時代劇かサッカーか

 子供の頃、三菱ダイヤモンドサッカーという番組があって、関西だとUHF局で細々と放映していました。ワールドカップやイングランドリーグ(現プレミア)の試合をリアルタイムからは大きく遅れて(半年以上などもザラ)しかも前半後半に分けて45分番組でやっていました。子供には野球人気全盛の頃でしたから、コアなサッカーファンでないと見ていなくて、戦術もテクニックも今とはだいぶ違いますが、芝生もキレイでパス回しや、シュートの精度などは今見ても面白いレベルだったとは思います。
 親や兄弟、祖母などとチャンネル争いしながらの観戦でした。大河ドラマもですが、昔は時代劇や戦中のドラマも毎日のように各局でやっていました。

 今は時代劇は衰退し、歴史ものというと大河ドラマぐらいになりました。

 今回の大河も、いろいろ物議を醸していますが、非常に若い人気の俳優が出ています。それでも、食事時に見てると子供世代は見向きもせず、DAZNなどで欧州サッカーを見ていました。
 チャンネル争いはないですが、少し別の嗜好も話しながら家族でテレビを見るということが無くなった時代で寂しいような感じです。
 時代が移ったなあとは痛感します。

公務員なら37年も続けられなかっただろう

 会社時代の上司が、年賀状に「前立腺がんで4カ月半入院した」と記されていました。電話をしてみると。大変感謝され懐かしがられました。
 しかし、まあ若くして切れ者の本社エリートから関西地区の総責任者となり社長候補の一人とまで言われた方でしたが、声や話の内容はさすがに老いた高齢者のものでした。
 10年ぐらいの先輩やそれ以上の方は、激務をこなしながらも60歳で定年で少し楽な延長をして優雅にリタイアされている方が多いです。この上司の場合は職階も上ですが、10年くらい上の世代になると、退職金や年金の額も違いますし、関連会社も含め、終身一企業でしか働いていない方が多いです。

 平均寿命も違いますが、先輩方も定年後優雅な年金生活と思われても、楽しむ期間は意外に短く、鬼籍に入られたとか、患われている方もよく聞きます。

 65歳にして、「裁判所でフルタイム事務官やってます」などと言うと、驚くあきれられる反応がよくあります。

 私の場合60歳で、再雇用は選ばす民間企業を定年で退職しました。同年代にも、そのまま勤め無い人もおれば、再雇用の道(役員や、定年なしの会社の人も含む)を選んだ人もいます。私は65歳の今の年度まで5年別の仕事で働いたことになります。
 アルバイト含め、こういう働き方の人もいます。もちろん、自営業など、まだまだ働いている人もいますが。大学を出て37年の60歳、42年の65歳区切りをつけた方は多いでしょう。
 42年同じ会社という方にも尊敬と驚きに値しますし、その方はそれが当たり前と卒業されたのでしょう。
 私が37年で定年でも、いい加減長い間という感じでした。プラス、5年の中で今は裁判所公務員の2年目です、年金事務所も公的機関なのでみなし公務員とも言えます。37年民間企業で5年公務員のようなものです。

 公務員的難しさ、楽さや良い面もありますが、大卒でそのまんま公務員だったら37年は勤まらなかったとは思います。今やってみて公務の新鮮さと面白さ、合っている面もありますが、やはり長くは無理です。飽きます。高校、大学時代からもっと勉強して官僚とか裁判官とか検事、公立施設の仕事とか目指すなどというのは、も生まれ変わっても間違っても選びはしないでしょう。

 民間企業だって、大手とは名ばかりでカネボウという会社はブラックで入社した時からもう経営は傾き破綻の道でバブル時代の恩恵もありません。公務員よりは賞与も給料も少ない時代が長かったですし、倒産しそうになり賞与が止まり、給料一律減額という時もありました。
 それでもやはり自分は企業で売上を伸ばすためとか、企業業績のために、いろいろブランドやマーケティングを身につけて、提案のスキルを磨き、仕事してきたのが一番性に合って、輝いていたとは自負しています。

 でも人生はいろいろです。この年になって公務を選んだ人と、出会い関わったことは本当に良い経験でした。
 今年は66歳を迎えます。健康寿命というといろいろ考えないといけないですが、これからも何が起こるのか楽しみです。

