思い出から10:宮城県仙台市

【2000年~2005年】秋田から東北の中心、政令指定都市仙台は栄転でした。さらに登り、関東や関西へのステップとも見られました。
仕事の化粧品は個人経営の専門店が凋落。ドラッグストアが台頭し、スーパーやホームセンターでセルフで安い化粧品も買われる時代。子供の頃、エアチューブに空を飛ぶ自動車等を夢見た21世紀は来たものの、携帯電話こそ発展したもののやってることは大して変わらない時代でした。
セルフ型の化粧品の台頭とそれを扱う企業が増えたことは自分にとってのチャンス拡大ではありました。
しかしこの時期会社は大いに厳しい局面を迎え、2003年になって粉飾決算が表に出て、花王との最初の売却話が出て、これが流れると産業再生機構の支援を受けることとなり、翌年戦前には日本最大の民間会社だったカネボウは100年余りの歴史の終止符を打ちます。

ところがブランドとしてのカネボウは残り、やっている仕事はあまり変わらず。仙台でパソコン術を学びようやく活路を見出し、ホームセンター北日本最大手とうまく関係を築きだして、初の管理職課長にもなりました。
しかし内憂外患さまざまな問題もあり、家族は長男が心臓病を終えたと思えば学校尿検査で腎臓の難病が発覚、妻も乳がんの嫡出手術をせねばならぬステージに差し掛かっていました。そして地元の課長を青森に左遷しての課長昇進に反発する部下もおり、セクハラパワハラ的(当時その言葉は無かった)な問題でだいぶ怒られました。管理職失格との烙印まで押されそうでした。
石巻や名取から相馬まで風光明媚な海岸。大都市仙台も少しクルマで走ると素朴な田舎でした。自分は企業と深夜まで必死に食らいついた時期でしたが、プレイヤーとしてのスキルよりは好々爺としてのマネジメントも求められる、甘い女の会社なのでした。

連続で5年いた土地は京都以外では初めてなので、本当に思い出はいっぱいです。近江ではあまり食べなかった牛タンも良く食べました。ずんだ餅も美味しかった。
なんといっても今振り返ると、あの土地が被災したことを想うのですが、石巻にも家族で行きました。仕事でもあの辺の野蒜とかも行きました。
(明日に続きます)

小さくて可愛い植物がそろう店【コトリフラワー】

思い出から9: 番外秋田編おまけ

雪は嫌じゃないです。雪遊びの大好きな男の子でしたから、クルマも運転も滑るのはコワイですが、外に出るのは怖いモノ見たさもあり嫌いではありませんでした。
一度北部の鷹巣あたりで、クルマの周り空も道も全て周り真っ白になりどうしようと思ったけど。もうパニくるよりも諦めで、しばらく待ってました。ガソリンも四駆で長いこと走ると減り早く危ない時もありました。
電車で弘前や青森の冬往復した時も、もの凄い雪の中を電車が走れるのに驚きました。轍が隠れそうな雪、関西や首都圏なら間違いなく全面運休のレベルです。
彦根や舞鶴で経験した雪が多少役には立ちました。ただスケールと日常的になる長さが違います。東北の冬は長い。だからこそ短い夏や秋を惜しむ祭りや、花咲く春を感動的に迎えるメリットがあるのです。

東京からでも飛行機を選ぶ人も多い。最初は飛行機で赴任。家族帯同は秋田新幹線。田沢湖線に入ると山の中の渓流がきれい。
駒ヶ岳や鳥海山など山も凜とした気高さがりました。

37年の会社人生折り返し地点。一番つらかったような時、景色だけは良かった。そしてパソコンでもやらないと生き残れない。漠然と本を読むのは好きでも、書店の一角を占めるパソコンコーナーには見向きもしなったが、この後のビジネスマンとして人間としてパソコンやネットは切り離せないものとなる。

