幹線駅も遠く本数も少ないので厳しいところです。
 駅舎の壁やベンチを町の人がキレイにしているあたり、本当に近江商人の節約や奉仕の土地だと痛切します。
 ごく一部の方が、構想されていた京阪奈線をなぞり、北陸新幹線の延伸問題の一つの選択として、米原ルートをその後、近江鉄道の地盤、信楽高原鉄道を経て、小浜ルートでの京都府駅の松井山手につなげる案を語られています。
 私は中止になった栗東新駅より、新幹線直下に駅がある五個荘駅が滋賀の第二の駅なら良かったと思います。
 北陸新幹線延伸米原ルートも東海道新幹線乗り入れではなく、近江鉄道路盤や並行した区間経由はなかなかのアイデアだとは思います。
 この写真、『五箇荘駅』、行き違いの2つの車両と、駅の向こうの高架橋を新幹線が走っています。
『てんびんの詩』の時代とはいずれにせよ2世代、3世代、隔世の未来がここから枝分かれするかもしれません。
 

近江商人の街五個荘町『てんびんの詩』が『ふてほど』にならないように – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

北条鉄道 長閑な田園の癒しと戦争の爪痕も

 ずっと思い続ける異性のような存在、あるいは故郷のような落ち着きを与える場所。
 初めて訪れた時から、そう思い続けていました。兵庫県加西市の旧国鉄北条線今の北条鉄道はそんなロケーションです。
 最初の出会いは、仕事のクルマで営業に走っている途中、加西北条にある取引先のイオンモールからの帰り田原駅近くの踏切で停車した時です。
 駅も可愛い木造の無人で小さいのですが、そこをトコトコと1両のディーゼル車両が走っていきました。1時間に1本のダイヤで踏切通過に引っかかる確率も低く、滅多にない経験に同乗していた上司や女性も『癒される』『映えますね』と思わず呟かれました。
 いつか、あの列車に乗ってみたいと思っていました。それが運命的出会いでした。その後、毎年のようにこの鉄道を訪れます。

 北条鉄道株式会社(ほうじょうてつどう)は、加西市・兵庫県などが出資する第三セクター方式で設立され、兵庫県で旧日本国有鉄道(国鉄)特定地方交通線の鉄道路線を運営している鉄道です。法華口駅・播磨下里駅・長駅では大正時代以来の木造駅舎が現役で使用されており、播磨下里駅と長駅はプラットホームも同様です。法華口駅には地元の方が駅構内にカフェを営業されています。それぞれ駅舎には待合室もあり、いろいろ展示があったり地域の活性の拠点として残っていて、国鉄時代の繁栄が偲ばれます。
 最近ではキハ40系という気動車をクラウドファンディングで行き違い設備運用のためJR五能線からはるばる購入されました。イベント列車や乗務員体験、パンの車内販売など、個性ある三セクとしていろいろやっているのです。終点の北条町駅には本社があり、さまざまなグッズ、記念乗車券も販売しています。
 長閑な兵庫県中部の田園地帯を13キロあまり、8駅だけの非電化単線ローカル鉄道ですが、頑張っている活気を感じ癒されるのです。

 もちろん、沿線の過疎化もあり国鉄からは切り離された盲腸線型のローカル路線です。起点はJR加古川線と神戸電鉄粟生線のジャンクションになる粟生駅ですが、加古川線、粟生線自体が存廃が噂される閑散路線ですし、私の住む京都、大阪神戸からでもかなり不便な立地で経営は楽ではないでしょう。平日は通勤中心なので、定期券購入にポイントをつけるなどの繋ぎ止めにも躍起です。

 長閑で古い癒しの駅が残る北条鉄道ですが、第二次大戦中、悲しい大事故が発生し「軍事機密」を理由に秘匿されていました。網引駅近くで起こった列車の脱線転覆事故です。多数の死傷者を出した列車事故として報道されたものの、原因や経緯などは闇に葬られました。当時最新鋭の戦闘機「紫電改」が墜落したのでした。訓練中着陸しようとして人を避け、再離陸したもののギリギリの燃料しか搭載していなかったのですぐに失速し、不時着したため線路に損傷を与えたために起こった事故だったからです。「紫電改」搭乗の操縦士や列車の乗客ら12人が死亡し、62人が重軽傷を負う大惨事でした。軍の機密として戦闘機不時着は長い間公表されず、地元紙の神戸新聞ですら、脱線転覆事故が発生したということと、死傷者数、死者氏名を掲載したのみでした。目撃者によると、駆けつけた兵隊たちは乗客を救護するよりも先に戦闘機に田んぼのワラを被せて隠蔽を図ったという話です。
 特攻出撃の知念へ向かう飛行場が兵庫県にもあったことも、この鉄道の1日乗車券で網引駅に降り立ったことで初めて知りました。
 ゼロ戦と並び、戦闘力も防御力も増して戦争末期の日本が誇った戦闘機「紫電改」ですが、終戦間近のこの年、搭乗員も整備も開戦時ほど熟練していなかったのも悲劇の一因ではと想像します。今、平和を祈念する施設と、鶉野飛行場の後も徒歩で散策できる範囲にあり、網引駅には碑が残り、機関車の動輪の北条駅に保存されています。
 土日の観光シーズンでも、数人の乗客の北条線に昭和20年立ち客もいる超満員200名近い乗客がいたことにも驚きます。花や緑に彩られ、田園が美しいローカル鉄道に、悲しく切ない物語もあるのです。
 今日と明日、未来へ高校生や旅人を乗せながら、戦争の記憶を伝える役割も忘れず、今日も北条鉄道はコトコトゴトゴトと走っていきます。


