ケンタッキーのチキンが最高に美味しかった時代のクリスマス

ケンタッキー・フライド・チキンは1970年の大阪での万博に出店し、日本に新たな食文化をう持ち込みました。同時期のマクドナルドとともに、若者文化とともにファストフードというジャンルも生まれました。
1973年ごろからテレビコマーシャルも入り全国の都市部の拠点に出店しだしました、
我が家でも、小売店で共働きだったので外食というより店屋物代りにマクドナルドとともにケンタにも走りました。
鶏肉と言えば、手羽や唐揚げ、クリスマスにも実家の商店街の鶏肉卵店や総菜屋で買っていましたが、ケンタッキー・フライド・チキンの美味しさには家族全員驚いていました。
我が家が所属する地元商店街はケンタやマックが来るほどの集客が見込めない立地で、わざわざ電車や車で買い出しに出かけました。当時の人情で、地元の商店街で買わず街のデパートや新興のファストフードで買うのは気が引けこっそりと買いに行ったものです。
一般的にプロの料理店の出汁やソースなどが多種類出回る前の時代です。
素人の家庭料理では当時ケンタに歯が立たなかったのです。
実際に私の同級生は鶏(かしわ)屋だったのですが。これはアカン勝てんとあっさり商売を継ぐのをやめて田舎でペンションを始めました。
洋食にしろ、アメリカンスタイルのフードもまだまだ家庭に根づきだしたばかりの時代です。
日本のあちこちに大手チェーンを圧倒する個性的なグルメや、家庭でも手間暇をかければプロに負けない素材が揃いレシピの情報のある現代とは比較にならない時代がありました。
そんな子供心に夢なった、ケンタッキーのクリスマス。勇んで買いに行ってくれた父も母ももういないし、なんだかファストフードも何度もテコ入れしたメニューもありますが新鮮味も美味しさも飛び切りなものに感じることはありません。
やはり1970年代だから、語り継がれるほど懐かしい味なのです。
戦後、アメリカからの自由と豊かさの象徴のようにクリスマスの習慣は拡大し、お正月と連動して年末年始の大きなイベントになりました。今のなんでも揃う豊かな時代からすると、考えられない美味しさなのです。
あるブログでも同年代の方が何もなかった貧乏な田舎から出てきて、大学の先輩にケンタに連れていかれその味に衝撃を受けたという話には共鳴します。
今の世代の方も、爛熟の中大事な味を見つけて欲しいですね。

滋賀石山寺

センチメンタルになると、昔の部下を訪ね石山寺を歩く。紫式部のいにしえの物語に想いをはせ、思い出す昔の話とか、会えなかったあいだの他愛ない話しをする。雄大なびわ湖や滔々と流れる瀬田川を寄り添って眺めるだけで落ち着く。
どんなに美しい花も紅葉もやがては枯れ落ちる。それまでお互いもう少し精一杯走ろう。

閉店の悲しさ

長年親しんだ店、最近できたこじゃれた店。コロナの影響なのか、時代の流れや後継者不在などいろんな要因でしょうが、閉店の響きは寂しい。悲しいものです。
飲食店などそこで会った人、会話、それまでの思い出も含めて懐かしいものがこみ上げます。
飲食、観光を中心に自営の方は廃業も聞かれます。本当に心痛む話です。

3階建てが立派なビルに思えた時代

#京都#堀川三条

小学校の頃、校舎から眺めていた生命保険会社のビルがありました。3階か4階建てのビルでしたが、木造家屋が多い時代に未来的なビルディングだと思ってみてました。
生命保険会社のビルだったと思いますが、残念ながら今は跡形もないです。
写真は実家の近くのバス停、ここは父の商店が取引していた財閥系都市銀行の支店があった。バブル以前に隣の土地まで強引に買収して当時としては立派な近代的オフィスビルに建て直した。」ところが銀行として営業できたのはほんのわずか、統廃合や戦略的撤退か理由は忘れたがほとんど使われないまま空きビルになった。
今では回りのマンションから見下されるちっちゃな存在です。
都市銀行が街の商店街を相手にする時代ではないのでしょう。半沢直樹ではないが、この銀行も合併合併で名前も変わり今あの時代のバンカーはいないでしょう。

