ちょっと驚いた花王の新商品

 元いた会社の製品を使い続けているものもあれば、そこまで義理はないので、値段などによってはライバル会社のものなども買っています。

 化粧水などは大して変わらないので、安いハトムギ水を愛用しています。

 日焼け止めや制汗剤もその時の気分です。この夏は長く暑い日が続き、安い日焼け止めを1本完全消化。昨年から持て余してた、花王ビオレのミストタイプとカネボウアリーのコントロールカラーの入ったもの、ほぼ使い切りに近づいています。秋冬も日中外出は塗りますので、苦手だったミストタイプも気軽に使えることがわかりました。

 ミストタイプが一昨年夏の大ヒット商品というのはイマイチ感覚がわからないのですが、大した技術ではなく、カネボウでも全身系のミストタイプの日焼け止めはずっと前から出してました。

 退社後なので詳しい商品開発の背景はわかりませんが、品薄にもなり予測よりも売れたのだから、何がヒットするかは読めないものです。

 もう一つ、最近の大ヒット?とにかく国内シェアナンバー1の商品が退社後に発売されていました。

 

 何と、これはお腹を見せるファッションへそ出し用のケア商品、スポットジェリーです。

 秋になってもお腹をチラリと見せたコケティッシュなスタイルの方は町中で見かけます。

 男性目線でも賛否や好き嫌いがあるようです。

 その、大昔おへそ出しルックの女性歌手が「狙い打ち」という大ヒットを飛ばしましたが、お硬いNHKは紅白歌合戦などにはおへそを隠した衣装しか認めなかったこともありました。

 そんな時代なら町中を婦女子がおへそや半ケツを見せた服装で歩いてたら警官にとがめられたのではと思います。

 昭和も終わりになると、もう少しゆるくなり、逆にテレビや雑誌は水着ぐらいは今よりもおおらかになった時もあります。 地上波の深夜番組では裸もありの時代が一時期あり、売り出す若手の女性歌手やタレントは実力派でもビキニはマストだったようです。

 今でもそういう傾向はありますが、後に売れて有名になる歌手や俳優でさえ男性誌や芸能誌のグラビアでやや垢抜けない水着姿を披露してました。

 スマホで切り取る時代ではないので、昔の男子は雑誌を回してお世話になったものです。

 そんな写真の中に私たちが中学生か高校生の時、今も活躍されている女性の俳優さんがビキニ姿で、男性雑誌の表紙を飾っておりました。

 スタイルの良いビキニ姿でしたが、そのお腹、おへその穴が黒いことが男子の話題になりました。今の、テレビなら放送事故レベル?事務所のチェックもゆるかったのか、ギリギリのレベルだったのでしょうか。

「あれは、光の加減なのか、いわゆるおへそのゴマなのか、はたまた産毛が濃いのか、」いろいろ男子が考察したものです。そこに幻滅し萎える男子もいれば、萌えて盛り立つ輩もいました。

 まあ、男性目線的な話で申し訳ないですが、私なら、おへそが見えて受ける印象は対象者により変わります。外国人の方が多く、どうでもいい人なら萎え引いてしまうし、顔立ちがキレイならどうでしょう。例えば学生時代とかに好きだった人がそんな格好で歩いてたら、ついつい見入ってしまう。多くの男子は、そんなに感じではと思います。

 ルッキズム的話で申し訳ないです。そんなつまらない思い出をふと思い出すようなスポットジェリーという商品でした。今ならお腹を見せる服装もあり、ピアスする人もいてキレイにそのあたりをケアできるのでしよう

 

 

 

「ぽく星」にちょっとジンと来ました

 ドラマは録画や配信で見るのに慣れて、溜まっているものを見切るまでにはだいぶタイムラグができてしまいました。リアルタイムでCM見ながらというのは無くなりました。家族揃ってというのも、残念ながら今はほぼ無しです。

 夏クール、ミステリドラマなどは総括しましたが、意外と他にも良いドラマが多かったです。学園、青春もの、子供がテーマのものに秀作ありです。また、主演級の役者さんの世代交代で、時代の移ろいを感じてしまいます。