書評:木住鷹人「危険球」 京都関連受賞作 古都と野球

【紹介文より】夏の甲子園出場をかけた京都府大会決勝。木暮東工業のエース投手・権田至の投げたボールが、境風学園の強打者・仁科涼馬の頭部を直撃した。「あんな球、避けられるでしょ」少年はなぜそのような突き放した言葉を放ったのか?
 鮮烈な京都青春物語と銘打たれ、京都文学賞の受賞作です。この投手と打者だけでなく、関わった審判、両校の友人、双方に感情のからむ女性らさまざまな人間関係が描かれ引き込まれます。

 何より、その投球と言動の「なぜ」が明かされる過程は、ミステリの謎説きめいた面白さもあります。また野球のルールや審判の苦労なども描かれ、野球ファンの視点からも楽しめます。そして「東寺と西寺」「衣笠球場」「伏見の酒蔵」など京都の文学賞狙いっぽい巡りも一興です。

 私も個人的に戦後間もない、京都にタイムスリップする小説を書こうとしていて、衣笠球場は題材にしたかったのですが、ちょっと先にやられたかなと思います。ここの知識が立命館大学に行ってる人にはそう珍しいものではないかもしれません。

 ネタバレになりますが、ゲームやルールとしての野球の展開がもう少しあっても良かったかなと思います。やっかみ半分ですが、もうちょっと深堀りできることも多いのではとも感じました。秀作であることには間違いないです。

 同時期に書店で並んでいる「スピノザの診察室」夏川草介の方は、京都「本」大賞なんですが、さすがにこっちはプロ経験も長い、やはり洗練もされていて、感動度合いとほのぼのもあり、京都情緒もいいです。こちらも超おすすめですね。

 今はたまたま冬ですが、京都というとやはり夏ですね。両作品とも何だか、じりじりするような夏の京都がイメージされます。

お正月お休みのスーパーを見ると少しほっとする

 正月の風情といっても、神社を回って初詣の賑わいはまあ毎年似たようなものです。セブンイレブンやファミマなどのコンビニはもちろん、イオンも1日から開いています。

 4日、5日、小さなお店やディスカウントスーパーのサンディや業務スーパーは31日の早めに閉店して、ゆっくり役所や会社の仕事始めに合わせてという感じのところもあり、それはそれで安心というか、みんなお休みを取られているなあとホッとします。

 逆にイオンやコンビニなどはブラックではと思ってしまいます。私などが化粧品会社に入った頃は完全週休二日制ではなかったですが、正月3が日はもちろん曜日に関わらず5日ぐらいまでは休みでした。初売りが2日から始まる仙台などは大変だなあと思っていました。それがいつからか、大手スーパーや百貨店はどこの地区も3日からの営業になり、初売り2日が始まりだしました。そしてイオンなどの大手は元旦営業も始めました。31日や正月3が日は特別手当やご祝儀も出して、店頭の販売員のシフトを組みましたが、1日なんてそんなに化粧品が売れるものでもありません。定価販売でしたから、おまけをつけた福袋などもセットしましたが、そうそう売れるものではありませんでした。

 少し今は働き方の改革で、イオン以外は元旦にそう力を入れるところも減りました。

 正月に空いているのはイオンぐらいという、妙な安心感もあり、カフェコーナーかフードコートで初詣帰りの休憩をしたりします。あるいはコンビニのイートインで安い珈琲での休憩とトイレ使用もよくします、外国人のアルバイトなども働いておられますが、良くシフト組まれています。これで24時間休みなしとは、いくつもの近隣店舗があって、よくやれるとも思います、

 どこも休みだと、多少の不便はありますが、セブンイレブンという店名由来の夜11時以降、あるいは早朝6時台より前に店を使うことは普通はあまりありません。元旦のイオンで買い物をすることもあまり経験している人は少ないのではと思います。
 それぞれの企業の緩められない戦略があるのでしょうが、巷間伝わるもは法令ギリギリの労働協約や契約です。一度24時間営業が崩れそうな時もありましたが、今後裁判での解釈次第では、ビジネスモデルが大きく崩れる時もくるでしょう。しかし、まだまだ経営者は強く、労働者やフランチャイズは弱い立場です。

 そういえばパワハラなど、社名を変えたブラック企業のクルマ販売店、性懲りもなく元旦営業で大々的にCMをしてました。日本人は真面目なのか、懲りないのかですね。商店街がお休みばかりで、正月休みなのか廃業で閉店なのかわからないシャッター通りになっているのも複雑な気持ちになりますが、正月営業はほどほどが良いのではと思います。

