カネボウとともに歩んだ人生4
昭和から令和にかけての各時代、カネボウ化粧品の営業現場にいました。
昭和57年、まさに昭和のモーレツ営業の大阪第一南販社というところに転籍配属されました。
今の営業と、本質的には違わないのですが、まず男性ばかりで夏も背広にネクタイ。クールビズなんて無かった時代です。
毎月15日が売上〆、別に月末の売上〆も中間にあり、返品の〆切が月初めにあり、こういうものに追われるスタイルでした。今でも悪夢のように思いだします。「〆だけど足りない」どうしよう、月末〆は空打ちのような売上計上で返品で誤魔化せても、15日〆は末か(口座振替日)にお金が入らないと行けません。なかなか毎月の報告も大変でした。
昭和なんで、人間関係の占める部分が多く、顔を売り人の良さにつけこむ、汗を流すと何とかなる時代。相手も安定した利益の幅があり、お金も持っているけれど在庫もあるというそれはそれで難しい時代でした。
牧歌的と振り返るほど良い時代ではありません。週休2日でもなく隔週に日曜日となぜか月曜日が休みになる変則週休2日程度。残業代のでないサービス残業は毎日4時間以上深夜に及びました。というか営業は外で休んで、遅く会社に帰り幹部の帰りを見計らって仕事をしたり帰ったりでした。〆前だとのうこれは帰れません。テレワークなんぞとは遠い世界でした。
人間を育てる側面もあったかもしれませんが、私はダメでした。
ただその昭和の営業、その力がアダとなり粉飾へと駆け上っていく。そんな苦しさを昭和から平成への時代で映画を極めた化粧品事業にも影を差していくのでした。
商品の架空売り上げが海に浮かんだとかいいうのも実際にありました。そして商品、カネ、女性関係で退社する人間も沢山いました。
もちろん随所で成功してのし上がった人間もいますし、各人の運と力量、相性やタイミングもそれぞれだったのでしょう。資生堂は待遇はいいようでも決して行きたいとは思わない。コーセーはまだまだ個人経営で今ほどの勢いはない、外資のマックスファクターがP&Gになる前でここも泡沫でした。
最後の社長となった帆足隆氏などは伝説のカリスマ営業マンで、粘りと熱意で突破するタイプで上に立てばパワハラになりやすく、下につくものはどうしてもイエスマンになり、事なかれで従い粉飾の温床となるのでした。