20歳国民年金納付か学生特例猶予か

これは親御さんからの相談がおおいです。子供が二十歳になって、国民年金の納付書や免除申請用紙が来たが、どうしようかというご相談です。

本来、二十歳なので大人になった本人が考えないといけないのですが、何せ経済的にも自立していない上、保険や年金、老後などイメージできる年ではありません。

ワタシも、会社に入っても退職金や厚生年金の意味など、何もわからないに等しく働いてました。ただ、親御さんが立て替えるなら年金の意味、将来までの働き方、生き方とともに、お話はしてみるといいでしょう。ただ、支払うだけ、手続きすらだけでは、子供は何も知りません。社会保険のことを少しでも理解することは、良い勉強です。

良かれと思って、払っていた、免除の手続きをしたことで、何も知らないまま中年になり、親も死んでいくことは、年金不安以上に、不安なことです。年金は払ったほうが老後の安心のためにはなります。学費などで、今は払えなくとも、猶予手続きをして10年以内なら、お支払はできます。

支払う年金保険料は確定申告で控除もされます。

40年後の日本は想像し難いですが、年金制度は崩壊はしません。年金を払って老後に払わなかった人と同じにはなりません。払った人は、プラスアルファの金額を税金から受け取れます。払わなかった人も、税金は払っていたので受けとるものがなきと損をします。

人生応援:辛いときも

失敗したと思う時、辛い時期、苦しい時必ずあります。でもいつか振り返れます。それは次のステップへの糧になった。あんな時代もあったと思い返せる時は確実に来ます。

未来を想像しながら、今日を生きよう!【7】

想像しやすい未来というのは、ロボット化した社会だったり、リニアや宇宙旅行、がんの特効薬が市民に身近なものになるイメージかもしれません。
これが実際に少子高齢化の日本だと、こういう夢に描きやすいポジティブなものが、雇用の喪失、都市部と地方の格差、貧富格差、財政破綻の問題になります。医療は発達して寿命は延びてもそれは、高齢者が住みにくいお金もないでは悲劇にしかつながりません。
具体的には、献血や輸血が可能な世代の割合が減っていきます。どこかのポイントで血液製剤なども高騰します。今は日本が金満で世界に先んじてコロナのウィルスも買い付けられます。20年30年経つと、働き手も減りGDPもどんどん真ん中から下位の国になったら、そうもいかなくなります。
グローバルが何もかも良いとは言いませんが、今の世界の大学ランクの上位にまるで食い込めない日本の学術や研究ではとうてい技術立国は崩壊しています。
世界のトップ近くをぐんぐん加速して走っていた時代と、中下位で目標も無く引きずられる苦しい走りでは、高度成長期やバブル期に育った日本人に想像できない難しい問題が山積します。

生きることも老いることも病気になることも、死ぬことと同じ四苦の一つとも言われます。それでも医学の進歩で寿命が延びることが悲劇なら、研究自体に大義がなくなります。
苦痛を緩和することに専念した方が良いではないですか。高齢化とは年寄が死なないことでその比率があがることです。
少子化とイコールではありません。
少子化は子供の数が減ることです。人口全体も減る問題です。少子のままですと次の子供を作る世代の人数も減るとうことです。少子化対策は子供を沢山つくることを奨励することです。
高齢化社会は、勤労者人口の割合が減るという問題につながります。2050年ころには日本全体で半部くらいが老人ホーム、高齢者住宅等の世帯になっています。
年金や健康保険などは崩壊しかねないです。何とか高齢者も簡単な介護などで働けるような雇用を作るしかないでしょう。夢に描かれた未来とは遠いですが、現実はAIやロボットを活かし、人間が楽に仕事するイメージの雇用が必要でしょう。
今の雇用は、ハードな肉体や、専門的なマネジメントやスキルが必要ですが、もう少し人間がそこにいて確認と信頼を与えるだけの仕事にできないかでしょう。
人生が豊かで面白いから、次の世代に伝えたくなるから子供やその先の世界が広がるのです。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ14】

カネボウ化粧品と歩んだ人生14  白斑自主回収【前半】

タイトルだけで言いますと日本最大の企業だったカネボウは倒産していますが、私の人生の中でのカネボウ化粧品との勤めは続きました。2007年から2011年あたりはシナジーを模索し、両者の企業風土の違いを詰めるのに動きだしました。物流を統合したり、販促の連携はするもののなかなか一体にはなれず。やはり化粧品はカネボウの安堵感も社員に流れました。
2011年の東日本大震災も大変な被害でしたが202年の業績は順調でした。ところがこの翌年2013年7月不穏すぎるムードが漂いました。7月1日の人事異動も凍結して事態に当たれとの指示でした。明日大きなニュースがあると聞かされ、大きな回収があるという話でした。
当時のカウンセリングスキンケアの肝心要の、美白化粧品ブランシールスぺリアを中心に美白シリーズ52の化粧品に含まれる医薬部外品の主剤(美白有効成分)ロドデノールにより、斑に白くなる症例が判明したのです。
私は当時、本店に呼びつけられた大阪の幹部に『大変なことになった。これは存亡にかかわる一大事』とこっそり告げられました。私はカウンセリング比率の低い企業担当でした。全社あげての対応に駆り出されます。
休日も返上の社員も増えました。
それは実質カネボウの名前の販売会社が消えるという流れを加速させました。
押し寄せる返品の電話。涙する販売のスタッフ。押し寄せる返品や販促撤去。
(15:白斑自主回収後半に続きます)

