セリーグDH制

日本プロ野球、セリーグの巨人が日本シリーズで2年連続4タテを食らい、セパの実力差が顕著に問題にされ、巨人中心にセのDH制導入が叫ばれています。
長年のパリーグファンから言わしめれば何を今さらではあります。
パにDH制が導入されてもう45年もたちます。閑古鳥のなくスタジアムで苦労してアイデアを駆使した当時の関係者さん。邪道だと言われ人気ではセリーグに遠く及ばなかったパリーグですが、今はプロ野球人気のシェアは低下した中セリーグとパリーグの人気はそう差野内時代です。
実際にDHがいいかどうか、たしかに投手が打席に立って無気力な安全牌みたいな、守備側の息抜きみたいな打席はプロとして失礼とも言われています。また投手交代や投手の打撃や高度な戦術都みる伝統派の意見もあります。双方それぞれの言い分でしょう、ただルールは統一して進化した方が公平で面白くなります。サッカーやラグビーの世界メジャーの競技がそうです。いくつもルール改正はあり、全体の競技の面白さは上がっています。

12月21日、24節気冬至、星座は22日から蠍座へ

暖冬が多かった近年、久々に冬至までに大雪と寒波に見舞われました。冬らしい冬です。今年は新型コロナウィルス感染症が蔓延してこれ以上寒波が続いても、体調を壊す方がいないか心配です。
冬至は一年で一番日中が短い日です。日の出7時前日の入りは夕方4時半過ぎぐらいです。これからは日は少し長くなりますが、寒さは厳しい季節で何度か寒波も予想されています。
年末年始の帰省や旅行の制限がこんなに問題になった年もないです。
一年最後の黄道太陽占星術の星座は12月22日から蠍座へと移ります。
情熱的で白黒はっきりの蠍座が、年間の活動のラストスパートです。12月が決算や1年のかきいれどきという方も多いでしょう。本当にいろいろあった2020年ですが、良い年になるように、あと少しの活動を健康に気をつけて目いっぱい行きましょう。

鉄旅の原点大阪万博の迷子 阪急電車

私は熱中すると衝動的で周りが見えない。忘れ物も多く、一人でフラフラする。小学校時代テスト等の成績はいいが、かたずけるとかできない落ち着きのない子でした。今ならADHD気味といわれても仕方のない子でした。

1970年大阪で万国博覧会が開催された。それは当時小学5年生だった私にとても魅力的なイベントに見えました。近未来のさまざまなパビリオンは紹介記事をみるだけでわくわくしたものです。京都の小学生なので一度遠足で、少しだけ初見体験をしました。行列のできる有名なパビリオンは行けず、地味な外国館だけしかこの時は訪れりことができず後日家族でクルマに乗り再訪することができました。
しかし、人混みの大混雑の中、何と私はこの時フラフラして家族とはぐれてしまい、迷子になってしまいました。
小学校5年くらいなので迷子センターのようなところへ行くのはちょうど照れ臭い年だったのではと後から言われています。そういうところに駆け込むべきか、しばらく両親、兄を探しながらもものすごい人なので再会できる雰囲気ではありませんでした。クルマを探すといってもさすがにいくつもの駐車場のどこかわかりません。幸い会場マップはあり、お金もありましたので飲み物を買い電車賃くらいは十分あったので、とりあえずいくつかのパビリオンを見てひとりで帰ることにしました。
当時京都の自宅へのルートは2つ。阪急四条大宮駅が最寄でしたので、南茨木駅からのシャトルバス(南茨木への大阪モノレールはまだ未開業)、万国博西口駅(現阪急千里線山田駅の北側にあった)から淡路乗り換えで京都線のどちらか。西口経由は遠回りですが阪急だけで行けるのでバスよりは簡単な乗り換えと判断して、暗くならない間に西口へ向かいました。鉄道地図や路線図を見るのは好きだったので淡路駅でも迷いはなかったのでしょう。無事自宅には帰りましたが、両親には心配もかけ後々も語り草なエピソードでした。
私の鉄旅の原点でした。
なお大阪モノレールは1980年の開業で、この時会場内交通として環状モノレールと、遊覧ロープウエイもありましたが乗っていないと思います。