 7〜8年前の、ドラマや映画で生徒役だった俳優が先生役になってると、またも自分たちも年取ったと感じてしまいます。

 いわゆる「その後」を描いた「ちはやふる めぐり」には、かつてのキャストがOBとして総集合する中、上白石萌音が先生役でした。童顔、タヌキ顔ですが、いくつもの主演をこなし、着物着るとかなり落ちついたいうか、先生役が似合います。もう、恋愛ドラマ主演で初初しさも演じてましたが、一気にこのままおばさんになりそうな印象さえありました。

 菅田将暉主演の次世代若手俳優総出演だった「3年A組今から皆さんは、人質です」から、もう7年経ちました。

 朝ドラ「半分、青い」主演後すぐの、永野芽郁さんメインを張ってましたが、彼女も活躍した後いろいろヤラカシがありました。脇役だった上白石萌歌、森七菜ら綺羅星の如くそれぞれ活躍した中、今田美桜、福原遥が朝ドラ主演を経験し、この夏の月9「明日はきっといい日になる」ではその福原遥が主演でした。

 児童相談所に出向する刑事という、トンデモ設定ながら、家庭内暴力など、月9とは思えない割と重い社会問題テーマも扱かっていました。子役から生徒を経て、福原遥も子供や親を諭す児童相談所の職員へ成長していました。

 そして、「ぼくほし」と略される「ぼく達はまだこの星の校則を知らない」には、これも3年A組の生徒役だった堀田真由が先生役でヒロイン。

 独特な感性でイジメにあい不登校になりながら、弁護士になった主人公白鳥賢治役で「ふてほど」以降ブレイク中の磯村勇斗が好演してました。

 宮沢賢治のフレーズが散りばめられた脚本で、スクールロイヤーながら、情緒不安定で星が好きな頼りない主人公が成長していきます。生きづらい悩める高校生の学校生活を自らも悩みながら支えていきます。

 法律を学びながらも、法律や制度、システム、大人の世界が欠陥と矛盾に溢れていることを浮き彫りにしながらも、ビュアな感性の美しさが、見事に描かれています。

 べテラン女性教師平岩紙の訴訟場面は、やはり虎に翼見てた人は思い出しますね。

 個人的なは、生徒や学生の頃を思い出すと、もっと先生に関わり、友情を育み、生き方を学んでいればと思いました。

 

 

時代に流されるもの、流されないもの

 私たちより上の世代の方も、それぞれ感じていたことなのでしょうが、自らも年齢を重ね、若いと思っていた俳優さんがいつの間にか老けていくことに時の流れを感じます。

 若い頃は、トレンディな主演だった俳優が、老いた親などの脇役で出ていて、見たことある顔だけど誰だっけと思いクレジットで確かめて愕然とすることがあります。

 今の大河ドラマで言うと絢爛豪華な花魁を若い俳優が演じる裏で、かつて名子役だった安達祐実さんが、かなりの老け役です。尾美としのりさん、水野美紀さんも随分な年齢を感じさせる役に回っています。

 石原さとみ、長澤まさみ、新垣結衣とかが、もう37-38歳なのですから、まあみんな年齢重ねて、当たり前なんですが。

 シワだらけのおばあさん役に回る俳優さんもいる中、傘寿を迎えた吉永小百合さんはやはり、サユリストを裏切らない凛と自分のブランドを守ってる感じはします。

 ひ孫がいてもおかしくない80歳にして、可愛いさが残り圧倒的に美しいオーラがあります。早稲田大学を出て清楚なイメージをどこに残しつつ、年齢を重ねられました。

 もはや、文化功労者で、リベラル系の発言をディスる向きもあります。しかし、この方はいわゆる有名になった人がサヨクに祭り上げられるのではなく、1960年代から一貫しての反戦反核のスタンスです。

