亡き子を悼む月

 初めてカミングアウトする話ですが、毎年この時期夫婦であるお寺にお詣りに行きます。
 私たち夫婦にはもう成人した子供が姉弟二人いますが、その下にもう一人授かった子供がいました。
 この頃、下の子に難しい病気が見つかり、妻自身も乳がんの疑いがあり、心身や経済状況を考えてもとても3人目を産める状態ではありませんでした。
 細かな経緯は私も忘れましたが、何度かの受診の後、最終的には【流産】したと私は聞いていて、この件に関してそれ以上の夫婦の会話はありませんでした。私も仕事はそうそう席を離れられない会社で、有給もなかなか取れず、妻の母はじめ今思えば随分身勝手に負担をかけました。
 その後、私は仕事や看病で、何度か夢うつつの中で3人の子供が遊んでいるのを見ました。小さな男の子です。
 関西に戻って少し心の余裕ができた時、妻と長男の病状の膠着もあって、このお寺へ供養に行きました。
 それ以降、ほどなく二人は元気になりました。住み慣れた京都で特に実家も近いことも幸いしたのか、妻は乳がんの再発後のステージⅣからキャンサーサバイバーとなり信じられない回復振りでした。


 毎年、梅雨の時期、観光地に近いお寺に、会話も少なめに子供用のいお菓子をお供えに用意して訪れます。
 いつもお寺の中の小川にイトトンボを見つけます。
 今年は、庭の改修か業者さんが手入れをやっていてトンボはいませんでしたが、同じ日の買い物帰り、ハグロトンボがつきまとって来ました。とても暑い日で、元気なさそうにふらふらと私の傘に止まりました。激しい夕立の後、元気ない様子でずっと帰宅後も傘にとどまり、やがて完全に動かなくなりました。
 胴の青いキレイなトンボでした。神の使者とも言われるそうです。
 生命の儚さ、少し悲しくなりました。

亡き父を想うあじさいの季節

 あじさいの花が、町のあちこちでも見かける季節。京都の中心部では祇園祭の稽古でお囃子が聞こえてきます。
 晩年父が闘病していた病院が街中にあり、看病に通うときの音色が耳に焼き付いています。
 父も実家の勝手口周りに季節ごとにおりおりの花を並べていました。農家に生まれ、植木や観葉植物が好きだった父が町家のベタンダ、屋上部分を庭のようにして育てて花の時期には階段を往復して入れ替えていたのです。
 父の足腰が衰えると、よく私も手伝わされていました。土がこぼれると階段が汚れて母が嘆いていました。
 父が亡くなると、植木や観葉植物も断捨離され、手入れもされないと枯れていきました。それを整理し、清掃も大変でしたが、母を見舞い実家の勝手口周りを掃除していると、商店街なので多くの方に「ここ花があったのに、無くなってさびしくなりましたね」などと声を掛けられました。
 厄介な道楽のように思われていた花もみんなを和ましているのが良く分かりました。何気に前に出るあじさいの鉢も、狭い家の庭の中でローテーションして出番を誇ってるのです。

桂ざこば 枝雀追い亡くなる

 桂ざこばさんが亡くなりました。特に思い入れが強かったわけでなないですが、人間国宝米朝の弟子で、兄弟子にはやはり屈指の才能で爆笑を誘った名人桂枝雀がいました。
 上方落語にも独自の存在感を持った米朝事務所の切り込み隊長のような方で、朝丸時代から軽妙なトークとマクラの面白さは兄弟子枝雀をして、『マクラだけで落語になる』と言わしめました。
 逆に言うと、落語よりもレポーター、コメンテーターなどで重用されました。
 後年のひな壇での政治的なコメントはやや付け焼刃な感じで好きではありませんでしたが、76歳で没するのは残念な感じです。59歳で亡くなった枝雀とともにこの3人が鬼籍とは、喪失感が大きいですね。

