秋田大雪の大館、能代の思い出

大雪のニュースを聞くと、秋田にいた頃の冬を思い出します。今年は北陸辺りも久々の大雪だが、東北の日本海側も厳しい寒さが11月の中頃から続く、たまに大雪になるのではなく連日寒く雪であり、横手等も雪は1Mはざらでものすごく積もってました。営業で秋田から大館、能代、鷹巣あたりに行くのはかなり命がけでした。のろのろ渋滞でガス欠になりかけたり、信号で止まるたびにツルツル滑ったりしてました。吹雪でホワイトアウトしかけたときもあります。
まあそれでも大きな事故もなく生きているんだから今となればいい思い出です。
男の子はいくつになっても雪が好きなのかもしれません。
京都でも雪が降るのは、ただ寒いだけより何だか楽しみにしています。
秋田には、かまくらもあります。能代、大舘で新日本紀行のNHKアーカイブでやってましたが秋田杉の化粧板や、曲げまっぱ等産業、文化も見ごたえありました。言葉も難しく苦戦してましたが、本当に貴重な経験でした。

鉄旅の原点大阪万博の迷子 阪急電車

私は熱中すると衝動的で周りが見えない。忘れ物も多く、一人でフラフラする。小学校時代テスト等の成績はいいが、かたずけるとかできない落ち着きのない子でした。今ならADHD気味といわれても仕方のない子でした。

1970年大阪で万国博覧会が開催された。それは当時小学5年生だった私にとても魅力的なイベントに見えました。近未来のさまざまなパビリオンは紹介記事をみるだけでわくわくしたものです。京都の小学生なので一度遠足で、少しだけ初見体験をしました。行列のできる有名なパビリオンは行けず、地味な外国館だけしかこの時は訪れりことができず後日家族でクルマに乗り再訪することができました。
しかし、人混みの大混雑の中、何と私はこの時フラフラして家族とはぐれてしまい、迷子になってしまいました。
小学校5年くらいなので迷子センターのようなところへ行くのはちょうど照れ臭い年だったのではと後から言われています。そういうところに駆け込むべきか、しばらく両親、兄を探しながらもものすごい人なので再会できる雰囲気ではありませんでした。クルマを探すといってもさすがにいくつもの駐車場のどこかわかりません。幸い会場マップはあり、お金もありましたので飲み物を買い電車賃くらいは十分あったので、とりあえずいくつかのパビリオンを見てひとりで帰ることにしました。
当時京都の自宅へのルートは2つ。阪急四条大宮駅が最寄でしたので、南茨木駅からのシャトルバス(南茨木への大阪モノレールはまだ未開業)、万国博西口駅(現阪急千里線山田駅の北側にあった)から淡路乗り換えで京都線のどちらか。西口経由は遠回りですが阪急だけで行けるのでバスよりは簡単な乗り換えと判断して、暗くならない間に西口へ向かいました。鉄道地図や路線図を見るのは好きだったので淡路駅でも迷いはなかったのでしょう。無事自宅には帰りましたが、両親には心配もかけ後々も語り草なエピソードでした。
私の鉄旅の原点でした。
なお大阪モノレールは1980年の開業で、この時会場内交通として環状モノレールと、遊覧ロープウエイもありましたが乗っていないと思います。

中島みゆき「悪女」の思い出

セレクトアルバム買いました。エール編と寄り添い編の2枚組。よく聴いた唄です。中島みゆきさんは「わかれうた」「アザミ嬢のララバイ」「悪女」など初期には哀しくやや哀れを誘う女性を描いた唄を多く世に出していました。
「悪女」もそんなに悪い女ではなく、一人で強がり寂しがっているような女性が悪女になりたいとの願望です。私が一番印象に残るのが「あした」という曲です。この歌詞も少し怖いような女性が出てきますが、やはりその実は哀しい土砂降りのような人生を味わったです。
この曲を聴くたび、私は実際に出会ったSという女性を思い出します。
強がりで見え張りで、S傾向も強い美人で仕事も良くこなされました。上昇志向が強く社内の時のトップに媚び上司に媚び、同性の一部からは徹底的に嫌われていました。どこか詰めの甘いところがあり、ばれやすい嘘をつくところが憎めない。化粧や整形(たぶん)、スタイルには気を使うものの喫煙もヘビーでお酒も強く、夜には強いが朝には弱いメンタルのバランスも悪くとても健康的とはいえませんでした。
そんな彼女と何度か食事をし、微妙な関係のまま夜を過ごしたことがあります。
彼女の家で昇進試験の勉強を教えることになったのですが、私はてっきる既婚者で知っていて旦那さんに挨拶するつもりでしたが、すでに別居していたのでした。
騙すようになったことを知った私の気持ちを、空気で悟った彼女は強引なことはしませんでした。ワインを飲み寄り添いはしました。
しかし敏感なところもあり。彼女なりの感性で私自身が妻を裏切ることがないことを感じ取るようでした。
甘える声は可愛いのですが。二人は永遠に交わらない平行線だとお互い気付きました。
深夜ではありましたが送ってはもらわず、最終電車には間に合い帰りました。その後長い間私は彼女の魅力と毒に悩まされました。そういう面では本当に悪女だったのかもしれません。

