VISTAが見た12年

パソコンを買い替えて初めての投稿です。いろいろ不具合も多く遅くなっていました。バックアップもできなくなりさすがに決断しました。少し慣れないですが動作は早いです。
私はクルマもそうですが、とりあえず使えればそうマニアックには買い替えません。
今はとくにスマホでできることが増えました。
このブログもデバイスを変えると厄介だと思ってましたが、ついでにいろいろ確認できたことわかったことも多いです。やはりやってみることは良いことです。
この前のパソコンはWindows Vista というやや短期でXPにつないだ感のあるOSでした。
それまでももっと遅いMEでしたし、光に変えてネットのつながりの速さには満足でした。
当時は会社のセキュリティも緩く、家もパソコンで資料作ったり仕事するのは当たり前でした。
約12年の周期で今年はクルマとパソコン買い換え、家も12年目くらいです。
私事も、世間もいろいろあったこの干支や星座も巡った12年です。
リーマンショックからコロナショックまでです
オバマからトランプ、民主党から自民党政権へと戻りました。
私は父を8年前、母を今年亡くしました。12年前はまだ町の化粧品店が健在で店頭に立ってました。子供たちは小学校からもう社会人です。
東北で大きな地震がありました。仙台から転勤して2年後でした。
60歳での会社人生の転機を前に、充実した日々。有終の美を飾れたのかはわかりませんが民間会社37年を勤め上げました。大震災の翌年には、化粧品白斑自主回収問題という大きな波もありました。入社した会社と名前の違う会社で定年退職しました。
消費税は5%から8%、そして10%です。スマホが主流となり、大震災以降できたLINEやYouTubeやフェイスブックなどSNSの時代になりました。
平成の天皇陛下は初めて生前退位され元号は令和となりました。
これからの12年また何があるのでしょうか。

京都三条会商店街

京都の三条会商店街に実家がありました。
京都で最も長い約1キロ近い東西への広がりを誇る庶民的な商店街。
今は実家の店も人手に渡り、たまに訪れるだけです。近所だった友達や店の人たちを訪れる。
就職して他所の土地へいっても、里帰りで京都駅から市バスに乗り堀川三条のバス停で降りて両親の顔を見に行くのが楽しみでした。やはり実家でごろっとするのが一番気楽で落ち着きました。
私の小さい頃は食料品等の買い出しでにぎわう、京都市の北部や二条駅からの山陰線沿線まで商圏を持った地域最大の商店街でした。スーパー等の台頭が遅れる京都で長くアーケード型商店街は繁栄していました。それでも時代の波で昭和も後半にはジリ貧でした。寺町や錦のような繁華街ではなく、伏見大手筋のような集約性がない。ただ長いだけの商店街はやがてシャッターを閉めたままの店も増えだしました。
八年前に父がなくなりました。商店街の理事長を務めたこともあり、この街への愛着は誰よりもあったはずです。
世代がどんどん交代し、それでも若い世代が集客イベントをして活性化されました。
夏の夜店は関西に戻ったころ愚息らをはじめ子供たちみんなと大人も楽しむ大イベントでした。年を追うごとに拡大し人が増えました。地ビールやお化け屋敷、ジャズ等の音楽イベントなどもスゴイ人出だと聞きます。
生活必需品が大手量販に流れる中、スーパーやドラッグ、コンビニとも共存しながらこじゃれた飲食や雑貨が入ったりして独自色を強めています。
そんな変化を離れた場所で一人暮らす母に報告するように報告していたのも、母の急逝により終了しました。
街にはそれぞれ、昭和の時代から頑張った人たちの息遣いが残っています。

