昭和17年、朝日新聞主催ではなく、国、軍の意向を受けて文部省が主催する幻の「夏の甲子園大会」がありました。朝日新聞社の記録では昭和16年から5年間甲子園大会は中止とされています。「選士(選手ではない)交代禁止」「死球をよけるのも禁止」「延長無制限」 日本語によるジャッジ 準決勝、決勝がダブルヘッダーなど、今の高校野球の連投禁止のため予備日をおき、球数制限をする時代からは考えられない過酷なレギュレーションでした。
80年近くたち、関係者もほとんど鬼籍に入ってしまったため、知る人もいないこの幻の大会を、あるいは開催するため、あるいは出場するため、必死で奔走し、鍛え、戦い、戦争と言う逃れがたい運命に必死に抗う様が、実にしっかり、細かに描かれています。
参加すべての高校の対戦とその後の戦中、戦後への生命の慟哭ともいうべきエピソードが語られます。
夏の優勝旗を持ったまま戦争に入ってしまった海草中(和歌山)。エース富樫を擁し、大会がないながらも甲子園を狙う平安(京都)。猛将稲原幸雄の下、当時は「北高南低」だった四国勢で、初の徳島からの代表入り、さらには全国制覇を狙う徳島商業(徳島)。東の雄水戸商業、西の強豪広島商業、松山商業、最後の外地代表台北一中・・・。
日本の外地としてはかつて、台湾や朝鮮、満州からも甲子園大会に参加していましたが、すでに朝鮮や満州は野球部の活動を停止、移動もままならなかったとされます。
優勝旗すらなく賞状だけでも勝利を目指し命掛けて駆け巡る若者。この大会を制したのは・・・?猛暑の日のダブルヘッダー2試合め、決勝戦に臨んだエースは満身創痍、肩や腰に痛み止めの注射をち続けていました。
短く報われない夏を終えた球児たちのその後、関わった人の話は涙を禁じ得ません。