ケンタッキーのチキンが最高に美味しかった時代のクリスマス

ケンタッキー・フライド・チキンは1970年の大阪での万博に出店し、日本に新たな食文化をう持ち込みました。同時期のマクドナルドとともに、若者文化とともにファストフードというジャンルも生まれました。
1973年ごろからテレビコマーシャルも入り全国の都市部の拠点に出店しだしました、
我が家でも、小売店で共働きだったので外食というより店屋物代りにマクドナルドとともにケンタにも走りました。
鶏肉と言えば、手羽や唐揚げ、クリスマスにも実家の商店街の鶏肉卵店や総菜屋で買っていましたが、ケンタッキー・フライド・チキンの美味しさには家族全員驚いていました。
我が家が所属する地元商店街はケンタやマックが来るほどの集客が見込めない立地で、わざわざ電車や車で買い出しに出かけました。当時の人情で、地元の商店街で買わず街のデパートや新興のファストフードで買うのは気が引けこっそりと買いに行ったものです。
一般的にプロの料理店の出汁やソースなどが多種類出回る前の時代です。
素人の家庭料理では当時ケンタに歯が立たなかったのです。
実際に私の同級生は鶏(かしわ)屋だったのですが。これはアカン勝てんとあっさり商売を継ぐのをやめて田舎でペンションを始めました。
洋食にしろ、アメリカンスタイルのフードもまだまだ家庭に根づきだしたばかりの時代です。
日本のあちこちに大手チェーンを圧倒する個性的なグルメや、家庭でも手間暇をかければプロに負けない素材が揃いレシピの情報のある現代とは比較にならない時代がありました。
そんな子供心に夢なった、ケンタッキーのクリスマス。勇んで買いに行ってくれた父も母ももういないし、なんだかファストフードも何度もテコ入れしたメニューもありますが新鮮味も美味しさも飛び切りなものに感じることはありません。
やはり1970年代だから、語り継がれるほど懐かしい味なのです。
戦後、アメリカからの自由と豊かさの象徴のようにクリスマスの習慣は拡大し、お正月と連動して年末年始の大きなイベントになりました。今のなんでも揃う豊かな時代からすると、考えられない美味しさなのです。
あるブログでも同年代の方が何もなかった貧乏な田舎から出てきて、大学の先輩にケンタに連れていかれその味に衝撃を受けたという話には共鳴します。
今の世代の方も、爛熟の中大事な味を見つけて欲しいですね。

滋賀石山寺

センチメンタルになると、昔の部下を訪ね石山寺を歩く。紫式部のいにしえの物語に想いをはせ、思い出す昔の話とか、会えなかったあいだの他愛ない話しをする。雄大なびわ湖や滔々と流れる瀬田川を寄り添って眺めるだけで落ち着く。
どんなに美しい花も紅葉もやがては枯れ落ちる。それまでお互いもう少し精一杯走ろう。

閉店の悲しさ

長年親しんだ店、最近できたこじゃれた店。コロナの影響なのか、時代の流れや後継者不在などいろんな要因でしょうが、閉店の響きは寂しい。悲しいものです。
飲食店などそこで会った人、会話、それまでの思い出も含めて懐かしいものがこみ上げます。
飲食、観光を中心に自営の方は廃業も聞かれます。本当に心痛む話です。

3階建てが立派なビルに思えた時代

#京都#堀川三条

小学校の頃、校舎から眺めていた生命保険会社のビルがありました。3階か4階建てのビルでしたが、木造家屋が多い時代に未来的なビルディングだと思ってみてました。
生命保険会社のビルだったと思いますが、残念ながら今は跡形もないです。
写真は実家の近くのバス停、ここは父の商店が取引していた財閥系都市銀行の支店があった。バブル以前に隣の土地まで強引に買収して当時としては立派な近代的オフィスビルに建て直した。」ところが銀行として営業できたのはほんのわずか、統廃合や戦略的撤退か理由は忘れたがほとんど使われないまま空きビルになった。
今では回りのマンションから見下されるちっちゃな存在です。
都市銀行が街の商店街を相手にする時代ではないのでしょう。半沢直樹ではないが、この銀行も合併合併で名前も変わり今あの時代のバンカーはいないでしょう。