地元商店街にエール

個人商店が後継者問題や、大手進出、流通や販売構造の変化で先細り、シャッター商店街等と揶揄されてかなりの時間が経過しました。
かつてはイオンモールを凌ぐ賑わいとか楽しさがあった商店街も、次代とともに生き残りは厳しくなり、今回のコロナ禍で、生き残れるとろは少ないと言われます。いくつかの給付や支援もあってもなかなか聞けば厳しいものがあります。
インバウンドバブルに合わせ、拡張したり依存していたところは当面戻りません。
私は京都の下町を代表する大きな商店街の中にある店舗付き住宅に生まれ育ちました。社会というのはいろんな店の人たち+農業ぐらいで成り立っていて、サラリーマンっていった何やってる人かと思っていました。
そんな商店街、今はイベントやおしゃれな店も増えて個性化でつないでいるところもあり、私の実家のあったところもそです。
かつては市場の役割で広い商圏も持っていましたが、今は生鮮等が主要ではなくなりました。
生活必需品はスーパーやドラッグ、ネット通販で買い、リアルの何らかの楽しみを商店街に求めてくる人の割合が増えていました。
私は二男で後を継ぎませんでした。残念ながら実家も他人の手に渡りましたが故郷は「商店街」です。
朱川湊人さんの小説「かたみ歌」にでてくるアカシヤ商店街。昭和30~40年代の描写にジンと来ます。
今回のコロナは厳しいですが、精一杯地元にエールを送って欲しいです。ネットは便利ですが地元に店がコンビニだけでは寂しいです。

思い出から22:嵐山、太秦

2007年から京都市右京区太秦に住みました。草津、大阪、姫路、京都の各オフィスに通い2019年定年退職。嵐電で行く嵐山が近い。
実家の中京区から見れば西の端だと思っていたが、地下鉄東西線が延び交通至便。嵐電と地下鉄2ウエイアクセツの最寄。
駅のビアガーデン、キモノフォレストなどパビリオンのような京福嵐山駅にも10分。
景色は、東北とも瀬戸内とも東海とも違うが毎日はそれぞれ輝く。
沢山の友人知人貧富喜怒哀楽それぞれ。
どこに住んでもまあ生きていくのは辛いし楽しい。

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思い出から21:京都市伏見区

私の父親の郷は伏見区上鳥羽です。
こどもの頃、広い畑や庭があり虫とりした田舎ですが、今は国道沿いもぎっしり店、狭い道にも入っても住宅街です。
何の縁か今そちらの区で仕事をしています。
伏見はかつて伏見市であり京の都とは少し離れた別の街だったのです。
学生時代からの友達も多く、酒どころで最近もおしゃれな飲み屋も多いです。
大手筋商店街は賑やかで充実じた商店街です。父も三条の商店街でしたが大手筋にはなかなか勝てないと言ってました。都市銀行も構え、ステータスの高い商店街です。伏見は東に行くほど高くなり、近鉄や京阪の駅から大手筋は下りになるので見通しがよくすごくが多く見えます。
伏見稲荷はいまやインバウンド占拠され、人が多すぎます。

リタイアして雇用延長せず別の仕事を探しました。これが結構大変なものです。こういうブログなどのモノ書きだけでとも思いましたが、外に出て働くことはリズムとしていいことです。充実ともいえるし、また一からの多くの苦労、出会いも屈辱もいろいろあります。それが人生、再生なのかとも思います。
またウダウダ言いながらも頑張ればいいことがある。

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思い出から20:京都市中京区(烏丸御池)

【2018年7月~2019年5月】会社勤めの最後は地元京滋支店京都オフィス。ちなみに新婚時代の1995年にいた長岡京から通った京都オフィスは堀川五条にあって直前に花王オフィスに吸収合併されるように御池に移った。サテライトの滋賀オフィスも草津から栗東。上司ラインはカネボウ出身だが勢力は劣勢でした。まあチームとしてはいかにもM&Aの寄せ集め感は続きました。
懐かしい滋賀、京都のメンバーとも再会。最後の一仕事として京都、亀岡、滋賀の長浜、高の原まで広いエリアを回りました。
烏丸御池は京都唯一のオフィス街でナカ食用のお弁当やさんが出るなど、なかなかの都会です。もちろん長年、乗換駅としても買い物などにも利用し、NHKやハローワーク、まんがミュージアムや新風館、文化博物館などもあり寺町までの三条通り御池通りともレトロやおしゃれなスポットが集まっています。
後に託す定年前の決断と実行。ほのかな憧れの想いもキレイに送別していただきました。