太秦ラブソディ 映画「碁盤切り」

 15年前に、京都に戻り太秦天神川というところに居を構えております。太秦(うずまさ)は渡来人秦氏由来の難読地名で、映画や観光に興味のある方は太秦映画村で名前はご存じでしょう。
 太秦天神川はその太秦地区では最も東部になり、市内から延びる地下鉄東西線の終点になり、映画村へは少し歩くか、嵐電と言われる京福電車に乗り換えです。ちょうど市内の三条会商店街にある私の実家と、嵯峨野にあるパートナーの実家の中間あたりで交通至便でこの地に決めました。
 15年前は衰退していたとはいえ、テレビ時代劇が細々と断続的にありカツラをつけ着物の衣装を着けた人が歩いていまして、将軍様がスーパーに買い物に来たりもしていました。
 学生時代にもエキストラのバイトはしていましたので、待ち時間の長い仕事で比較的ワリが良かったです。定年後は時間もできるので、エキストラでもやろうと思っていました。
 しかし、その後の10年で社会はいろいろ変わります。
 定年延長、再雇用とかが騒がれだし、60歳で悠々などとは言ってられない、退職金の激減、年金は65歳から、物価も税や保険料も上がり、ローンを返しても働かないと不安な時代です。
 それでも、同じ会社で待遇を下げてというのは納得も行かず夢もないので、とりあえず新卒から37年勤めた会社は辞めました。慣れた会社で人脈もあるし、高年齢継続雇用給付もあるのですが、リセットしたい気持ちが上回りました。
 時代劇の衰退ももっと激しく、映画村もなかなか観光施設としてはそこそこで継続しても、撮影本数は激減した上、エキストラには弁当は出ても日当も交通費も出ない完全ボランティアのシステムになっていました。
 映画、演劇の夢?はかなわず、再就職も前の会社を見返せる待遇のものはなかなか勝ち取れませんでした。それでも映画村に夢とロマンを追う人の姿には、励まされていました。
 化粧品メーカーとは180度違う、社会保険の年金の仕事を4年ど勤め、公務経験などから何の因果か裁判所にフルタイム事務官で採用され、太秦でののんびりはまた遠のきました。
 映画村エキストラのエントリー登録はしていましたので、誰主演の映画ロケがいつという情報は入り、裁判所勤務前のつかの間にも映画村には2度ばかりエキストラで行きました。
 今、草彅剛主演の公開されている「碁盤切り」という時代劇映画も昨年2月募集はあったのですが、年金事務所勤務中で積極的にはほとんど応募できずでした。
 上映されたものを観ると、滋賀や大阪のロケと合わせながら映画村の中で草薙君や清原果耶さんが見事な演技をし、時代劇の美しい映像が仕上がっています。
 この時期の後、他の時代劇ロケ(大泉洋主演)で映画村と滋賀ロケは裁判所勤務前で休みが合い、近所の強みで早朝から深夜まで行きました。
 タイムスリップしたような映画村の映像観ると、草履で走らされたりハードだった、あの時の苦労が思い出されます。
 元スマップ俳優と朝ドラ女優との共演の夢は実現せず、元紅白司会者俳優とは共演できました。

アングラ、テント芝居の時代から

 今放送中の朝ドラにも出演されて、多くの大河ドラマなどにも出ている小林薰さんというベテラン俳優は、先日亡くなった唐十郎の率いた紅(あか)テントと言われた状況劇場の出身です。根津甚八さんと並ぶ同劇団のスターでした。
 日本の一時代を代表したようなアングラ劇団で、まだまだ1970年代の後半は高度経済成長の終わりぐらい、学生運動も終息しつつはありばがらも今とは世間の空気が違うような時代でした。

 既存の演劇、既定の社会を否定するような集団が前衛劇団、アンダーグランドでした。公共劇場の空間を否定するように、象徴的な色のテントの中での芝居や、小劇場芝居には昏い沼に引き込まれるような恐ろしさとマゾヒズムの快感が入り混じりました。同劇団が芝居を見せるのは東京・新宿の花園神社の境内、地方だと公園や河川敷などに組まれた紅色のテント。客席はゴザでした。そこで俳優と観客が一体化するのです。役者を「河原乞食」よいわれるゆえん、歌舞伎俳優の故・18世中村勘三郎さんは「歌舞伎の原点だ」と評していました。