あの“玉川温泉”が自宅のお風呂で再現できる!?
家庭用天然ラジウム温浴器【玉川の花湯】

思い出から9:秋田県秋田市

【1998年~2000年】二人目の男の子がまだ生まれて4ヵ月くらいでしたが転。しかも温暖な静岡から東北の日本海側秋田へ。定年前に関西から秋田へ行かされる若手がいましたが、まあ当時も誰が見ても厳しい異動でした。しかし生活としては雪は多くとも風土や気候も文化、風俗も楽しんではいました。静岡も東西に長いのですが分轄して複数の事務所を持っていました。広島や滋賀でさえそうでしたから秋田は面積の割りに移動が大変でした。北部の大館等は3時間かかり泊が必要でした。
秋田美人とはいいますが、仕事面では言葉が分からない程の秋田弁。そして社内の人間、同僚S、上司W、先輩I、トップのKら、他人をディスるのは当ブログ主旨には反しますがひどい目には合いました。それぞれの立場で人間の弱さなのでしょうがとくにSは盗癖+人のせいにする性悪でした。のし上がろうとしましたが後で辞めさせられましたね。

二人目の子に心臓疾患が見つかり手術となり2泊妻が付き添い、上の子と二人で寝ました。妻への負担がかかっていた時期かもしれません。前述の人間関係でなかなkうまく行かない時も続き、お互いストレスも多かったように思い出します。
それでもクルマであちこち出かけました。泊りがけで北海道にも行き、日帰りで横手、角館、大館、大曲の花火も見ました。混雑で帰りは浴衣もひどい恰好で寝た娘を抱いて帰りました。
八郎潟、大潟村に山桜と菜の花が咲く季節は本当にキレイだと思いました。竿灯まつりは前にブログ書いていますが、歩いて行ける距離でなかなか巧の技が秀逸でした。比内鶏の大館駅の弁当やきりたんぽ鍋。稲庭うどん。いぶりがっこ。暖かい名物が多いのもいい処でした。なまはげは愚息は本格的に怖がって大泣きしました。
雪はやはり関西とは比べものにならない。つるつるの道を滑りながら娘は幼稚園に通いました。
東北での波乱万丈な家族生活が始まりました。

特別な関係になった訳でも恋したわけでもないのですが、秋田美人という感じの人が何人かいました。能代のNさん、教育に進むSさんなどは飛びぬけてレベルが高い。今ゆう顔面偏差値高い。前任地の静岡あたりと比べるとそこそこ可愛い人もいたが色白なのと少し艶めかしいクールな面など含め大差で秋田の勝利でした。

あの“玉川温泉”が自宅のお風呂で再現できる!?

思い出から8:静岡県沼津市

【1996年~1998年】住んだところの思い出。東下り、伊豆の国を含んだ静岡東部沼津市。新婚で3番目関西を離れるということで、子供も小さく妻は不安だったろうと思います。私はそういうことに今思えば鈍感でした。
しかし北の窓から富士山の見える。沼津市原という風光明媚で広いマンションに住めた。
仕事は御殿場、沼津、伊豆修善寺までにまたがるローカルなエリア。
長女に続き、二人目の懐妊が分かる。
日本の霊峰、富士山その雄姿を毎日眺められたのは圧巻、本当に貴重な2年間でした。今でも新幹線で東京へ行く時、やはり雪をかぶった富士山が見えると得した気分で嬉しくなります。世界中を旅する人も、新幹線などで静岡を通らない人も富士は日本人の心のよりどころです。

バブル崩壊後の平成不況が続く時代。仕事では大きな失敗は無かったけれども、自他ともに管理職登用の時期に関しては、今までのことや現在の内容では不足でした。平凡すぎて勝ちあがれないといいう厳しい現実を知りました。平凡でも順風満帆に出世している同期がほとんどの中、会社の中では諦めと無気力感に包まれた時期です。
厳しい取引先からは不満も寄せられたでしょうし、衝突した上司もあり両成敗の如く、やや不可解な早い転勤で詳しい内状は聞けずじまい。人身御供説もあり同情や、隠れファンがいたなどと、送別会ではねぎらわれましたが、二人目の子、男児誕生とはいえ、もうひと頑張りしていないといけなかった時代です。
中心部の商店街近隣にも平然と大手ドラックストアが値引き販売可で出店し始める時代になり、制度品化粧品による個人経営の専門店は難しい時代を迎えます。もっと地方ではシャッター商店街が増え、日本中も元気がなくなる時代。それでもバブルやその崩壊も私は、家族のこと以上には実感していませんでした。逆にいうといつの時代も、自分の周りのこと仕事などを一所懸命やれば、もっと報われ評価されたと思いました。

