阪神淡路大震災から25年に思う

1995年1月17日未明、私は京都府北部丹波地方福知山市のワンルームマンションのハイルーフベットで大きな揺れを感じました。営業で兵庫県の丹波篠山地区などを担当していました。生まれて初めて尋常ではない地震の経験でした。
いくつかの取引先が被災し、神戸地区の救援にも駆けつけました。
関西が、とくに阪神間が大変なことになっていました。
あれから25年。独身だった私はこの年結婚しました。私の年の近い後輩などもこの年、一気に結婚した人が多いようです。
普段一人で何でもできると思っていても、こんな悲劇を見るとやはり不安になりパートナーを求めるものなのでしょうか。
それとやはり、亡くなった者と生き残った自分との差は何だったのか。生き残った幸運を感じ生きるとは天命や使命とはと考えてしまいます。
まだまだイケイケの時代の会社で、その日も受注コンペというパワハラまがいの営業を鼓舞する企画の日でした。なかなか今ほど、ガバナンスが効かない頭の固いおっさん管理職が本社の手前なかなか中止が決められず、何があってもと上に厳命されていた。「取引先に注文の電話を入れろ」みたいな頓珍漢なことを言うてましたのを覚えています。もはや敗戦が伝わらず撤退できなかった南方の旧日本軍みたいで、こんなおっさんが会社潰すのかと思ってたら本当に潰れました。
地震も怖いですが、融通の利かない人間が組織の上に何人もいると同じくらい怖いということです。
この阪神大震災という、直下型の大規模な地震が神戸のような大都市でも起こることで、様々な今につながる警鐘、防災システム、建築基準、保険などが生まれたり進化したりしました。
水道の蛇口、上方向と下方向で水が出ますが、阪神大震災以降標準が上に持って行くのになりました。上からの瓦礫で出っ放しを防ぐためです。
神戸市や兵庫県はまだまだ大きな復興資金の借金を抱えています。日本はこのころからバブル崩壊です。本当なら神戸の負債などとうの昔に返してるはずが、その上に東日本震災です。
日本の終わりの始まりだったと言われないように、東京五輪から令和の頑張りに期待しましょう。

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