 小林薰さんは1969年、京都府立洛東高の3年時に退学処分を受けたそうです。理由は学生運動で当時は日米安保問題や沖縄返還問題などがあり、高校生を含めた学生たちが政治の在り方に異議を唱えていた。今よりも熱く若者が政治を語るのが、いわばファッションやゲームのように身にまとわりついていたのでしょう。小林さんも「学生運動っていったって、今から思えばかわいいもんでね。お祭りみたいに考えていたな。月1回、デモや集会に出て」と軽い感覚で雑誌のインタビューで語っておられました。

 アングラで上演される芝居は幻想的かつ肉感的、そして知性や想像力もフル回転してついていかないといけない言葉も「胎内回帰」とかともすれば難解なものを分かったように観るのも流行りでした。

 そして世の中では平行するように、アメリカナイズされた明るく豊かでおしゃれな時代が始まるのです。都会的なサブカルとして、雑誌【POPEYE】や「ビックリハウス」、【PLAYBOY】の日本版も出て、村上龍【限りなく透明に近いブルー】、田中康夫【なんとなく、クリスタル】池田満寿夫【エーゲ海に捧ぐ】などの小説は、基本ネアカでわかりやすくポップな世界です。演歌や歌謡曲からYMOのテクノが流れだし、ディスコも流行り出し【サタデーナイトフィーバー】などの映画も流行りました。
 多くの人、インテリでさえ、【胎内回帰】などの衒学から、明るくわかりやすく、難しいことは考えない時代へ移っていき、それから半世紀です。
 学生運動で退学になるような高校生や大学生など、見たことも聞いたこともない時代で、政治で何が起こっていようと国政選挙の投票率は半分以下3分の1ぐらいになりました。
 日本は、良い時代になっているのでしょうか、唐さん。

あっという間の10年 すっぴんでも可愛い人

 化粧品会社にいるときもは、初めて見る大人の女性たちのメイクばっちりで化けた顔とメイクオフいわゆるスッピンの差には驚き、そのうち慣れてもいました。
 いまだにつながりのある50過ぎの美魔女的友人でも、メイクオフは別人の顔です。たまに私生活の会話で出てくる購入したマンションで、修繕など管理組合の集まりにも出ると言てっますがいったいそっちの席にはどっちの顔で行かれているのか、下世話ですが興味です。
 化粧すると女優さんみたいで、ある意味ちょっと近所では周りは引く感じで、危ないような気もしますし、かと言って、くすんだ素顔を人前にさらすのも微妙なところです。
 まあ、そこまで心配はない落差の少ない人、素顔でも可愛い人、キレイな人は沢山おられます。

 10年ぶりぐらいに、前にも役員でご一緒して、また役員でマンションの会合で再会した女性も、前はバタバタで赤ん坊に授乳されていたような覚えがあるのですが、今は小学校か中学校かになって落ち着かれていました。
 ご主人の職業も知っていますが、子供を叱り、旦那さんを励まし、時にはキレるように怒り、奥さんも子育てに苦労されただろう10年が、何となく偲ばれました。素顔には疲れも見えそれなり加齢は感じましたが可愛い顔立ちは変わらず、微笑ましく感心してみていました。
 乳飲み子がこましゃくれたガキになるのが10年です。私のとこでもギリギリお風呂に一緒に入って娘が、大学出て就職するのですから10年あっという間です。
 新卒で就職して10年で出産もはさんだ人は、やっと10年、長い10年という思いで今年の新卒を指導していますが、こちらから見れば二人とも娘のように見えます。
 年代、性別、取り巻く環境などによって長かったり短かったりでしょう。概ね年齢を重ねると、変化が減り時間の経過は短く感じる傾向にはあると言います。
 美魔女はどうしているのか、それも関心はあります。
 