公害病訴訟、裁きはドラマだけではない

 刑事ものや法廷もののドラマは人気があり、毎クールいくつか放映され、映画にもなります。今年は特に、朝ドラでも法曹界が注目され、戦前からのさまざまは裁判の話もでました。

 朝ドラでヒロインも務めた趣里さんが弁護士役で主演した「モンスター」という番組も荒唐無稽ではありますが、いくつか法廷劇が取り上げられていました。

 最後のエピソードはラスボス的な存在が、大企業で環境というか公害の訴訟でした。「虎に翼」では、いろいろ戦前からの法曹界のエポックを取り上げていましたが、公害の裁判は取り上げていなかったので、大手企業がスポンサーの民放としてはよくやった切り口です。かつて堺雅人が好演した「リーガルハイ」でも名言を残したほどの有名な環境訴訟のエピソードがありました。
 しかし、水俣病を始め、高度経済成長期からの負の部分をもいえる、公害や薬害の裁判は実際には立証が難しく、相手が巨大企業や国家権力の場合は初動は大変な苦労だったと思います。原発でもそうですが、自然や環境を犠牲にしても工場を誘致しなければいけなかった都会と地方の格差もそこには見えます。

 正義と悪、右と左とはっきり分かるものでもなく、その場の当事者も良かれと思ったこと、科学や経済、医学の発展のために犠牲になってしまう者の哀れがあります。

 今の豊かさや医学の進歩は先人の、あるいはただそこに生まれただけで今も苦しむ死屍累々の上に成り立っているのです。

クリスマスソングを聞きながら

 12月も1週を過ぎ、いよいよ歳末感が強くなりました。買い物に行っても、BGMにさまざまなクリスマスソングが流れ、つい鼻歌にしてしまいそうです。それなり寒くはなりましたが、猛暑が長かったせいで紅葉の見ごろも遅くなっていましたが、天気図を見ると北海道や東北日本海側は当たり前に雪マークでした。

 季節の巡りも、時のうつろいも確実に来ているのです、昨日は昭和からのアイドル女優、中山美穂さんの訃報でした。

 この時期は、今年の漢字とか、流行語、ヒット商品などが特集され、振り返りをされる時期です。12月あたりの駆け込みは不利とも言われますが、気忙しい編集上は仕方ないのでしょう。多くの友人、恩師、著名人も今年亡くなっています。

 中山美穂さんは、もちろん現役でも女優、歌手でしたが、1985年14歳でデビュー、私が社会人になってしばらくした30代頃に10代でアイドルとしてブレイクしていました。
 1982年頃からアイドルがたくさん生まれる時代でしたが、今のようにグループで量産される時代ではなかったので、この頃の人気者は本当に今の50代頃の人にファンは多く、訃報にショックを受けている人も多いようです。流行語大賞になった「ふてほど」のドラマで過去に戻る設定の時代の、少しあとくらいの昭和末期から平成にかけてでしょうか。紅白歌合戦出場時の過去映像も出ていましたが、かなり未熟な歌唱で出ていたのが時代を感じられ面白いです。

 最近の日野正平さん、西田敏行さん、コミックでは鳥山明さん、楳図かずおさん、相撲の北の富士親方らも今年鬼籍に入られました。
 昭和からバブル期、平成不況、世界も日本もこの間どんどん変わりました。
 長生きだけが良いのでもないでしょう。記憶に残る人は多くの人に沢山の夢を与えてくれています。あまり悲しみや感慨にふけることなく、残された人は次の夢を追いかけることです。

 それにしても、芸能人やアスリートがハードワークで生活が不規則だったりで、短命なのは分かるけど、政治家は長生きのような気がします。激務ではないのかな。

 

 

名古屋プチ旅

 名古屋にいたのは、30代の前半の3年ほどで平成2年から5年の間で、当時の記憶がそれほど鮮明ではありません。

 その後も何度か通過、経由はもちろん、文化施設やイベントも含め訪れてはいますが、それほどゆっくり街を見ていません。まして、昔の会社時代は、歴史や文化もそう興味もなく、仕事をして飲んで食べて寝るだけでした。
 当時、主力だったアマノ薬品グループ、名古屋駅地下入り口の一等地でまだ、同じ位置(たぶん)で頑張っておられます、もっと狭い感じで、奥の事務所に入って店長と商談していました。30年以上前になります。