 

整備新幹線4 前代未聞の孤立新幹線

 1年ちょっと前の2022年9月華々しく開通の西九州新幹線です。しかし実は全通までは最悪の情勢で孤立新幹線のまま放置されそうなのは、鉄道ファンや地元以外ではあまり知られていません。そう延伸ではなく、西九州新幹線の場合は、長崎と佐賀県武雄温泉まで開業し、その先九州新幹線と合流し博多に向かう新鳥栖までの区間が未着工で、孤立したままで残っているのです。
 かつて鹿児島への九州新幹線も暫定的に新八代~鹿児島中央間が先行開業し、在来線特急とリレーする時代がありました。それでも全線開業はほぼ予定通り7年後でした。西九州の佐賀県部分のリレーは部分開業から1年過ぎても、工事どころか正式なルートさえ未確定で、全通の目処はたっていません。
 部分開業は佐賀県武雄温泉から長崎駅までの60㎞あまりの日本一短いフル規格新幹線です。5駅ありますが、昔の東海道新幹線なら2~3駅程度での距離です。本来は博多からの九州新幹線が新鳥栖で分岐して県庁の佐賀を経て武雄温泉経由で長崎に向かう予定でした。ところが、在来線直通のフリーゲイジトレインは頓挫してしまい、そもそも50㎞程度の佐賀と福岡も在来線で十分で、佐賀県に負担の割にメリットが少なく、長崎に行く通過の方が多いのに両県が同じ負担というのは、ある意味問題がありすぎなのです。
 ここでも北陸新幹線の場合と、形は少し違うけれども本質はよく似た課題です。あるいはリニアの静岡県の問題とも地元反対という意味では似ています。
 やはり、地元負担や並行在来線問題の整備新幹線の硬直したルールが足枷になってきます。
 北陸の場合と違い、ゴールである長崎まで新幹線は開通しながら、ハシゴ外しではないですが、そこに至るルートが繋がらずに孤立新幹線を産み、新幹線網としては態を成していないのです。その状態がこのままでは何十年も続くのでしょう。

元気です 連休のミニ鉄旅

 今年は3連休のあと3営業日を挟み4連休というやや遠出しにくいGWでした。
もちろん有給を使って10連休とか、もともと毎日GW(笑)とか休み取れない人もいるでしょうが、まあそれなり世間のニュース見たりくつろいだのではと思います。
 私は海外旅行はもうめんどくさいし、お金も要る上、時間もかかるし、円安が輪をかけてもうよほどのことがないと行かないタチです。動機はどうあれ、近場の乗り鉄でいろいろ発見、発券しております。
 GW期間は青春18切符の発売はないので、私鉄系、ローカル鉄道の乗り放題切符でむしろJRに乗らないゲーム感覚で移動しておりました。
 神戸電鉄、北条鉄道、水間鉄道と乗車させていただきました。ICカードなどの波が来ていますが、泰然なのか、本当に余裕がないのかツッコミが入りそうなところもあります。
 車両も、メンテンナンスの行き届いた阪急などの新鋭に比べ、昭和からの長い車歴のものもあり、頑張っているなと励ましたくなります。
 平成のはじめの特急もJRではだいぶ入れ替えも進む中、久々に南海ラピートに乗り、その色褪せしないデザイン、内装にも感心しました。先日テレビでその開発ストーリーも見ましたが、SDGsという言葉が広がる前にいろいろ長期運用も考えて作られています。沿線の人は見慣れているのですが、その異形にはハッとする斬新さが今もあります。