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】6

カネボウとともに歩んだ人生6

化粧品の営業でしたが、総合繊維メーカーとしていろんなモノを扱いました。
それは前にも述べた繊維をはじめ食品、ファッション、薬品、ハウジング、電子部品などは上位シェアに程遠く、ニッチ商品はあってもなかなか売上高や収益を大きく改善できなかったからです。
百貨店やスーパー等ショップで扱いのも厳しいなか、カネボウ化粧品の専門店に白羽の屋が立ちます。
第一弾が私の入社2年目1983年、ジャンティショーツという女性向けのパンティでした。 単価はしれていましたがまあまあ売れてヒット商品と喧伝されました。
その後、売りにくいパジャマやらブラウス、パンスト等が続々発売されました。化粧品より卸値は低いが返品不可でした。パンストは今も続く大ヒット商品となりました。
健康食品系も沢山でました。ビタミンEやC、減肥茶やロイヤルゼリー、アミノ酸、怪しげな健康食品も化粧品店に取扱いを懇願しました。
三菱電機との絡みでランジェリードライヤーという下着乾燥機を売ったこともあります。
薬品はさすがに卸すことはできませんでした。
カタゲンというB型肝炎のクスリに三共製薬と共同で力を入れていましたが副作用が問題で1985年販売中止となり、新薬部門は大きく後退し、漢方薬中心の部門になりました。
新薬部門は業績悪化で後に外資系の切り売りされ、漢方だけ残りました。長年の研究開発から認可までコストと時間のかかる新薬にこれ以上力を入れるお金は無かったのでしょう。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】4

カネボウとともに歩んだ人生4

昭和から令和にかけての各時代、カネボウ化粧品の営業現場にいました。
昭和57年、まさに昭和のモーレツ営業の大阪第一南販社というところに転籍配属されました。
今の営業と、本質的には違わないのですが、まず男性ばかりで夏も背広にネクタイ。クールビズなんて無かった時代です。
毎月15日が売上〆、別に月末の売上〆も中間にあり、返品の〆切が月初めにあり、こういうものに追われるスタイルでした。今でも悪夢のように思いだします。「〆だけど足りない」どうしよう、月末〆は空打ちのような売上計上で返品で誤魔化せても、15日〆は末か(口座振替日)にお金が入らないと行けません。なかなか毎月の報告も大変でした。
昭和なんで、人間関係の占める部分が多く、顔を売り人の良さにつけこむ、汗を流すと何とかなる時代。相手も安定した利益の幅があり、お金も持っているけれど在庫もあるというそれはそれで難しい時代でした。
牧歌的と振り返るほど良い時代ではありません。週休2日でもなく隔週に日曜日となぜか月曜日が休みになる変則週休2日程度。残業代のでないサービス残業は毎日4時間以上深夜に及びました。というか営業は外で休んで、遅く会社に帰り幹部の帰りを見計らって仕事をしたり帰ったりでした。〆前だとのうこれは帰れません。テレワークなんぞとは遠い世界でした。
人間を育てる側面もあったかもしれませんが、私はダメでした。
ただその昭和の営業、その力がアダとなり粉飾へと駆け上っていく。そんな苦しさを昭和から平成への時代で映画を極めた化粧品事業にも影を差していくのでした。
商品の架空売り上げが海に浮かんだとかいいうのも実際にありました。そして商品、カネ、女性関係で退社する人間も沢山いました。
もちろん随所で成功してのし上がった人間もいますし、各人の運と力量、相性やタイミングもそれぞれだったのでしょう。資生堂は待遇はいいようでも決して行きたいとは思わない。コーセーはまだまだ個人経営で今ほどの勢いはない、外資のマックスファクターがP&Gになる前でここも泡沫でした。
最後の社長となった帆足隆氏などは伝説のカリスマ営業マンで、粘りと熱意で突破するタイプで上に立てばパワハラになりやすく、下につくものはどうしてもイエスマンになり、事なかれで従い粉飾の温床となるのでした。

実家の商店街を歩く

昭和9年生まれの母が逝きました。実家のあった商店街に挨拶がてら、散歩。店も代替わりして、コジャレた新しい店もどんどん増えている。戦中戦後まもなくから平成、令和までモーレツに働いた世代の思い出が街のあちこちにあります。

実家の商店街を歩く

昭和9年生まれの母が逝きました。実家のあった商店街に挨拶がてら、散歩。店も代替わりして、コジャレた新しい店もどんどん増えている。戦中戦後まもなくから平成、令和までモーレツに働いた世代の思い出が街のあちこちにあります。

実家の商店街を歩く

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