2004年当時の連載でもう20年近く前の本になります。分厚く、最近の『コロナ論』1~5に比べても1章ずつのマンガの内容が濃く、読むのもわりと時間がかかります。小泉内閣時代で、普天間でもめた民主党政権前であり、著者はまだ保守の論客でありながらアメリカ隷属からの自治を目指すスタンスで親米保守とも距離をおきだしたころです。
この一冊を読みながらも、コロナや戦争の問題、国葬の話、原発やエネルギーなどいろいろな論争が思い起こされました。
平行して読んだ岡本太郎の写真集やエッセイも、素朴な時代の沖縄とやはりそこから大きく立ちはだかる基地の問題を避けて通れないものだと思いました。
私は戦後、比較的恵まれた時代に生まれ、食うに困ることはなく、喉が渇けば自販機もコンビニも近くにある冷暖房完備の住居に特に不自由なく暮らしました。
学校や会社も今から思えば何とか辞めずにやっていけました。本当に着の身着のまま、食うや食わずの貧しさの時代『イモ・ハダシ』にと言われるとやはりイヤかもしれません。
人間って楽したい生き物、また苦労して働くよりはずるしてなるべく働かずに生きていきたいというのが本音なのではと思うことがあります。
沖縄の基地依存は、人間の本質を垣間見ます。それは沖縄特有であるとともに、本土の凝縮でもあり、沖縄人も日本人であり同じようなものです。真面目なところもあるけど、原発の近くで国の援助で大金を得た人々、コロナで給付金や手当を貰い、一生懸命働かなくても給付でいつまでもお金を貰えると気付き、働かなくなった人。事象は違えど、どこか似ているのです。
沖縄で米軍に暴行された少女がいるという事実、原爆、原発、コロナなどさまざまな災害や事故、災厄で不幸になった人がいながら、横で火事場泥棒のような不労所得を貪る輩が常にいうのです。悲しい現実を知りながら、同様に悲しくなれず、便利な時代に甘えお金のある生活を昔に巻き戻すことができない。結局全ての人の業やわがままが時代を不幸にしているのかもしれません。
『イモ・ハダシ』論といわれる裸足でイモだけで食べる時代に戻れるかというと、基地やリゾートを捨て自然だけで今さら暮らせないという人の方が多いでしょう。しかし、米軍基地依存は一つ一つよく調べ、日本国家の独立にプライドをもってヴェイルを剥いで、少しでも自立した美しい国家を目指ささないと、あまりにも先祖に申し訳ないようにも思えました。
戦争を含めた、内容については次の本の紹介など別の機会でも触れます。