 沖縄戦の映画を期に靖国神社にも参拝され、英霊を弔う気持ちは思想の左右ではないのです。

 元々が巨人ファンだったのが、いわゆる江川事件をきっかけに筋金入りの西武ファンになった話からも、この方の真っ直ぐな潔癖さが分かります。

 CM女優の本数をランキングされる場合がありますか、ブランドとギャラをかけると、本当の意味で吉永小百合さんを超えるタレントはいないそうです。

 私たちの世代だと、吉永小百合さんは、浜田光夫さんとの映画に出まくったピークが過ぎ、夢千代日記など大人の女優に脱皮される踊り場のような時期でした。山口百恵、沢口靖子らの後輩が出てきた時代も過ぎ、しっとりと、今も存在感があるのですから時を超えた感じさえします。

 仕事を選ばす俳優を続けるのも大変なことですが、吉永小百合という揺るぎない俳優を続けていることはやはり偉大です。

 時代に流される軽く薄っぺらな人と、しっかり流されず立ち続ける人がいるものです。

 

 

 

関西ローカル局の独自番組が縮小!?

 とりとめもないローカルな、個人的な思いですが、少し感傷的になるお話。

 関西に戻って来て20年以上になるのですが、通勤はそれなりに時間かけていました。

 朝は時計がわりにテレビをつけ、ニュース番組や関西ローカルの情報番組を見ながら朝食のルーティンでした。

 NHKのローカル情報番組を見ていた時もありましたが、民放の関西では、テレビ朝日系の朝日放送が「おはようございます」と日本テレビ系よみうりテレビ「す・またん zip」が大阪独自の番組で他2局は東京キー制作を流していました。

 天気や交通情報なども詳しく、早いため、関西の民放制作便利てしな。タイガース一色で垢抜けしない朝日ではなく、半分は東京制作ながら、大阪京橋で職場も近かったよみうりテレビがなんとなく、習慣化しました。

 アナウンサーもよく見かけた関係もあり親しみやすく、なかなか面白いメンツ、アイドル的魅力の女性アナも揃ってました。

 15年ほど続いたそれなり人気の番組で何台かMCも変わりそれなりの人気でしたが、日本テレビがよみうりテレビを完全に子会社にしたあおりもあり、この9月で終了です。

 15年の間という定年前からで、いろいろ激動の時期でした。

 関西独自の朝の感覚はほんわかとしていて、元気を与えてもくれました。

 関西ローカルで朝を放映するのは、朝日放送だけになります。

 地上波テレビがオワコンと言われる中、地方キー局がたくさんの予算を独自に使える枠が縮小する流れなのでしょうか。ますますテレビは衰退の方向にも思えます。

 関西以外の地方に住んだ方、住んでいる方は、関西の大阪キー局というテレビ事情が少し特殊なのがわからないと思います。逆に関西の人は、それが当たり前だとも思っていますが、関西は大阪キー局で近畿2府4県が同じテレビ局なのです。首都圏以外でこれに近いのは東海地区の愛知、岐阜、三重だけで、あとは各県がバラバラの県単位の地方局がネットしているのです。

 そんな関西の強さも、東京一極集中に押されているのか、パワーがなくなっていくのかもしれません。

1970年代後半音楽界にも衝撃をもたらしたCM戦争

 1970年代とか、80年代とは単純に分けられず、70年代は前半と後半でも大きく社会は進化、変節したのではと思います。

 それまでは高度経済成長期で個性的な娯楽は少なく、遮二無二働いた後は、同じ歌謡を口ずさみ、同じテレビドラマや映画を楽しみ、スポーツのヒーローを応援したのです。国民的と言われた歌手やスポーツ選手の知名度は抜きん出ていました。

 音楽も、浪曲から歌謡曲、演歌やムード歌謡が中心で、フォークソングや台頭しても、ビートルズやロカビリーだと言っても、やはり主流は歌謡曲でした。

 フォークやロック歌手がビジュアルがテレビに向かない、表現しきれないなどの理由で旧来の歌番組には出ない、出さない時代でした。

 そんな中、今のJ-POPの下地は、オイルショック後の1970年代の後半にようやく出来始めました。

 その大きな動きは、大手の2つの化粧品会社と広告代理店が仕掛けも多大な影響力でした。私がまだ高校生の頃、テレビからも資生堂とカネボウの競い合うCM、斬新な音楽、美しいモデルと情景、謎めいたキャッチコピーが印象的に流れました。