 名古屋から転勤してからも、早朝の移動経由時に、一度元部下の美容部員に会いましたが、さすがにもうみんな顔を知る人も当たり前にいないです。辞める直前のイオンなどのカネボウ、ソフィーナでももうだいぶ入れ替わってる経年ですからね、店も当時から何回も改装され、大手の合従提携もあるのでしょう。

 地下鉄は、だいぶ迷いました。昔は桜通線の名駅から一つ目の国際センター前最寄に会社があり、一つ東の丸の内で鶴舞線に乗り換えて、住んでいた独身寮のある庄内通まで載っていました。仕事でこのアマノの店舗に行くとか、会社帰りに名古屋駅に行く時は徒歩でユニモールという地下街を雨でも濡れずに歩いて行きました。この辺のハードはあまり変わっていあM線が、駅前はJRのドデカイビルが建つなど、印象はだいぶ変わりました。
 そして地下鉄も、当時は桜通線が最新の深い構造のもので、市域全体の営業キロも短く、当時京都の地下鉄が烏丸線だけだったのよりはそれでも長いですが、平成の半ばぐらいにかけどんどん延伸していき、2号線、4号線と言われていた路線が環状線になり、名城線となっていて、全国でも珍しい右回り、左回りと呼ばれています。JRに山手線など環状路線はいくつかありますが、内回り外回りと表記され、どっちが外なんかわかりにくいから、これは親切とも言えます。ちなみに日本の鉄道は左側通行なので、基本右回り(時計回り)が外回り、反対が内回りです。

 市電の古い車両を集めた、レトロでんしゃ感(市電資料館)に行きましたが、各地と同じく、昭和30年代の後半をピークに、昭和50年までにはどんどん各地の公営路面電車が、クルマに押され、地下鉄に置き換えられています。
 しかし、京都や、神戸、横浜などは都市の面積や、地形などもあるのですが、地下鉄網が中途半端です、名古屋の公営交通が素晴らしいとも言い切れませんが、京都のしょぼい路線と、それを作るのに大赤字になったあたりは、地下鉄も経営はどこもしんどいでしょう。名鉄、近鉄、関西の京阪や阪急などの地下駅や路線に比べ、駅や施設、車両にはそんなにお金がかけられないのが公共交通の難しいところです。大阪の合理化、改革されたメトロをみていると、トイレもキレイで、民営化で切り詰めて良くなっている気がします。

 そして、今回のメインの歴史文化散歩は、名古屋市制資料館。法曹界テーマの朝ドラ「虎に翼」のロケ地にもなった、大正時代のバロック建築、旧の控訴院、地方裁判所です。
 赤レンガ外壁、大理石の壁、ステンドグラスの窓、広いエントランスと階段などよくこんな建物が戦災を逃れ、公共施設として未だに残っているなと思いました。

 もちろん、独身時代の30年前にもあったのでしょうが、行ったことありませんでした。

 新幹線だと40分、在来線やバスで2時間あまり、関西からまあ近くて遠い大都市名古屋のプチ感傷旅行でした。

社員を大切にする企業は価値がある

 いまだに、業界や業種、職種、企業によってブラックやグレーの待遇のところがあるようです。雇用のありかた、労働管理面でグレーゾーンの多い、営業や流通業は働らきかたとして厳しい業界ですし、感じようではブラックでしょう。
 店舗を構えるということは、土日祝日休みの週休二日とはそうそういきません。それだけをとってもなかなか辛い人がいるでしょうし、ライフイベントの多い子育てなども大変です。
 私もメーカーに勤めた転勤族で、営業畑も長く、GMSなどのスーパー、ドラッグストア、ホームセンターなどを取引相手にしていましたし、名だたる企業の幹部、バイヤーもお相手しました。

 それぞれの企業に特徴があり、ダイエーやマイカル、そごう、ヤオハンなどが消えたのも分かる気がします。逆に、ローカルだった平和堂、イズミが生き残って地域の雄となり、全国区に負けていません。これら残った企業も、決してホワイトではないところも見てきていますし、ジャスコなども公私とも知っている人が多いですが、本当に生き残るのが大変な企業だと思い見ていましたし、イオンリテールとか、イオンスタイルとこじゃれた名前にしても、グレーさは変わりません。それでも生き残る企業はどこか人をうまく働かせる魅力があるのでしょう。

