【東日本大震災10年】生と死 運命を分けた野蒜駅発205系電車。仙石線の思い出

東日本大震災の被災した鉄道と言えば、最後まで復旧に手間取ったた福島県を通る常磐線や、あまちゃんの三陸鉄道を思い浮かべる方も多いでしょう。
震災前は仙台にいた私は仕事のエリアが仙台~石巻間の往復も多かったので仙石線を思い出します。
塩釜、松島周辺をしばらく東北線と並走し、海岸の車窓も素晴らしい路線です。
比較的有名な話で私もブログで少し書いたことがありますが。あの運命の10年前3.11で仙石線野蒜駅を14:26同時刻に発車した上下の205系電車は「生と死」に分かれます。
野蒜地区で運転手の判断により上下列車で運命を分けた話。
どちらも野蒜駅を発車してすぐに緊急停止します。
マニュアルに忠実な運転手の指示に従い上り仙台方面1462S普通列車の乗客たちは、電車を降り指定避難場所の野蒜小学校を目指しました。
一方、下り石巻行き3353S電車はたまたま高台の位置に止まり、やはり指定避難場所へと誘導しようとする乗務員に、ある年配の乗客が「ここは小学校よりも高台にある。ここにいるほうがいい。それに歩いて避難したら途中で津波にあうかもしれない」と提言します。
おろらく運転手も咄嗟に究極の判断を迫られたでしょう。マニュアルを守らずに被災する可能性もあります。しかし運転手は最後は「電車の中で待ちましょう」と乗客の意見を聞き入れます。
野蒜小学校は津波の直撃を受け被災します。乗客の数名は命を落としました。下り3353Sは高台に僥倖ともいえる運命と究極の状況判断で生き残りました。
もちろん同じ時間の列車ですが上下で位置は違いますし、上り列車が逆行して3353Sの高台に向かうという選択肢はありませんから、1462Sがマニュアルを守ったから被災したのではありません。被災の運命は野蒜駅ですれ違った時点で決まっていたのでしょう。
仙石線の線路も駅も山沿いに移転して、東北本線の乗り入れ列車やハイブリット車両も乗り入れ野蒜駅は生まれ変わっています。
以後JRの「津波避難行動心得」に(三)降車、避難、情報収集にあたり、お客様や地域の方々に協力を求める というものが追加されました。
5年前、運転再開された仙石線野蒜駅。高台から遠くに霞む松と海、何だか目頭が熱くなります。人の運命、列車の運命のすれ違い、電車に乗るときなにげにすれ違う多くの列車にはその数だけの運命があり、乗務員や乗客の判断があるのだと思いながら眺めています。

夜行列車廃止にみるJR経営の半端さ  「アフターコロナの鉄旅」を考えて

長年青春18きっぷの使える、夜行普通列車ムーンライトながらが廃止となりました。コロナの影響でどんどん特急はじめ運休も増えています。終電も早まるばかりです。
夜行は保線の時間確保や駅管理コストもかかり、エリアをまたぐ分で収益の分配の煩雑さもマイナス要因で撤退が相次ぎました。今はJR各社のエリア内を走行するクルージング型の夜行列車以外は、サンライズ出雲瀬戸が残るのみです。
しかしこれは狭い日本で5社に分けてしまった弊害の一つです。旅の楽しみは長距離移動です。北海道や九州方面等への夜行列車は会社またぎでも当然必要です。費用や利益の案分は良く話し合い、今後の鉄道会社に夢と希望が無ければじり貧です。
まさに青春18きっぷのように、エリアを気にせず乗れて、車両も少しわくわくするような企画を作ってこそ、旅の意欲が生まれるはずです。
IC改札が増えデジタル時代で、切符を売ったところの総取りでなくて、距離や施設使用の分配は細かくできる時代です。
日本の鉄路は4島せっかくつながっているのです。
コロナ禍でテレワークしているJRや旅行会社の企画職員は、どしどし考えてアフターコロナの鉄旅を生み出して欲しいです。

世界の行き来が再び自由になりますように

日本と外国を行き来している方、今大変な難渋を強いられています。
しかし世界でも、日本でもコロナの最悪の感染ピークは過ぎ、変異株の出現はあるとはいえワクチン接種も始まり、集団免疫の壁ができつつある過程です。
旅行業、運輸、観光関連は周辺の飲食、その卸や第一次産業含めて厳しい状況は続いています。
感染拡大と旅行等の人の移動、人とのコミニュケーションのバランスは難しい課題です。
日本の感染者も検査が減った関係もありますが、ピークは過ぎています。
世界の人々が気楽に移動できる日が早く来ることを願うのみです。
TRAVELはTROUBLEが語源です。みんな好奇心をもって旅をしたいものです。

黄金の海:秋田八郎潟

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NHKBSP地方発ドラマで秋田の八郎潟を題材にしたのをやってました。都会に疲れた主人公の女性が、干拓や開墾の歴史ある自然豊かな八郎潟で出会い苦労や喜びを分かち合いながら癒されて行く話でした。
都会の恵まれた環境に比べ、農業や自然は厳しいですが、とにかくこの地は四季折々に美しく見るだけで癒されます。
琵琶湖に次ぎ日本で2番目の面積だった湖が、国家的プロジェクトで干拓され、多くの入植を受け入れ戦後の食糧増産で高度経済成長を支えました。その後減反の方向転換に迷い、ブランド米で黄金の海は輝き続けています。そんな歴史を知っていようがといまいと、自然は変わりません。
空が高く見え、新緑が芽吹きだし、菜の花や山桜の残る5月くらいがとりわけ私は好きでした。白樺やブナ等の木々が多いのもちょっと異国っぽい情景でした。