大切な人へ想いを伝えるメッセージギフト

思い出から7:京都府長岡京市

京都の職場は京都市内だったが、新婚の社宅に適当な物件がなく長岡京、阪急長岡天神駅近くから通うことになりました。【1995年~1996年】
ほどなく第一子の女の子が生まれ父親となりました。
長岡京とは大層ですが、京都の近郊通勤圏の衛星都市というか小さな街です。
いかにも私鉄沿線の小都市という感じと、長岡天満宮などはありますが、観光や文化、大きな買い物は京都市に行きます。
あまり土地に沢山思い出はないのですが初詣やお宮参りに行き、今もたまに通ります。
福知山が新築の2階建ての集合住宅だったのに対し、吹き抜けの広い、地下駐車場もある大きなマンション。しかし日当たりは微妙な西向きの1階。
しかもどうもこの時期の仕事、入り方も実家の仕事からみで制限があり急きょ課が異動などもあり、1年たらずで地元はアカンことになり転出されました。もっと部下を大切にしていればということですが、子供ができるとそっちに気持ちが生きました。

育児休暇などない時代。モーレツな販売部長が取引先に気を遣いながら深夜までゲキを飛ばしてました。後にこの部長は女性関係と多額の金銭流用で免職され、他の会社に移られたが自殺されたと聞きました。
ただこういう時期、家庭と仕事はバランスよく勤めないといけなかったとも思い返します。仕事での地位や収入を担保しておいてこその、家庭や子育てであり、自分はまだまだ未熟だったと思います。
化粧品の再販制度がなくなり、大手制度品メーカーの定価販売は崩れます。まだローカルのドラッグストアだけでしたが、チェーン出店が進みシェアは伸び始めた時代。それでもまだ専門店の商店街で活気のある時代でした。
この時期後で仕事を一緒にする仲間とプロローグのように出会っております。

国産極上うなぎを産直でお届け

思い出から6:京都府福知山市

【結婚】

もうかれこれ結婚して23年はたつのか、社会人生活は結婚してからの方が長くなったのでした。時間の感覚としては学生の4年間や社会に出て独身の15年程が長く感じられる。
【1993年~1995年】独身のワンルームは田舎でもそろそろ出来だしてました。最後の一人住まい。名古屋駅で取引先や社員にバンザイで送られ、京都の実家には寄らず福知山のビジネスホテルへ移動しました。新幹線から山陰本線のディーゼルに乗り替えるといかにも都落ち、田舎という感じで、電化も進んでいない広い駅の構内にディーゼルの汽笛が寂しげでした。
名古屋の人のことが忘れられずも、お見合いや紹介を繰り返して、今の奥さんと交際結婚に至ります。

結婚式と新婚旅行はゴールではなく、スタートのための短いイベント休暇。でも新婚は楽しかったです。仕事もきついけど、待っていてくれる人がいるのはいいです。今は共働き夫婦も多いですが、家事専業主婦の昔ながらの奥様でした。
土日に実家でピアノを教え、迎えに行って帰り道は寂しそうでした。
ほどなく子供を授かりました。大手コンビニも量販チエーンもまだない、京都府北部の中核。京都に出るよりは舞鶴、宮津の海が近い。今は海の京都で観光も売り出してますが、JRの電化も高速道路もまだの時代でした。
舞鶴の取引先には苦労したものです。一部兵庫県氷上や篠山まで営業エリアでした。よく嫁が頑張ってくれたものでした。

結婚はやはり運命の必然のようなものがあると思う。憧れた人や付き合った人も何人かいたが何か時とめぐり合わせが違った。
結婚を考え夢見ている人もきっとうまく行きます。