 人生も同じ、ローカルでも高齢でも「経年劣化」などの言わせない。明日からも頑張りましょう。

リニア、整備新幹線 日本の未来へ1

 先ごろ北陸新幹線が金沢から福井県敦賀まで延伸しました。リニア中央新幹線の工事も静岡県知事が反対していましたが、辞任されるということでようやく活路が開かれつつあります。
 静岡以外の品川、神奈川、山梨、岐阜、愛知は実はリニア工事はそれなり始まっています。静岡の問題を何とかクリアして私が生きているうちに、できれば大阪までの開業をしていただき、見たい乗りたいものです。
 とはいえ、その開業はいったいいつになるのか、静岡工区に限らず始発駅の品川や名古屋、新大阪などの大都市周辺でさえ、地震国の日本で険しい山をトンネルで抜け、大深度から一気に地上に出る工法が成功するのかもまだ予断は許さないところです。
 駅や正式ルートもまだ、名古屋以西、大阪までは確実なものではありません。さすがに京都市はあきらめましたが、奈良にできる駅はどのあたりか既存のどの線につながるかそこからどうなるか不明です。
 京都在住の私としては現実的にほぼ見られそうなのが、2030年過ぎの品川~名古屋開業だとして、東海道新幹線京都から名古屋でリニア乗り換え、1時間10分程度、これが最速最終形に近いのではと思います。
 京都から東京に関して、ビジネスや観光含め、あとは乗り換えなしの現存の東海道新幹線で富士山を見ながら観光色豊かな列車で2時間30分。奈良に駅ができたとしても、京都~奈良は単線区間もある在来線にスーツケース持ってか、私鉄の近鉄でしかもターミナルとして新設駅のようで不便そうです。そもそも奈良に止まるリニアは山梨や岐阜にも止まるリニアの「こだま型」で本数も少なく遅いもので、京都~奈良を在来線経由していては名古屋乗り継ぎよりも不便そうです。
 あとは新大阪までの本数の多い「のぞみ型」の最速リニアで、新快速などで京都に戻るのもありそうです。
 リニアに寄せる期待はさまざまです。

 他の整備新幹線とともに、内容が長くなりますので詳しくは次の機会にします
 現在未成の整備新幹線が3つあり、ここも並行在来線や環境アセスメント、地元の反対など大きな課題を抱えています。

 日本全国に高速鉄道と高速自動車国道をという主張を日本列島改造論で唱えたのは1970年代の首相田中角栄でした。彼の地元新潟は早々の上越新幹線が通りましたが、いまや日本の地方は首都圏一極集中でどんどん過疎化が進む、少子高齢化とともに衰退し、消滅が囁かれる自治体も増えています。
 何とかその辺を、新幹線開業や在来線の維持から可能性をさぐりたいです。

 

西武大津店の思い出

 西武グループの創業者・故堤康次郎氏の出身地である滋賀県に、県下初の百貨店として1976年にオープン。開業初日は約13万もの人が詰めかけたことからも、県民からの期待がいかに大きかったかがうかがえます。
 先日びわこ博が小学校3年生の時、大阪万博1970年が小学校の5年生でしたから、私はオープン当時は高校生だったのです。
 当時は京都の大丸、高島屋、藤井大丸、丸物といったデパートしか知らず、多層建ての繁華街にある形態ではない西武は新鮮でした。
 高島屋や大丸といった老舗が高級品も扱いながらも、子供向けの玩具売り場や食堂、遊具が充実していたためか、売り場としての西武百貨店はやや物足りない感じもありました。その後トレンディとか言われるブランドが席捲する少し前の話です。
 その後、会社に入り滋賀県で営業にも周り、30歳てま頃、平和堂や当時でき始めたダイエーや西友なども担当した後西武百貨店も担当することになりました。
 今思うと、バンカラな野暮ったい独身でしたが、滋賀で最も垢抜けた商業施設を背伸びして担当させていただきました。
 当時、カネボウ化粧品としても初めてHF(アシェフ)という百貨店ブランドを作りようやくチャネル別流通に力を入れだした時でした。全国的にも百貨店ではそこにしかない外資が強く、そこら中の店にあるカネボウや資生堂は差別化に苦戦していたのです。今では考えられない強引な販売方法のアプローチデモというのが頻繁に行われ、普段は2名体制の派遣でしたが、デモやイベントだと各課の美容部員が動員され、ノルマがかかり大変いキツイ仕事でした。会場の設営、撤去、毎日の朝夕礼もあり休日フル出勤となり、当時会社の拠点は彦根になったため彦根と大津を何度も往復しました。実家が京都なので実家に戻って通えばといわれましたが、大津~京都もハンパな距離で携帯もパソコンもない当時は家に帰ると連絡などが厄介でうまくいかないものです。
 それで実家の電話で長話して、また返信があると取り次いだ母が、「彼女」かと期待した子もいますが、それは全くの誤解でした。