VISTAが見た12年

パソコンを買い替えて初めての投稿です。いろいろ不具合も多く遅くなっていました。バックアップもできなくなりさすがに決断しました。少し慣れないですが動作は早いです。
私はクルマもそうですが、とりあえず使えればそうマニアックには買い替えません。
今はとくにスマホでできることが増えました。
このブログもデバイスを変えると厄介だと思ってましたが、ついでにいろいろ確認できたことわかったことも多いです。やはりやってみることは良いことです。
この前のパソコンはWindows Vista というやや短期でXPにつないだ感のあるOSでした。
それまでももっと遅いMEでしたし、光に変えてネットのつながりの速さには満足でした。
当時は会社のセキュリティも緩く、家もパソコンで資料作ったり仕事するのは当たり前でした。
約12年の周期で今年はクルマとパソコン買い換え、家も12年目くらいです。
私事も、世間もいろいろあったこの干支や星座も巡った12年です。
リーマンショックからコロナショックまでです
オバマからトランプ、民主党から自民党政権へと戻りました。
私は父を8年前、母を今年亡くしました。12年前はまだ町の化粧品店が健在で店頭に立ってました。子供たちは小学校からもう社会人です。
東北で大きな地震がありました。仙台から転勤して2年後でした。
60歳での会社人生の転機を前に、充実した日々。有終の美を飾れたのかはわかりませんが民間会社37年を勤め上げました。大震災の翌年には、化粧品白斑自主回収問題という大きな波もありました。入社した会社と名前の違う会社で定年退職しました。
消費税は5%から8%、そして10%です。スマホが主流となり、大震災以降できたLINEやYouTubeやフェイスブックなどSNSの時代になりました。
平成の天皇陛下は初めて生前退位され元号は令和となりました。
これからの12年また何があるのでしょうか。

京都三条会商店街

京都の三条会商店街に実家がありました。
京都で最も長い約1キロ近い東西への広がりを誇る庶民的な商店街。
今は実家の店も人手に渡り、たまに訪れるだけです。近所だった友達や店の人たちを訪れる。
就職して他所の土地へいっても、里帰りで京都駅から市バスに乗り堀川三条のバス停で降りて両親の顔を見に行くのが楽しみでした。やはり実家でごろっとするのが一番気楽で落ち着きました。
私の小さい頃は食料品等の買い出しでにぎわう、京都市の北部や二条駅からの山陰線沿線まで商圏を持った地域最大の商店街でした。スーパー等の台頭が遅れる京都で長くアーケード型商店街は繁栄していました。それでも時代の波で昭和も後半にはジリ貧でした。寺町や錦のような繁華街ではなく、伏見大手筋のような集約性がない。ただ長いだけの商店街はやがてシャッターを閉めたままの店も増えだしました。
八年前に父がなくなりました。商店街の理事長を務めたこともあり、この街への愛着は誰よりもあったはずです。
世代がどんどん交代し、それでも若い世代が集客イベントをして活性化されました。
夏の夜店は関西に戻ったころ愚息らをはじめ子供たちみんなと大人も楽しむ大イベントでした。年を追うごとに拡大し人が増えました。地ビールやお化け屋敷、ジャズ等の音楽イベントなどもスゴイ人出だと聞きます。
生活必需品が大手量販に流れる中、スーパーやドラッグ、コンビニとも共存しながらこじゃれた飲食や雑貨が入ったりして独自色を強めています。
そんな変化を離れた場所で一人暮らす母に報告するように報告していたのも、母の急逝により終了しました。
街にはそれぞれ、昭和の時代から頑張った人たちの息遣いが残っています。

地元商店街にエール

個人商店が後継者問題や、大手進出、流通や販売構造の変化で先細り、シャッター商店街等と揶揄されてかなりの時間が経過しました。
かつてはイオンモールを凌ぐ賑わいとか楽しさがあった商店街も、次代とともに生き残りは厳しくなり、今回のコロナ禍で、生き残れるとろは少ないと言われます。いくつかの給付や支援もあってもなかなか聞けば厳しいものがあります。
インバウンドバブルに合わせ、拡張したり依存していたところは当面戻りません。
私は京都の下町を代表する大きな商店街の中にある店舗付き住宅に生まれ育ちました。社会というのはいろんな店の人たち+農業ぐらいで成り立っていて、サラリーマンっていった何やってる人かと思っていました。
そんな商店街、今はイベントやおしゃれな店も増えて個性化でつないでいるところもあり、私の実家のあったところもそです。
かつては市場の役割で広い商圏も持っていましたが、今は生鮮等が主要ではなくなりました。
生活必需品はスーパーやドラッグ、ネット通販で買い、リアルの何らかの楽しみを商店街に求めてくる人の割合が増えていました。
私は二男で後を継ぎませんでした。残念ながら実家も他人の手に渡りましたが故郷は「商店街」です。
朱川湊人さんの小説「かたみ歌」にでてくるアカシヤ商店街。昭和30~40年代の描写にジンと来ます。
今回のコロナは厳しいですが、精一杯地元にエールを送って欲しいです。ネットは便利ですが地元に店がコンビニだけでは寂しいです。