豊かな広島湾が育んだブランド牡蠣『かき小町(殻付き)』を数量限定販売【旬の逸品】

思い出から5:愛知県名古屋市

【1990年~1993年】名古屋で係長という役職ながら、営業第一線は変わらず。滋賀でのトラブルもひきずり、地下街などの大型店も持ち苦労した。後に関西支社長から販社社長になる中嶋さんとも、裏番のような存在で相性の悪そうな出会いでした。仙台で再会する大塚さん、同期で後に同じ企業を担当する増本等後からも因縁の何人かとも出会いました。
ひつまぶしは好きでしたが、味噌煮込みうどん、味噌カツ。名古屋弁もどうもフィット感はなかったなあ。
そして、取引先からも見合いのような紹介を2件。一人は相当熱上げられましたがこちらはお付き合い程度でした。断るのに苦労しました。ワンルームまで風邪の時訪ねてきましたが、相手も必死ですがこっちも部屋には入れず。も一人は知的で好きなところもあって琵琶湖までデートしましたが、何か連絡先が見つからず立ち消え。どうも縁がない。
仕事はきつかった。追い抜かれ後輩に差をつけられる時代になりました。

滋賀にいたおとなしい内勤のMさんと、あるきっかけで再会。何度かデートまがいにコンサートや京都も行きましたが少し年の差なのか感覚なのか、振られました。
そしてもう一人、今でいう熟女悪女タイプのバツイチのキレイな教育の先生。片思いでした。ずっと妄想的に思い続けましたが、後日自分を一時追い抜き課長になろうかという後輩と不倫していて、彼女は自殺。相手の男後輩は解雇とドラマのような話でした。
彼女への妄想を抱きつつ、いくつか仕事のピンチもなんとか逃れながら、それでも借金まみれになりながらの3年2ケ月。このころ余裕もなくその地方を楽しむこともあまりなかった。ナゴヤ球場に近鉄がくると応援にいったり、高蔵寺の方とかは行きましたが、東北あたりで行きつぶした後年と比べると名古屋は、西区の寮とその後も中村区のワンルームの周り、今でも大阪とごっちゃになります。地下鉄の駅から少し歩く便利か不便か微妙なところ。もう以降ワンルームか結婚で借り上げ社宅でした。

大阪、滋賀に比べると再登板はなく、何度か再訪はしているのがが、なぜか広島に比べても土地的にはそんなに深い思い入れがないのか記憶が薄い。人間関係、取引先のことはよく夢に出てくる。バブルでどんどん出世した人稼いだ人に比べ、恋はしたのだが結ばれず、親も心配の頃でした。

国産極上うなぎを産直でお届け

思い出から4:滋賀県彦根市

滋賀県彦根に転勤【1987年~1990年】
時代は昭和から平成へと変わっていくのでした。
昭和天皇が御病気から崩御されることとなり、担当していたスーパーは照明も落ち商売どころではない時もありました。
1989年には消費税も導入されました。後に親会社となる花王がソフィーナを売り出したのもこの時期。
住んでいたのは滋賀県北部。当時カネボウは長浜と彦根に繊維の工場があったため当時の滋賀北部はシェアやステータスが高いエリアで、京都に近い大津よりも中心の事務所をおいていました。
今でこそひこにゃんなど観光開発が進んでいますが、当時はかなり田舎なのと、古い工場の社宅で、後輩と二人住まい。水洗でない便所、湯沸かしシャワーもない、木造の平屋で、風通しが良いので冬は雪も多く寒かったです。

彦根城の近く今はショッピングセンターになっているところ。自然も豊かで風光明媚でしたが、冬は凍ってつるつる。雪で目が見えない時もありました。
美容部員さんの多い流通担当である意味モテキだったのですが、えり好みでもないですがキレイ過ぎる人にはちょっと気後れしました。
ある女性ともかなりいいとこ行きましたが今一つ踏み込めなって30代になりました。仕事は新店など面白い時もあったものの出て行く前は粉飾まがいの不正発覚で生涯に刻むミソをつけました。
もうそろそろ結婚してもと思いながら、つかみきれない。大学時代の女性たちはさすがに結婚。なぜか独身で残った男とディズニーランドなどへ行く程度の遊び。
もう一度20年くらい経て滋賀に戻り、定年で送別会をしてくれるとは思いもよらずでしたが、カラオケなどもよくやり遊んだ思い出も多かったのでしょう。
目ジカラの強いEさん、色白でキレイだったNさん、HさんMさんらそれぞれあったのですが当時の30は今より決して若くない。なんだか結婚できるのか不安になってくるような時期です。30と言えば当時の子供では本当に中年でした。定年が55歳でしたから確実に5歳以上は老人に近かった。
でも今から思えば限りない可能性があったのです。頑張らないともったいない時代でした。世はバブルの近づいていくのですが。

【電話占い・霊感占いラフィネ】不倫相談・復縁相談に強い電話占いサイト!初回最大10分無料キャンペーン実施中!