中島みゆき「悪女」の思い出

セレクトアルバム買いました。エール編と寄り添い編の2枚組。よく聴いた唄です。中島みゆきさんは「わかれうた」「アザミ嬢のララバイ」「悪女」など初期には哀しくやや哀れを誘う女性を描いた唄を多く世に出していました。
「悪女」もそんなに悪い女ではなく、一人で強がり寂しがっているような女性が悪女になりたいとの願望です。私が一番印象に残るのが「あした」という曲です。この歌詞も少し怖いような女性が出てきますが、やはりその実は哀しい土砂降りのような人生を味わったです。
この曲を聴くたび、私は実際に出会ったSという女性を思い出します。
強がりで見え張りで、S傾向も強い美人で仕事も良くこなされました。上昇志向が強く社内の時のトップに媚び上司に媚び、同性の一部からは徹底的に嫌われていました。どこか詰めの甘いところがあり、ばれやすい嘘をつくところが憎めない。化粧や整形(たぶん)、スタイルには気を使うものの喫煙もヘビーでお酒も強く、夜には強いが朝には弱いメンタルのバランスも悪くとても健康的とはいえませんでした。
そんな彼女と何度か食事をし、微妙な関係のまま夜を過ごしたことがあります。
彼女の家で昇進試験の勉強を教えることになったのですが、私はてっきる既婚者で知っていて旦那さんに挨拶するつもりでしたが、すでに別居していたのでした。
騙すようになったことを知った私の気持ちを、空気で悟った彼女は強引なことはしませんでした。ワインを飲み寄り添いはしました。
しかし敏感なところもあり。彼女なりの感性で私自身が妻を裏切ることがないことを感じ取るようでした。
甘える声は可愛いのですが。二人は永遠に交わらない平行線だとお互い気付きました。
深夜ではありましたが送ってはもらわず、最終電車には間に合い帰りました。その後長い間私は彼女の魅力と毒に悩まされました。そういう面では本当に悪女だったのかもしれません。

ケンタッキーのチキンが最高に美味しかった時代のクリスマス

ケンタッキー・フライド・チキンは1970年の大阪での万博に出店し、日本に新たな食文化をう持ち込みました。同時期のマクドナルドとともに、若者文化とともにファストフードというジャンルも生まれました。
1973年ごろからテレビコマーシャルも入り全国の都市部の拠点に出店しだしました、
我が家でも、小売店で共働きだったので外食というより店屋物代りにマクドナルドとともにケンタにも走りました。
鶏肉と言えば、手羽や唐揚げ、クリスマスにも実家の商店街の鶏肉卵店や総菜屋で買っていましたが、ケンタッキー・フライド・チキンの美味しさには家族全員驚いていました。
我が家が所属する地元商店街はケンタやマックが来るほどの集客が見込めない立地で、わざわざ電車や車で買い出しに出かけました。当時の人情で、地元の商店街で買わず街のデパートや新興のファストフードで買うのは気が引けこっそりと買いに行ったものです。
一般的にプロの料理店の出汁やソースなどが多種類出回る前の時代です。
素人の家庭料理では当時ケンタに歯が立たなかったのです。
実際に私の同級生は鶏(かしわ)屋だったのですが。これはアカン勝てんとあっさり商売を継ぐのをやめて田舎でペンションを始めました。
洋食にしろ、アメリカンスタイルのフードもまだまだ家庭に根づきだしたばかりの時代です。
日本のあちこちに大手チェーンを圧倒する個性的なグルメや、家庭でも手間暇をかければプロに負けない素材が揃いレシピの情報のある現代とは比較にならない時代がありました。
そんな子供心に夢なった、ケンタッキーのクリスマス。勇んで買いに行ってくれた父も母ももういないし、なんだかファストフードも何度もテコ入れしたメニューもありますが新鮮味も美味しさも飛び切りなものに感じることはありません。
やはり1970年代だから、語り継がれるほど懐かしい味なのです。
戦後、アメリカからの自由と豊かさの象徴のようにクリスマスの習慣は拡大し、お正月と連動して年末年始の大きなイベントになりました。今のなんでも揃う豊かな時代からすると、考えられない美味しさなのです。
あるブログでも同年代の方が何もなかった貧乏な田舎から出てきて、大学の先輩にケンタに連れていかれその味に衝撃を受けたという話には共鳴します。
今の世代の方も、爛熟の中大事な味を見つけて欲しいですね。