思い出から22:嵐山、太秦

2007年から京都市右京区太秦に住みました。草津、大阪、姫路、京都の各オフィスに通い2019年定年退職。嵐電で行く嵐山が近い。
実家の中京区から見れば西の端だと思っていたが、地下鉄東西線が延び交通至便。嵐電と地下鉄2ウエイアクセツの最寄。
駅のビアガーデン、キモノフォレストなどパビリオンのような京福嵐山駅にも10分。
景色は、東北とも瀬戸内とも東海とも違うが毎日はそれぞれ輝く。
沢山の友人知人貧富喜怒哀楽それぞれ。
どこに住んでもまあ生きていくのは辛いし楽しい。

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思い出から21:京都市伏見区

私の父親の郷は伏見区上鳥羽です。
こどもの頃、広い畑や庭があり虫とりした田舎ですが、今は国道沿いもぎっしり店、狭い道にも入っても住宅街です。
何の縁か今そちらの区で仕事をしています。
伏見はかつて伏見市であり京の都とは少し離れた別の街だったのです。
学生時代からの友達も多く、酒どころで最近もおしゃれな飲み屋も多いです。
大手筋商店街は賑やかで充実じた商店街です。父も三条の商店街でしたが大手筋にはなかなか勝てないと言ってました。都市銀行も構え、ステータスの高い商店街です。伏見は東に行くほど高くなり、近鉄や京阪の駅から大手筋は下りになるので見通しがよくすごくが多く見えます。
伏見稲荷はいまやインバウンド占拠され、人が多すぎます。

リタイアして雇用延長せず別の仕事を探しました。これが結構大変なものです。こういうブログなどのモノ書きだけでとも思いましたが、外に出て働くことはリズムとしていいことです。充実ともいえるし、また一からの多くの苦労、出会いも屈辱もいろいろあります。それが人生、再生なのかとも思います。
またウダウダ言いながらも頑張ればいいことがある。

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思い出から20:京都市中京区(烏丸御池)

【2018年7月~2019年5月】会社勤めの最後は地元京滋支店京都オフィス。ちなみに新婚時代の1995年にいた長岡京から通った京都オフィスは堀川五条にあって直前に花王オフィスに吸収合併されるように御池に移った。サテライトの滋賀オフィスも草津から栗東。上司ラインはカネボウ出身だが勢力は劣勢でした。まあチームとしてはいかにもM&Aの寄せ集め感は続きました。
懐かしい滋賀、京都のメンバーとも再会。最後の一仕事として京都、亀岡、滋賀の長浜、高の原まで広いエリアを回りました。
烏丸御池は京都唯一のオフィス街でナカ食用のお弁当やさんが出るなど、なかなかの都会です。もちろん長年、乗換駅としても買い物などにも利用し、NHKやハローワーク、まんがミュージアムや新風館、文化博物館などもあり寺町までの三条通り御池通りともレトロやおしゃれなスポットが集まっています。
後に託す定年前の決断と実行。ほのかな憧れの想いもキレイに送別していただきました。

定年前とはいえ、広いエリアでカネボウとソフィーナ相手に変わりつつある営業体制とそれを守りたい保守側の間に立ちさまざま苦労はありました。
しかし強圧的な上司もいなければ、売り上げの立て替えなどの苦労もない。気難しい取引先のアポくらいでした。
そしてこのブログのテーマでもあった【天使が舞い降りる25の法則】を関係者全員にお別れの御挨拶メールとして送りました。いろんな方から予想以上に返信が来て感動したことにこちらも感動しました。メールの宛名をスクロールするとまるで映画のラストのエンドロールを見たような企図以上のものが実現できました。

逃げてばかりの時代もあったが、勉強もした。燃えて頑張った。苦しくても会社の看板が替わり新聞で叩かれても耐えた。家族に苦労もかけた。でも37年定年までやりきって、最後の頃はボーナスステージのようにいいこともあった。
人生結構捨てたモノではないです。どこかで天使は舞い降ります。

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