定年前とはいえ、広いエリアでカネボウとソフィーナ相手に変わりつつある営業体制とそれを守りたい保守側の間に立ちさまざま苦労はありました。
しかし強圧的な上司もいなければ、売り上げの立て替えなどの苦労もない。気難しい取引先のアポくらいでした。
そしてこのブログのテーマでもあった【天使が舞い降りる25の法則】を関係者全員にお別れの御挨拶メールとして送りました。いろんな方から予想以上に返信が来て感動したことにこちらも感動しました。メールの宛名をスクロールするとまるで映画のラストのエンドロールを見たような企図以上のものが実現できました。

逃げてばかりの時代もあったが、勉強もした。燃えて頑張った。苦しくても会社の看板が替わり新聞で叩かれても耐えた。家族に苦労もかけた。でも37年定年までやりきって、最後の頃はボーナスステージのようにいいこともあった。
人生結構捨てたモノではないです。どこかで天使は舞い降ります。

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思い出から0:京都市中京区

実家近くの二条城

【1959年~1982年】社会人になってから、いろんなところに住んだり勤めた場所を回想し、恋や仕事の思い出を綴ってきたがその原点。23歳大学卒業までは京都市中京区に生まれ育った。生家は三条商店街の化粧品店、二人兄弟の二男でした。
昭和40年代としては、まだ貧富の差のある中、高度経済成長で恵まれた小学生時代だったでしょうか。1964年に東京五輪、1970年には大阪の万博、万博には良く行きほとんどのパビリオンを見ました。
小学校時代も初恋はありましたが思いっきり片思いで終わりました。
中学になって共学の私学に進み、お金持ちや秀才がいて小学校時代の優等生感はへし折られました。でも中一でラブレターを出して夢にみたデートを実現しました。
なんとなく自分からめんどくさくなったように立ち消えて、それ以降高校まで彼女いな状態続きました。昔過ぎて思い出せない恋の原点。それでも京都の街をふらふらといろいろ回りました。
実家の三条会商店街、盛衰あったけの今またイベントやユニークな店でにぎわっています。

よく立ち読みした本屋は閉まったし、だいぶ代替わりもしてしまいましたが年末などで買い出しの賑わいが好きでした。全国いろんなところに転勤しましたがやはり里帰りで三条通りに入ると、旅から我が家京都に帰ったという感慨が湧いてきました。
鴨川は少し遠くて、あまり水の見えない堀川近くで、二条城南の三条通りから四条大宮までの町屋界隈が小学校の学区でした。
中学から大学で今出川あたりまで通うと、御所や出町、叡電沿線、市場とどんどん遊ぶエリアは広がりました。
年の瀬の三条会は今でもときおり訪れます。実家はもうないのですが懐かしいことが多いです。

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思い出から19:兵庫県姫路市

姫路は京都あたりからかなり西、播州の中心。兵庫県西部の中核。その西は中国地方岡山県です。【2018年1月~6月】最後の会社人生目前で、まさかの大阪を異動。ふるさとの京都でなく、近畿2府4県で和歌山とともに行っていなかった兵庫。神戸オフィスにも行くものの基本姫路出社で、赤穂や山崎、淡路島まで管轄エリア。
近畿の西の端、近畿2大国宝名城と日本三景を制しました。
結果的には半年間でしたが、完全にカネボウの営業が花王に組み込まれ花王の名刺を持って同じオフィス、同じチーム、花王の上司の下で働きました。仕事はカネボウと花王ソフィーナのGMS販売員の管理が主。この時期多くの仲間が洗剤などの花王の家庭品部門の販売にも回りました。
ひさびさに現場で美容部員の激励役、しかも2ブランド同時に回るので大変なようで言い訳もできる試行錯誤の体制、試金石でした。

花王ソフィーナという独自の風土、家庭品というハードな仕事も分かりました。通勤は新幹線で1時間弱。途中雪で一度遅れ、北大阪の地震にもあいました。元来鉄道大好きなので大して苦にはなりませんでした。むしろゆったり快適に座れる小一時間を楽しんでました。須磨からの海や明石海峡大橋を毎日見て、淡路島にも2週に一度くらい行きました。天気がいいと絶景でした。
ソフィーナのBCにも結構いじられ可愛がられました。大きなイベントのある流通うでしたが、結局それほど経験しないまま京都に半年後戻ります。2枚目の写真はオフィスのあった駅南側。じばさんビルという駐車場に社用車を停めました。半年ですが結構いろいろ充実した時期でした。

