コロナ感染拡大でどうなるかと気をもませたオリンピック。ようやく開幕しました。深夜までの開会式は、セレモニー、選手行進、会長らのスピーチと長時間にわたりこれも物議をかもしました。
式の演出、進行等はある程度長めの尺の決まった中で、開催国の意気込み、文化芸術や伝統、最新技術までテンコ盛りでした。これが賛否両論で、ネット上はまあ否定の方がやや(かなり)多い印象です。これからアスリートが頑張り、感動を与えてくれるから四の五の言うなとの声もあります。
開会式の芸術的な部分やテクノロジーの部分は人の感性、知識のあるなしやら感じ方にもよります。
まあ多くの予算が投じられた開会式であったことは衆目の一致するところで、「コンパクト」や「復興」というテーマは感じられなかったように思います。
これからのアスリートのパフォーマンスにしろ、人によって「不甲斐ない」ととる人も「感動した」という人もいるでしょう。
津波や原発事故を経験した人やコロナ禍で医療が逼迫した面を見てきた人が、これだけの開会式を日本で行えたことに感動している方もいないとは言えません。
しかし、巨額の税金、お金がかかり過ぎている上に、そのお金が復興には回らず、広告会社や制作会社、五輪関連の組織にだけ潤沢に還元しているということをもう多くの人が感じています。
演出家の過去のコントをめぐる突然解雇をはじめ、女性差別発言等、主催側に対してどうしても厳しい目がいくのはこういうところです。スポーツに関係ないパフォーマンスが延々と行われる開会式に当然賛否ありますが。そこで良かったと世界の誰かが思って、「いいね」投票したり、募金したりして「復興」に活かすシステムはできなかったのでしょうか。
すでに日本は「復興」しているというなら、原発の非常事態宣言下に低賃金で従事したり、復興途上の仮説住宅にいる人に、いますぐにでも高額の報酬を還元すべきとの声にも頷けます。
それでも、200もの国と地域がっ出ていれば多くの国は、復興途上の日本より恵まれていません。メダルはおろか、競技に参加するのがやっとの国が過半です。アナウンサーの国の紹介も平板でした、もう少し国の状況を説明し、テレビを見た人が各国に応援できるように国別のデータはすぐ字幕やデータ放送が出るようにできそうなものです。
ミャンマーやシリアが今どういう政権下で選手を送ってきているのか、本当のところは分かりません。
衣装や表情、人数等に国の雰囲気は伝わります。そういう面では入場行進はメダル争い以上に参加の意義をもった祭典の中心です。
メダルの数の競争はもういいのではないでしょうか。せいぜい気にしているのは20か国くらいでしょう。こんな数でいまさら国威は上がりも下がりもしません。
「アスリートは頑張っている、アスリートに罪はない。アスリートがひた向きに国を思い競技する姿に感動する」
それを共有、強制、洗脳するような報道になりがちです。アスリートとだけ言ってすべて許されるなら、ナチスのオリンピックでも許されます。
国威を上げるためだけならもう日本に今さら要らないと思ってしまうのか、まだまだメダルを集めたいと思うのかはやはり感じ方の違いです。