迷いながら道を歩き続ける   #ここはどこ#山の辺の道#念仏寺#六地蔵

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 私は外を出歩くのが好きな性質なのでしょう。仕事でも休日でも、籠ってばかりでは飽きてきて、フラフラと歩いて何かを見つけてそれを活かすのが生き甲斐のようです。かといって、本格的なハイキングやトレッキングでもなく、ましてた登山、マラソンには遠いです。
 知る人ぞ知るニッチな趣味として、乗り鉄やそこから派生した廃線跡探訪、街歩きで古い町並みや寺社を訪ね、ホーロー看板を探索するなどをしています。歩くのが嫌いな人にとっては信じられない10キロほどの距離を探索しながら夢中になって日暮れまでいます。感心する人もおられますが、ただ何も無ければ苦行のように、そんなに歩いたり走ったりしません。そこはマラソン走る人には感心します。

 ホーロー看板の場合、撮影も含め不審に思われるのと、ウロチョロと急に周りの予測のつかない動きをしますので、そのうちクルマに轢かれないか我ながら心配です。
 どうしても、山や森に入って探索や散歩をするときがあり、道に迷って「ここはどこ」という感じになるときもあります。ふらっと出てきているから、捜索とかされたら家族も知らず大迷惑で、そこも避けたいです。しかし、まあ明確な道しるべがあっての散策ではないのでとくに田舎では心配です。

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 比叡山の廃線跡で、帰りの駅への道を間違え、鹿に出会うけものみちに迷い込み、このまま日暮れたらどうしようかと思いました。
 先日も奈良の天理から桜井への山の辺の道に、急に思い立っていったもので、トレッキングに近い山道へ、入ってしまい、だいたいは歩けましたが苦労しました。何回かここでいいのかと分かれ道に悩みました。観光案内にもあった念仏寺では、いつの間にか墓地を通る道に入ってしまい、最後には六地蔵に出会えましたが、妙な体験でした。

 こんな日に一人で「ここはどこ」と思うような、自然以外に何もない長閑な場所に居れるのは不安よりも安らぎが生まれます。

 人生の歩みもそんなものでしょうか、ずっと決まりきった道を歩む人もいるでしょうが、必ずどこかで分かれ道に出会います。もちろん日々のんきに休むむこともままならず目の前に示された厳しいがまっすぐの安定した道を行く人がいてこそ、社会は支えられるのでそこに大きな意義はあるでしょう。
 社会は誰かが、新しい道、違う道を歩き踏みしめ、誰かが今までの道を護り、それで成り立っているのです。

 年末年始で、帰省のニュースなどが出ると、反面で孤独の寂寥が増す人がいますが、人間はしょせん一人でいろんな道を歩いているのです。誰の道が正しいとか、楽とか間違いも模範解答もありません。
 ただ、歩いていると季節や年齢、天気、体調、時間でもそれぞれ全く違う新しい光景が見られ「ここはどこ」と思え、また別の場所へと歩むのです。

 

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