Christmas:子供たちの明るい未来に社会を

2050年ぐらいにはどのような未来が待っているのか。全くこれから20年、30年先など予想もつかないけど。子供たちには明るい未来であって欲しい。
それがクリスマスの最大のプレゼントでしょう。
大人は自分の世代、自分の料簡だけで考えず、未来のための何ができるかが義務です。比率がどうあれ子供と大人は学びあい、愛し合い、助け合うことによって幸福な未来の社会が築けるのです、
幸せは子供の数で決まるでしょうか、子供が一人でも10人でもどちらが幸せとは言えません。少子高齢化は社会全体としては問題ですが、個々の世代が嘆くことでも争うことでもありません。
それぞれの世代が助け合い、背負いあい家庭を守ることが全体の幸福につながります。
科学や医学、社会の仕組みもやがて発展し変わっていきます。
子供のために、ハッピーなクリスマスを届けましょう。

大雪  二十四節気

北日本ではすでに大雪という季節ですが、その他の地域では12月上旬では大雪はまだです。二十四節気は12月7日から大雪(たいせつ)となります。平地にも雪がちらつき、本格的な冬の到来、冬ごもりがはじまるのだそうです。
コロナで移動自粛といいますが、雪国では少し前まで食料や燃料を貯めこんで冬はじっとこもる季節でした。コンビニが24時間営業、ネット販売やデリバリ等はごく最近の話です。
クリスマスやお正月はそんな中での少しの楽しみだったのでしょう。
便利さが失われ、贅沢ができなくなると何だか一遍に不幸を感じますが、少し前なら当たり前のことだったりするかもしれません。

今年はちょっとついてなかっても

私も今年は母が亡くなりました。悲しいこと、ついてないことがあった方、コロナとその経済的影響で苦しんでいる方も多いでしょう。
喪中でもクリスマスは許されるようです。
街やメディアから聞こえるクリスマスソング。
そしてそのあとには、今はついてなくてもハッピーなニューイヤーが来ます。

明けない夜はない

いろいろ秘境地のような景色のいいところでも、天気や季節により素晴らしい夜明けが見れない時もあります。
普段見慣れた家からでも、とてもきれいな朝焼けが見れるときもあります。
苦しく、悔しく、悲しい夜でも、必ず夜明けは来ます。
東には東の正しさ、西には西の正しさがあります。
右にも左にも正しさがあります。
正しさと正しさのぶつかりで、人は疲れます。
漆黒の闇の純粋さ、堂々と眩い朝焼け、悩んでいるときは大きく見えた課題も嫌な相手も少しちっぽけに感じられたら今日は朝からいいことが期待できます。

戦前生まれの母の晩年

昭和一桁生まれだから、戦中と敗戦後の苦しい昭和とその後の平成を生き抜いた母。今年令和2年7月87歳で私の母は大往生しました。子育てや教育も今とは大違いで、小売店の一人娘ですから、門外不出ではあれ、妻と母、販売員を兼務して私を育ててくれました。
晩年はわがままだけの印象で、高齢者施設で一人寂しい最期でした。一日中地上波のテレビをつけ、何をするでもなく足腰も衰えていきました。
忙しく充実して苦労した若い時期の反動なのか、とくに父と一緒に動いていたため一人になってからは物臭で面倒なことは一切やらないわがままで、嫌われ者でした。
反面教師ではないですが、充実した楽しい老いを迎えるにはどうすれば良いのか、深く考えずにいられません。
友達も減り、子供も孫もしょせん世代は違います。機械や仕組みはいろいろ時代で変わり孤独な老人は取り残されやすいです。謙虚に、孤独を見つめ、一人でもしっかり歩いて、孤独と時間を楽しめるようにありたいです。