【庄八】

思い出から18:大阪市西区立売堀

【2014年~2017年】いたちぼり(立売堀)と読みます。
関西に戻った時小学生だったムスメがもう大学です。
商都大阪の中心部、ねじや工具などの製造卸も伝統的に多いところに、新しいビルや劇場、ホテルも立ち、京橋とは違った商都に事務所移転。白斑による自主回収問題の後、いよいよカネボウと花王の販売部門でのシナジーは進み、事実上の吸収合併に向かいます。
そんなカネボウの最後、蟷螂の斧のようにカネボウの関西程度の中でも、池井戸の小説のようにいろいろ浮き沈みありました。
この間、流通部門のトップで同期だった男は本社栄転後自殺。京橋の廊下で立ち話をしたのが最後で、厳しい本体の状況を垣間見ました。
私が仕えた上司も、ある権力の引っ張り合いで、セクハラなどで更迭されたはずの男の復権を許し、九州に去られました。

大阪の最後の1年半は、その反動もあり、冷や飯で現場復帰。年下の上司の元まあのんびりしました。結局、私らに変わった能力や人格が不足の者は評判悪く、朽ち果てていくのでした。
大阪にはキレイな熟女系から、大卒の女子まで結構いましたが、私個人はずっと一人を思い続けていて、あまり浮気心はなかったです。とても美しい江藤さん(仮名)という方が、独身で興味を持っていただいていた話がありましたが、まったく分不相応で丁重に躱したというと自慢気ですが、好きな人にはもてないものです。

神戸にいたある女性にはストーカーのように追い回されたこともありました。
まあ若い連中と一番酒量が上った時期でした。会社時代で一番楽しく過ごせた5年ほどの大阪でした。



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思い出から17:東京都品川

勤めていた会社の東京の本社もいくつか変遷した。若手に頃は直接本社に行くことも少なかったせいで、昨日の横浜の教育センターの方あが馴染み深い。元々化粧品本部(旧総販社)はライバル会社に対抗して銀座にあり、その後海岸通、虎の門っ経て現在の親会社と同居しての茅場町。茅場町の会議も何度か行ったが、その後品川インターシティ14~15階に大規模な研修施設を構えた。
ここからの景色といい、駅からスーツケースを転がしながらデッキを歩いてエレベーターを昇る恰好といい、本当に大企業のビジネスマンになったと感慨深かった。
ニコンのショウルームも在り、多くの企業が入居している。東京は広いし、丸の内やベイエリア、六本木や新橋など拠点となる街も多いがこの品川の施設、最後の数年何度か行ききし、年甲斐もなくアカウンティングを学び直し5泊くらいしたのも含め、通算でも20泊程度行った。

宿泊は少ししょぼく離れた東横インが割り当てられバス異動だった。
企業担当仲間だったお酒の強い、よく仕事を頑張る四藤さん(仮名)とは毎年2回、3年6回ほど関西から行っていた。一度品川で酔い潰れてタクシーで帰ったもののホテルのカードキーはあるものの部屋番号がわからない。こちらも酔っていて早く部屋に押し込んで帰りたいのでかたっぱしからキーをドアにタッチしていった。ようやく見つけて部屋に入れたものの、酔っぱらい女と一つの部屋に入ってしまっていた。
酔ってて、バツイチ独身の彼女、お礼とともにどっちでもいいよとは言ってくれたが、究極の据え膳を、ご辞退して部屋を去りました。
彼女はプレゼンや発想で一目を置いてくれていたし、二人呑みに行くこともあった関係ですが、お互いそこは踏みとどまるところはしっかりしていた。あの晩はよほど呑みたい事情があったのかと思う。
まあ良く学び、呑んだ品川の街だった。

やんちゃだけど、探究心旺盛で負けず嫌い。それでいて私のことは発想の豊かさを評価してくれていたように聞く。男としてはもっと若いイケメン好きだったのだろうが。
美人でもあり、新しい体制の中でも評価され女性幹部登用の道を進んでいるそうです。東京で会社の中心を席巻していることを、新幹線で通るたびに思い出す。

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