一期一会の意味

 こんなことなら、もう少しアイツと喋ったりしたのに、、、

 一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来する日本のことわざ・四字熟語です。
 私は歓送迎会などの挨拶で、好んでこの言葉を使います。大勢の飲み会、数人の飲み会でも、そのメンバーその人とまた同じよう集まれて会話ができるかというと、なかなかそんな保証はないものです。実際の6人以上のメンバーを、同じように集めるだけでも難しいものだと話しました。
 茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味するです。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と言う言葉通りです。


 還暦を過ぎたら、人生の師や先輩の訃報にも接することも増えます。
 そして、さらに悲しいことに同じ学び舎で過ごした友、職場で切磋琢磨した同年代の悲報も耳に入ります。いくら平均寿命が延びても60も過ぎればいつ亡くなっても当たり前と思っていても、自分と自分の周りだけは違うとバイアスがかかっているものです。

 一生に一度だけの機会「一期一会」という言葉の持つ意味も、自分が年齢を重ねるにつれさらに深いモノに変わってきた気がします。

 千利休の言葉かともされますが、献杯はお酒で。

コイバナ? DV離婚?大阪で酔いつぶれた可愛い人 

 化粧品メーカー時代の大阪での最後に近いコイバナ 都会であることは変わりないのですが大阪の街と京都の街の違いは何なのかと思うと、大阪は関西のおばちゃん含め人が多く、海が近いので川幅の広いこと、あちこちの地下鉄と高架の都市高速が走っていることでしょうか。
 大阪時代に一番美しくスタイルも良かったのは前に書いた伊東美咲似スーパーモデル級のIさんだったとは思いますが、同時期に一緒にお仕事させてもらったOさんは高くとまる感じの無い母性的で可愛い人でした。
 Oさんははじめて仕事で一緒になったのは、応援で行った滋賀県の事務所でしたが、その時の新しい配属で戸惑うとても優しい声で私の名前を呼んで、満面の笑顔で迎えてくれました。色白の童顔で優しい表情なのですが、スレンダーというよりはグラマーという言葉が合うような体系の人でした。男性目線で恐縮なぐらいですが、大きな胸をされていて、歩くと胸も揺れますし、タイトでやや短めなスカートでよく柄のあるタイツを穿かれ引き締まった脚でモンローウォークのように歩く後ろ姿もコケティッシュさがありました。
 仕事ぶりも真面目で献身的で、美容教育のスタッフとして企業相手の企画や商談に現場目線でさまざまな情報を集め、勉強をして考察してくれていました。その相談や提案を持ってくるときの声と表情の愛苦しさには癒されました。
 Oさんの仕事である美容の情報に関して、メーカー主導のヨイショ系雑誌ではなく、私は自分でLDKなどのメーカー忖度のない雑誌やネット記事を共有して密に協力していました。彼女の主宰するセミナーや社内外の教育は好評を得ていたはずです。