ゆったり移動できる電車を

東京の通勤地獄も少しは減っていくのかという今日この頃です。
新幹線の移動もだいぶ減って鉄道会社は青息吐息ですが、この機会にどうせ空気を運ぶようなのならいっそ大規模に車両を改造して欲しいです。
リニアが速度重視で、それでも中国に先越されそうな雲行きです。それなら日本は定時運行、安心安全、環境配慮とともに社内環境もアフターコロナに対応していくことです。
リニアは短時間で今さら座席数は変えられませんが、新幹線や在来線は思い切って3列席を2列に、2列を1列にして密をさけ快適にしてしまえばと思います。

終電繰り上げで鉄道離れ、結局は経営を圧迫する

新型コロナウィルス感染症拡大を受けて、年末年始とくに大晦日の週や運転の中止に始まり、それ以後3月のダイヤ改正でも最終列車の時刻を繰り上げの動きが出てきました。
保守作業の時間確保や、乗務員や駅改札の時間も当然切り上げできて一見効率は良いのですが、これは最終的には鉄道の利便性を下げて「鉄道離れ」を増やし結局は鉄道会社の収益を悪化させることになります。
市営の地下鉄などもこの動きです。
最終に乗れずタクシーや自宅の送迎、徒歩や自転車にシフトする回数が増え定期の元が取れないと定期券を買わなくなります。そうするとますます鉄道を利用するのをためらいます。鉄道ダイヤは本数が多く利用時間が早朝から深夜に及んでいるから安心できるのです。
メガ都市の東京圏、大阪圏はとくにそうです。走らせれば需要は喚起できます。コロナ禍での飲食店の時短の時期だけに、終電繰り上げはとどめておくべきです。

鉄旅の原点大阪万博の迷子 阪急電車

私は熱中すると衝動的で周りが見えない。忘れ物も多く、一人でフラフラする。小学校時代テスト等の成績はいいが、かたずけるとかできない落ち着きのない子でした。今ならADHD気味といわれても仕方のない子でした。

1970年大阪で万国博覧会が開催された。それは当時小学5年生だった私にとても魅力的なイベントに見えました。近未来のさまざまなパビリオンは紹介記事をみるだけでわくわくしたものです。京都の小学生なので一度遠足で、少しだけ初見体験をしました。行列のできる有名なパビリオンは行けず、地味な外国館だけしかこの時は訪れりことができず後日家族でクルマに乗り再訪することができました。
しかし、人混みの大混雑の中、何と私はこの時フラフラして家族とはぐれてしまい、迷子になってしまいました。
小学校5年くらいなので迷子センターのようなところへ行くのはちょうど照れ臭い年だったのではと後から言われています。そういうところに駆け込むべきか、しばらく両親、兄を探しながらもものすごい人なので再会できる雰囲気ではありませんでした。クルマを探すといってもさすがにいくつもの駐車場のどこかわかりません。幸い会場マップはあり、お金もありましたので飲み物を買い電車賃くらいは十分あったので、とりあえずいくつかのパビリオンを見てひとりで帰ることにしました。
当時京都の自宅へのルートは2つ。阪急四条大宮駅が最寄でしたので、南茨木駅からのシャトルバス(南茨木への大阪モノレールはまだ未開業)、万国博西口駅(現阪急千里線山田駅の北側にあった)から淡路乗り換えで京都線のどちらか。西口経由は遠回りですが阪急だけで行けるのでバスよりは簡単な乗り換えと判断して、暗くならない間に西口へ向かいました。鉄道地図や路線図を見るのは好きだったので淡路駅でも迷いはなかったのでしょう。無事自宅には帰りましたが、両親には心配もかけ後々も語り草なエピソードでした。
私の鉄旅の原点でした。
なお大阪モノレールは1980年の開業で、この時会場内交通として環状モノレールと、遊覧ロープウエイもありましたが乗っていないと思います。

松茸食べました

例年せいぜいお弁当の薄いスライス程度ですが、今年は土瓶蒸しとすき焼き食べ放題でたっぷりいただきました。
食感はそれなりですが、他のキノコに比べても値段がはるだけ美味しいわけではないとは思います。
価格と需要のバランス。
まあ本日はお休みで、スタミナ補給とリフレッシュ。
ひさびさに海も見ました。

いくつになっても旅は終わらない

イヤなこと、モヤモヤしたことがあれば少し旅に出たら良いと思います。
海外とか泊りでなくても、今なら人混みを避けローカル線の乗り鉄や、田舎道をドライブしたりがいいでしょう。
朝少し早く出たら結構遠くまで日帰りできます。山や海、森や川、自然を愛でたり、自分とは違う情景に生きる人を想像するだけで少し気持ちが楽になります。
どんなにトシをとっても,人生の旅は続いています。

滋賀石山寺

センチメンタルになると、昔の部下を訪ね石山寺を歩く。紫式部のいにしえの物語に想いをはせ、思い出す昔の話とか、会えなかったあいだの他愛ない話しをする。雄大なびわ湖や滔々と流れる瀬田川を寄り添って眺めるだけで落ち着く。
どんなに美しい花も紅葉もやがては枯れ落ちる。それまでお互いもう少し精一杯走ろう。