日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】2

京都高野にある工場跡の銘板
団地の集会所として残る工場の建物の一部(京都高野)

カネボウと歩んだ人生2

京都の洛北高野にイズミヤと阪急のグループのショッピングセンターがあります。
京都に生まれ育った私にはスケート場やホテルだった時代も思い出されます。そしてその横にある高野団地というステータスの高い集合住宅とともに、以前は鐘紡京都工場という京都最大であり東洋一とも言われた紡績工場がありました。
山科にも大きな工場を持ち、間違いなく京都市内で戦前戦後を通じ面積、人員等の規模で最大の工場を有する企業でした。それは全国におよび雇用、知名度の面でもステータスの高い企業だったことがわかります。高野工場だけでも戦前で3000人を超え、戦後でも2000人近い従業員がいて天皇陛下も行幸されたとあります。
私が子供の頃に、元慶應の野球選手で化粧品の地区販売会社のトップに来られた方が得意先を回っていました。
事業転換、本業喪失からの異動とはいえ、化粧品の他メーカーに比べ、慶應出のエリートが上に立つカネボウ化粧品は上品な会社に思われていました。
戦後何度も都市対抗を制した全鐘紡というアマ野球の最高峰のチームを抱えていました。それも繊維不況もあおりで手放すこととなります。
オール鐘紡の名前はオールド野球ファンには著名です。また全国には鐘紡工場の地名が通りや街に残っています。静岡のカネボウ通りや、防府の鐘紡町等は有名です。
ちなみに鐘紡では工場長、販社社長のトップを支配人という役職で呼びました。
高度経済成長と資生堂に食らいつくチェーン店戦略の勢いで化粧品は伸び、繊維の赤字を体よく誤魔化す状態が続きました。多くの工場が閉鎖され土地も売られていきました。
野球部のリストラでさえかなりの反発を食いながらの英断でした。繊維事業を元から手放すのはさすがに躊躇われました。そのまま100周年で世間はバブル期を迎えます。
私は社会人としての基本、営業マンとしての基本がまだまだの時代でした。バブルとはいえ厳しい前年比のノルマで楽をした覚えはありません。
カネボウと歩んだ人生等と大それたモノを書いてますが、今でこそ三十数年勤め上げたと褒められる時もありますが、歴史ある会社にとってはほんのミジンコのような存在でした。それまでも栄光ある大会社の諸先輩は綺羅星のごとく沢山おられました。
それでも当時の会社は勢いとしては化粧品業界として二番手ながら印象度を資生堂と同格に認知させるマーケティング戦略もあたり、すっかり総合的な美を売るメーカーとして新たな時代を迎えていました。

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