 それでも教育スタッフの上司は厳しいパワハラ系の女性、セクハラ系の幹部、取引先もあって大変な面もあったようです。
 ある時は、肝心のその優しい声が全くでなくなり、筆談で過ごしておられるときもありました。その体調の変化は1~2週間は続きました。
 また、ある時な声をかけるにはややためらうのですが、タイツのおみ足に痣のようなものが見えることがあり、「ケガをしたのか」と聞くと、「いろいろな病気と付き合っているんです。気にしないでください」とやんわりと優しい声のままでも毅然と返されました。なぜそれならスカートでなくパンツを穿かないかとも思うのですが、足が太く短いのでパンツスタイルはとても嫌なのだそうです。このあたりの女性のこだわりはわからないものです。
 後で噂のように聞きましたが、OさんもIさん同様に、子供がありながらも離婚されていて、原因は配偶者の暴力いわゆるDVだそうです。
 Oさんの体調不良や脚の痣が何が原因かは訊いていないのでわからないままです。
 ある夏の夜だったと思います。大阪の街で同僚とお酒を飲んでいて店から出てあるいている時、別の女性グループの飲み会の帰り道に遭遇して、大きな声でOさんに声をかけられました。足元もふらつくほど心地よく酔っぱらっていて、私に寄りかかってきました。
 Oさんは他の面々には、私に送ってもらうように告げて、ほとんど抱きついてくるような感じで私に支えられました。
 普段社内では清楚でコツコツと仕事をするイメージなのが酔って豹変した感じで「ダイジョウブ、大丈夫、まだ飲める」とも言いながら呂律もまわらないぐらいですが、しかたなく他の連中とは「お持ち帰り」のような印象で見送られて、もう一軒二人でハシゴ。
 さんざんそこでも飲んで、しばらく中央大通りの高架から、空を見上げながら歩きました。こちらも酔っていますし「大阪で生まれた女」「悲しい色やね」的歌詞で、酔いしれるフォークソングか演歌のような世界です。
 聞いていた法円坂のマンションは御堂筋の本町から地下鉄で終電までは時間もあり、たった2駅です。タクシーには半端な距離ですが地下の駅までの上り下りが面倒です。歩けない距離ではないのですがここまで酔っぱらってる女性をつれて大阪の深夜を2駅間も歩くのもまた何とも微妙です。やはりタクシーかと思いましたが、案の定近場NGで3台拒否、あきらめて地下鉄の駅に戻りふらふらの彼女を引っ張ってエレベーターを探して歩き、何とか肩抱いて改札をのけて電車まで行き座らせると寝そうになるので話しかける。駅につくと立たせて下ろすのが大変で火事場のクソ力よろしくお姫様だっこで抱えながら電車をおりてエレベーターから改札を目指し、ようやく少し歩けるようになったのでマンションまでの部屋まで何とか送り届ける。
 そこでさすがにこちらも酔いも回り、体力もつき、京都まで帰る方法もホテルを取る思いつかないほどで、彼女をとりあえずはベッドに寝かせると、ソファーなのか絨毯なのかにばったりでした。


 翌朝は気まずい「やってしまった」状態で、あんまり何も覚えてない彼女ですが、さっぱりした爽やかな対応でシャワーを用意してくれて、朝食を準備してくれました。
 簡単な朝食をとって、別々に出勤でした。
 それ以降は、Oさんとは少し距離おいて深酒やめていました。
 Oさんは当時のパワハラ上司は更迭されて、その後のポストに就かれ、管理職の道に進まれましたが、その後は知りません。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

阪急電車10分間のコイバナ – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

追悼:伊藤淳二元カネボウ会長  書評『天命』

 

 先日99歳で亡くなられていたという報道があった伊藤淳二(いとう じゅんじ)氏は、私が入社した時の鐘紡の社長でした。1922年(大正12年)中国青島生まれで、戦後すぐの1947(昭和23)年、慶應大学卒業後に鐘淵紡績(カネボウ)に入社され当時のオーナー社長・武藤絲治(むとう いとじ / 1903〜1970)の後継者指名を受け、1968(昭和43)年、45歳の若さで大逆転、クーデター人事で社長となった人物です。カネボウは経営多角化を推し進め、1984(昭和59)年、会長に就任、社長就任のストーリーは城山三郎のビジネス小説『役員室午後三時』 主人公藤堂のモデルとなりました。
 

 1985(昭和60)年の御巣鷹山の日航機事故後、政府(中曽根康弘首相)からの強い要請で日本航空副会長(翌年に会長)に招聘される。わずか1年で辞任しました。この経緯が山崎豊子『沈まぬ太陽』- 登場人物の国見会長のモデルとなりました。だいぶ美化されて、映画では石坂浩二が演じ繊維工場でを自ら糸を扱い差配している場面がありましたが、この当時すでに現場にいるような人ではなく、随分とデフォルメというか男前に描かれ映像化されていました。

 伊藤氏も今ではすっかり過去の経営者扱いですが、著名な作家の小説のモデルに二度もなった人物はそういないでしょう。 屈辱的失敗で日航会長を解任され、カネボウ専任に戻られるのですが、その後も会長として院政をはり、過去の成功にとらわれ傀儡的社長がコロコロ変わるだけで改革が進まぬまま、坂道を転がるように、事実上の経営破綻に落ちます。

