一番苦しかった時に助けてくれた古都の女性 

 転勤での仙台時代に、妻と子が同時に入院するという最悪事態を経験しましたが、いろいろ思い返すと自分にとっては一番厳しいのが東北から関西に戻ってきた数年でした。
 決して栄転ではなく。地元の方が家族の面倒を見てくれる人もいるだろうぐらいの配慮で、東北でのドル箱の企業担当も昇進も手放し、名ばかり管理職のような扱いでした。実際には権限がなくノルマがきついだけの状況で、家族事情などの考慮もなされる訳はありませんでした。
 四面楚歌。近畿地方のある県に赴任した時期、妻の乳がんが再発。当時の見立てでは再発での余命は5年程度。小学生の子供二人がこれから経験していくライフイベントを見ることが難しいという宣告でした。
 頭が真っ白になりそうな中で、割り切って仕事に集中するほど出来た大人ではありませんでした。
 肝心なところでは、無理して顔を出してこその営業職らしさも、先を読んでの根回しなども何もかも面倒になりました。
 優秀な部下や上司でそこらを分かれば何でもなく乗り切れる体制はありません。昔から古い甘えの構造で生きて来た体質の部下は、おだてて、おぜん立てをして、支えて後押ししないと文句ばかり、上げ足取りに終始するような者が多かったです。
 そんな中で、最大の取引先の大手ドラッグストアチェーンMの県内唯一の店を担当する、平石春子さんと言う女性は、ポイントの毎月の打ち合わせをすれば、あとは独力でやり遂げ、仕入れの数字も無理をして作れる優等生でした。
 細い腕で華奢な体ながら、従順で、的確な質問しかしません。何より、私を立て支える優しさに満ちていました。
 それに比べ。Mの吸収されそうながら地元の薬店で、昔ながらの取引先との人間関係やら、手のかかるこだわりの販促を要求してくるKという店には苦労しました。イベントの打ち合わせも長く遅くなり、どうでもいい内容につき合わされ辟易しました。そのイヤ感がお互いに伝わり、担当の町田裕子ともども最悪の関係でした。まあ、まだ当時のベテラン社員のビューティ担当部員は高卒で、理屈では動かないタイプが多かったのです。
 社内でも、取引先でも徹底的に攻撃してくる町田さんには正直呆れますし、ギブアップでしたが上司とも反りは悪く、手が付けられない感じでした。町田の担当のKには頼むこともなく、最低限しか足を運ばず、知らず知らずに平石さんの方に頼り勝ちになります。
 そんな期待に彼女は良く応えてもくれましたし、町田さんとも最低限のパイプはつないでくれました。心優しく見えて芯はしっかりしている、小さい子を育て保育園に迎えに行く、シングルマザーでした。上司からは「平石はああ見えて、強いし、譲らないところは譲らない。離婚の時はスゴイ権幕だった」と意外な面も聞きました。
 私は、家庭のことで小手先の仕事しかしていなかったのか、平石春子さんのそんな面は想像もつかずに一緒にやっていました。
 どうしても、電車の時間に遅れ、お迎えに間に合わない打ち合わせが延びた夜、そんな春子さんを送って営業車を走らせました。
 2歳保育の小さな女の子ナナちゃんを迎えに行くと、子供にも保育士にも私は変な目で見られました。
 それにしても、キャリアウーマンから優しい母親に一瞬で変身する春子さんにも感動しました。
「今夜は本当にありがとうございました。助かりました」
 暴力なのか浮気なのか、ギャンブルやお金なのか、こんなに健気で美しい妻と離婚する男の気がしれませんでした。
 卒乳がまだできない、少したどたどしいおしゃべりであどけない女の子と母乳を与える母親。何度かお迎えをするうちにすっかり私にもなつき、笑顔を見せるようになりました。
「イノウエしゃん。ナナのパパになって」
 ナナちゃんの笑顔と、それを支える春子さんの仕事ぶりが、最悪の時期の私を何とか持ちこたえさせた清涼剤、いや奇跡的に鬱に陥らなかった力の源だったかもしれません。
「もしかしたら、このままここに」
 と不謹慎なことまで考えたことさえありました。
 古都の静かな街の小さなマンションで、子供の喧騒の中にも癒される時間がありました。子供は周りにポジティブな影響を与えてくれる何か力を持っているとも思いました。

 あの最悪の時から、10年以上を過ぎました。あの時の仕事もその会社、組織もすっかり変わり私は定年を迎えました。子供もある程度巣立ち、妻も子供もあのシンドイ時期を振り返ることもなく、平凡でどこにでもなる家庭に収まっています。

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