思い出から3:広島市中区吉島町

呉から短い間ですが広島市に異動して1年住んでいます。
平和公園、宮島、三段峡、路面電車、市民球場といろいろ観光しました。
住んだところは吉島という刑務所の近くの殺風景なところ。探せば戦争の爪痕も取材できたのでしょうが、呉の時もそうですがそんなに余裕はなかったのです。
なにせ先輩になってきてるが仕事の中身は、今ふりかえればひどい。ただこの時代の大出、田村、佐川といった仲間が退社時期にレスポンスしてきて、よく覚えてもらったキャラだったのです。
牡蠣やお好み焼き、もみじまんじゅうなども美味しかった。
街並みはもう覚えてない。呉の時クルマを買って、あまり電車で動かなくなった。

残念ながらまともなデートをした思い出もないなあ。Tさんという大変がんばりやのスタイルの良い美人がいたのだが、なぜか燃えるタイプじゃなかった。Hさんとも結局なにもなく終わるし、佐川はたぶん独身のままだろうが女性的な魅力はあまりない友達。
若手もいろいろやったけど。カネボウの化粧品も本体も決して楽ではない時期にさしかかる。それを感じるビジネス的な脳もまるでなかったなあ。

人生にタラレバはないのだろうが、恋愛にしろ仕事にしろ、もう少し指南される人や本に出会い素直に受け入れていたらと今の自分なら思える20代の苦闘でした。

かき小町(殻付き)【旬の逸品】

思い出から2:広島県呉市

カネボウ化粧品に入って3年目のローテーション。大阪南からの初めての転勤辞令は何と、広島の呉営業所。
【1985年~88年】
何せ関西にも近畿2府4県大阪に東西南北中央など数多くある中、中四国とは異例の飛ばされよう。山陽新幹線で2時間強そして呉線に乗り替え、のどかな海と山。戦艦大和を造った造船と海軍の街だ。海と山が近い箱庭のような小さな市街地。広や音戸江田島、竹原、熊野町までがエリアでした。
見るもの聞くもの、言葉も含めてエイリアンだったのでしょう。
美人の新入美容部員Yさんに一方的に恋しましたが、まったくのふられっぱなし。ほのかに思いを寄せてくれた広島への異動の引っ越しを手伝ってくれた大卒の優等生美容教育要員Hさんは、利用しただけみたいな悪い癖でした。クルマで送って行ったけどYさんへの気持ちなどが分かって私では不足と嘆かれてたとの話。
賢くていい奥さんになってくれたような気がする。
もう少し敏感で器用ならね。

京都への帰省もよくしていたが、大学の友達だったIさんAさんにも時々あっていたが、深くは進まずⅠさんは結婚。
Yさんへの思いはまったく通じずでした。仕事もスタンドプレイはあっても、大阪のメッキがはがれ、呉と広島3年間はなかず飛ばずの成長のない期間でした。
今の『この世界の片隅で』や大和ミュージアムなどの観光も少なく、造船不況で街が沈み勝ち、江田島の記念館や音戸大橋くらいが観光かな。大学時代の友人が広島にいて山登りしたり、訪ねにも来てくれた。
安浦町という小さな街の、部下のお葬式に行ったが本当に小さな家。坂のある寂しい街並みで、寂しいお葬式だった。
江田島、音戸島、能美島には橋で行けた。まあ田舎の口うるさい人らに、無理を強いたりもしたし、見つかって怒られることもあった。
煮え切らない若者時代。早く結婚していれば落ち着いたのかとも思うが、まだそういう時期でもない20代中ごろ。何より選り好みとすれ違い。

大阪時代に童貞ではなくなっていたが、まだまだ恋も仕事も人生経験足りない時代でした。今年金だとか保険だとか書く立場ですが、将来のことが20代だと想像もつかないことは良く分かります。反面教師だと思ってください。

豊かな広島湾が育んだブランド牡蠣『かき小町(殻付き)』を数量限定販売【旬の逸品】