「天命」は論語をはじめ彼が出会った様々な含蓄ある言葉を中心に生き方を著しています。多く方の書評や最近のコメントではその中身は古臭いという、褒めていても古き良き時代的なものです。時代としては少しあとになる稲盛和夫の著作に比べても、難解で衒学、知的顕示欲の強さが垣間見れます。
 ちなみに伊藤淳二は、社内で「知命教室」という幹部勉強会のようなもの、論語プラス経営という頭の痛くなるようなのをやっていて、それも社内で冊子が出回ってきて、ヨイショ的な内容が多いのですが、やはり博学であり衒学趣味でした。


「美しい人生とは美しい晩年を送り得る人、人生の一瞬一瞬をかみしめ「今」に燃え、毎日毎日を精いっぱい送る人であろう」という言葉には、大いに共感する部分もあります。

 しかし彼の晩年はどうだったのでしょう。博学でもありますが、稲盛和夫のフィロソフィーに比べると点が線につながらないような少し現実と合わなくなって、経営者としての評価は随分下がりました。
 自己顕示欲が強すぎ、後輩などの意見を受け容れての修正が難しいところがやがて綻びにつながったのではと思います。
 現実の社会は論語に心酔する一流大学出の向学心溢れた人間ばかりではなく、礼節や忠誠よりも私欲が優先するのが通例です。伊藤の思い、考えは本当の意味で浸透するわけではなく、権力者への盲従に支えられていたのかもしれません。

 そして、「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る。大切なことは、その時、自分の可能性の全てを尽くしたか否かであるように思う」という言葉で『天命』の最後を締めくくっています。
 日航会長時代でミゾをつけ、結局は鐘紡の栄華さえ砂上の楼閣のように崩れ去り、最後は大株主として元経営者として情けないような泥仕合も見せてしまいました。それでも未完と言っている以上矛盾ではないのかもしれません。
 未完であるが一時代を築き、実はそれなりの完結をしている。99歳まで永らえ、目的を果たし得なかったそういう生涯がありかもしれないです。

伊藤淳二と稲盛和夫 日航改革二人の明暗 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

西武大津店の思い出

 西武グループの創業者・故堤康次郎氏の出身地である滋賀県に、県下初の百貨店として1976年にオープン。開業初日は約13万もの人が詰めかけたことからも、県民からの期待がいかに大きかったかがうかがえます。
 先日びわこ博が小学校3年生の時、大阪万博1970年が小学校の5年生でしたから、私はオープン当時は高校生だったのです。
 当時は京都の大丸、高島屋、藤井大丸、丸物といったデパートしか知らず、多層建ての繁華街にある形態ではない西武は新鮮でした。
 高島屋や大丸といった老舗が高級品も扱いながらも、子供向けの玩具売り場や食堂、遊具が充実していたためか、売り場としての西武百貨店はやや物足りない感じもありました。その後トレンディとか言われるブランドが席捲する少し前の話です。
 その後、会社に入り滋賀県で営業にも周り、30歳てま頃、平和堂や当時でき始めたダイエーや西友なども担当した後西武百貨店も担当することになりました。
 今思うと、バンカラな野暮ったい独身でしたが、滋賀で最も垢抜けた商業施設を背伸びして担当させていただきました。
 当時、カネボウ化粧品としても初めてHF(アシェフ)という百貨店ブランドを作りようやくチャネル別流通に力を入れだした時でした。全国的にも百貨店ではそこにしかない外資が強く、そこら中の店にあるカネボウや資生堂は差別化に苦戦していたのです。今では考えられない強引な販売方法のアプローチデモというのが頻繁に行われ、普段は2名体制の派遣でしたが、デモやイベントだと各課の美容部員が動員され、ノルマがかかり大変いキツイ仕事でした。会場の設営、撤去、毎日の朝夕礼もあり休日フル出勤となり、当時会社の拠点は彦根になったため彦根と大津を何度も往復しました。実家が京都なので実家に戻って通えばといわれましたが、大津~京都もハンパな距離で携帯もパソコンもない当時は家に帰ると連絡などが厄介でうまくいかないものです。
 それで実家の電話で長話して、また返信があると取り次いだ母が、「彼女」かと期待した子もいますが、それは全くの誤解でした。