 ギリギリの線ですが、イオンは従業員や、取引先に対しても違法ではないですが、冷たく厳しいと感じます。ビジネスだから当たり前なのです。しかしライバルのイトーヨーカドー、私はよきアイワイといっていたセブン&Iグループは人の部分に負荷をかけず、優しい面があります。
 よく比較されるBIG2で、今はコンビニ中心の収益のアイワイ(セブンアンドアイ)と、大型モールのデベロッパーのイオンで実は比べにくいのですが、収益力や企業価値としてはアイワイが倍ぐらい優れているのです。
 この差も何となくわかります。アイワイはコンビニ以外に、人や手間と場所を使った商売をもうしないのです。本質的にブラックでないのです。
 つまらないことですが、イトーヨーカドーの社食の美味しいことは定評がありました。それに比べて、ひどかったのはダイエーでした。中内氏を評価する声も一部は残りますが、まず人を人を思わない扱いで時代遅れでした。
 そのダイエー、マイカルを吸収したイオンはまだやはり、規模と売上に拘り、人には優しくないのです。それは商品やサービスの細かいところに現れています。
 それでも一方の雄として生き残る、その雑さや人間味が全く嫌いでもありません。何より多くの地域にモールを作り、地域の経済や雇用を支えている。そんな中で魅力的な人やサービスが生まれることもあるから不思議なものです。

イオンのこと 働く女性と結婚 – 天使の星座

宝塚発同志社前行き19年前の惨劇 JR福知山線脱線事故

ミステリ作家、青崎有吾の「11文字の檻」という短編集の最初に掲載された作品「加速していく」は尼崎での鉄道史に残る事故をモチーフにしています。
 あまり、この事故を考察したり、素材にした作品はありません。

 福知山線脱線事故は、2005年(平成17年)4月25日にJR西日本の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 – 尼崎駅間で発生した列車脱線事故である。乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷した。

 なお、JR西日本では、「福知山線脱線事故」ではなく「福知山線列車事故」と呼称していますが、マスコミなどでは、「JR宝塚線脱線事故」や「尼崎JR脱線事故」などとも呼称されています。

 私にとっては、勤めたことのある地名としての福知山が路線名になっており、列車が母校の大学のある「同志社前」を起終点にしていることで、当時関西にはいませんでしたが衝撃を受けました。 

 本当の意味で真相はわからないところもありますが、鉄道は絶対安全安心な公共交通機関だということを思いださせる事故です。
 当時関係者には、事故にあった人は知らなかったのですが、やはり後輩の中に、ある日突然日常を奪われた人がいることを聞きました。
 大地震でもそうなのですが、運命の残忍さ、生命の儚さというものに思い入り、つくづく、残された人間が時間を大切に生きねばと思います。

広島県に安芸津という町があった

 昭和60年から約2年半、広島県に転勤して働いていました。広島県には広島市以外にも福山と呉に会社の拠点がありました。今で考えられないきめ細かい拠点施策の一貫です。呉に赴任した時は、今よりもさびれた港と造船の町だと感じました。アニメや、大和ミュージアムもまだなく、観光資源に乏しい上、造船の低迷で街の構えは広いのですが、全体的には活気のない感じでした。
 それでも、海が近いというだけで自然は豊かでした。今は呉市に合併された江田島や音戸島、倉橋島、能見島なども車で回りました。仕事がきついですが、竹原までの呉線沿線も営業エリアで、瀬戸内に海と山が迫ったおっとりとした風景は和みました。


 Nさんという細身で非常に色っぽい感じの部下がいました。取引先の社長さんが少し執着気味になるほど、美人でした。
 私はこの時、独身でしたが別の人に恋していました。どことなく薄幸で近づき難い感じでNさんはそれほど意識したことはありませんでした。
 ある日、Nさんのお父さんが亡くなったということで、上司と香典を持って実家のある安芸津町という港町に向かいました。

 Nさんの都会的なイメージとはかけ離れた田舎の町、坂の多い狭い道に、小さな家がへばりつくように建っていました。
 迎えてくれた、やつれたようなNさんの喪服姿は別人のようでした。
 喪服姿が美しいとかそういうのではなく、怖さと憐れさが勝っていました。この狭い家の、残された母親と、周りをとりまく何ともいえない閉塞感、重さのようなものに上司とともに圧倒される感じで、気分が重くなりました。

 静かな瀬戸の海は凪を迎えていました。日本にもこういう光景があるのかと、「砂の器」の映画を何となく思い出しました。安芸津町は今は、内陸の東広島市に合併されています。山陽線と呉線の山側、海側が平成の合併で一緒にされたのは違和感です。

 あの情景は今も残っているのでしょう。