VISTAが見た12年

パソコンを買い替えて初めての投稿です。いろいろ不具合も多く遅くなっていました。バックアップもできなくなりさすがに決断しました。少し慣れないですが動作は早いです。
私はクルマもそうですが、とりあえず使えればそうマニアックには買い替えません。
今はとくにスマホでできることが増えました。
このブログもデバイスを変えると厄介だと思ってましたが、ついでにいろいろ確認できたことわかったことも多いです。やはりやってみることは良いことです。
この前のパソコンはWindows Vista というやや短期でXPにつないだ感のあるOSでした。
それまでももっと遅いMEでしたし、光に変えてネットのつながりの速さには満足でした。
当時は会社のセキュリティも緩く、家もパソコンで資料作ったり仕事するのは当たり前でした。
約12年の周期で今年はクルマとパソコン買い換え、家も12年目くらいです。
私事も、世間もいろいろあったこの干支や星座も巡った12年です。
リーマンショックからコロナショックまでです
オバマからトランプ、民主党から自民党政権へと戻りました。
私は父を8年前、母を今年亡くしました。12年前はまだ町の化粧品店が健在で店頭に立ってました。子供たちは小学校からもう社会人です。
東北で大きな地震がありました。仙台から転勤して2年後でした。
60歳での会社人生の転機を前に、充実した日々。有終の美を飾れたのかはわかりませんが民間会社37年を勤め上げました。大震災の翌年には、化粧品白斑自主回収問題という大きな波もありました。入社した会社と名前の違う会社で定年退職しました。
消費税は5%から8%、そして10%です。スマホが主流となり、大震災以降できたLINEやYouTubeやフェイスブックなどSNSの時代になりました。
平成の天皇陛下は初めて生前退位され元号は令和となりました。
これからの12年また何があるのでしょうか。

京都三条会商店街

京都の三条会商店街に実家がありました。
京都で最も長い約1キロ近い東西への広がりを誇る庶民的な商店街。
今は実家の店も人手に渡り、たまに訪れるだけです。近所だった友達や店の人たちを訪れる。
就職して他所の土地へいっても、里帰りで京都駅から市バスに乗り堀川三条のバス停で降りて両親の顔を見に行くのが楽しみでした。やはり実家でごろっとするのが一番気楽で落ち着きました。
私の小さい頃は食料品等の買い出しでにぎわう、京都市の北部や二条駅からの山陰線沿線まで商圏を持った地域最大の商店街でした。スーパー等の台頭が遅れる京都で長くアーケード型商店街は繁栄していました。それでも時代の波で昭和も後半にはジリ貧でした。寺町や錦のような繁華街ではなく、伏見大手筋のような集約性がない。ただ長いだけの商店街はやがてシャッターを閉めたままの店も増えだしました。
八年前に父がなくなりました。商店街の理事長を務めたこともあり、この街への愛着は誰よりもあったはずです。
世代がどんどん交代し、それでも若い世代が集客イベントをして活性化されました。
夏の夜店は関西に戻ったころ愚息らをはじめ子供たちみんなと大人も楽しむ大イベントでした。年を追うごとに拡大し人が増えました。地ビールやお化け屋敷、ジャズ等の音楽イベントなどもスゴイ人出だと聞きます。
生活必需品が大手量販に流れる中、スーパーやドラッグ、コンビニとも共存しながらこじゃれた飲食や雑貨が入ったりして独自色を強めています。
そんな変化を離れた場所で一人暮らす母に報告するように報告していたのも、母の急逝により終了しました。
街にはそれぞれ、昭和の時代から頑張った人たちの息遣いが残っています。

地元商店街にエール

個人商店が後継者問題や、大手進出、流通や販売構造の変化で先細り、シャッター商店街等と揶揄されてかなりの時間が経過しました。
かつてはイオンモールを凌ぐ賑わいとか楽しさがあった商店街も、次代とともに生き残りは厳しくなり、今回のコロナ禍で、生き残れるとろは少ないと言われます。いくつかの給付や支援もあってもなかなか聞けば厳しいものがあります。
インバウンドバブルに合わせ、拡張したり依存していたところは当面戻りません。
私は京都の下町を代表する大きな商店街の中にある店舗付き住宅に生まれ育ちました。社会というのはいろんな店の人たち+農業ぐらいで成り立っていて、サラリーマンっていった何やってる人かと思っていました。
そんな商店街、今はイベントやおしゃれな店も増えて個性化でつないでいるところもあり、私の実家のあったところもそです。
かつては市場の役割で広い商圏も持っていましたが、今は生鮮等が主要ではなくなりました。
生活必需品はスーパーやドラッグ、ネット通販で買い、リアルの何らかの楽しみを商店街に求めてくる人の割合が増えていました。
私は二男で後を継ぎませんでした。残念ながら実家も他人の手に渡りましたが故郷は「商店街」です。
朱川湊人さんの小説「かたみ歌」にでてくるアカシヤ商店街。昭和30~40年代の描写にジンと来ます。
今回のコロナは厳しいですが、精一杯地元にエールを送って欲しいです。ネットは便利ですが地元に店がコンビニだけでは寂しいです。