 1977年、前年資生堂の「ゆれるまなざし」小椋佳楽曲、モデル真行寺君枝の秋のキャンペーンヒットを受けて、夏は「サクセス、サクセス」ダウンタウンヴギウギパンド楽曲、モデルティナラッツ、追随するカネボウが「舞踏会のワインカラー」新井満の楽曲というキャンペーンで対抗したのが、10年のCM戦争の始まりと言われます。

 翌年から、世間の誰もが知るような大ヒットを競い合う形になり、1978夏は資生堂、矢沢永吉の「時間よ止まれ」とカネボウ、サーカス「Mr.サマータイム」という、後世にも歌われ続ける名曲が出ました。キャロルの矢沢永吉も当時から知る人は知っていましたが、テレビでガンガン放送される影響は凄まじいものでした。それでも、レコードの売上、キャンペーンとしてはカネボウ、サーカスの方が当時は少し上でした。

 そして、翌年からも春、夏、秋と①キャッチコピー②無名だが魅力的なモデル③実力派のニューミュージック歌手の曲という3つの要素を踏まえ、手を変え品を変え競い合う構図の戦争が続きました。

 資生堂はハーフや外国人モデル起用が多かったですが、カネボウは日本人の若手が多く、夏目雅子さんはじめ有名俳優への登竜門となったのも、そのテレビへの露出からの知名度を考えれば分かります。それ以上に、普段テレビには出ない歌手の楽曲が聴かれ、メガヒット、ビッグネームにつながったのは戦略ズバリと当たったものの、当時としては画期的なことでした。その後売れに売れた何組かのアーティストの中にも、きっかけとなったCMソングが、最高のセールス記録というケースも多いのです。キャッチコピーから楽曲を作る難易度の高いものなのに、むしろその制約もメガヒットの要因になったのです。

 無名モデルやアーティストの発掘と売り込みの舞台だった化粧品CM戦争でしたが、1984年カネボウがバイオ口紅で既に超売れっ子だった松田聖子をモデルとして使い、楽曲も彼女の歌う「ロックンルージュ」ピュアピュアリップで話題をさらうと情勢は変わります。

 これは今までの3点ルールからの逸脱、禁じ手とも言えましたが、大ヒットではありました。

 その後も、両社はアイドルや既に売れた歌手をモデルに使い、アイドルグループの楽曲を使い出しました。ジャニーズの台頭とともに、女性用化粧品CMに木村拓哉を使うテスティモの落ちない口紅を大ヒットさせました。

 しかし、この頃はもう化粧品CMだけがスポットを占め、テレビを席巻している時代ではなくなったのです。自らの業界パワーを失いアイドルの人気に頼り出していたのです。

 もう、無名モデルをスターダムにのしあげ、大ヒット曲を作る勢いはなくなりました。1990年代バブルが弾けると、多極化、個性化の時代に入り、大手ーカーのキャッチコピーとメガ宣伝で誰もが飛びつく時代も終わったのです。

 業界としては、バブルだったのでしょうが、広告宣伝費は高くつき、広告代理店ののせられていた面もあったのでしょう。資生堂もカネボウも決算を見ると販管費が高く、利益を出すのが難しい構造になっていました。本体赤字を化粧品でまかないたいカネボウはかなり苦しかって後の債務超過に、繋がります。

 世間の誰もが注目したキラキラした1970年代後半から1980年代.そんな時代があったから今のJ-POPがあるのかもしれません。入社した当時から、キラキラは外から見ただけで内情はかなり厳しいものでしたが、それはそれで楽しんでました。

 

京都市幻の地下鉄延伸、球場、市役所移転?

 京都市のLRT構想を先日書きましたが、地下鉄の延伸計画もほぼ頓挫し幻となったものがあります。

 洛西ニュータウンまでの東西線延伸が、入居者が50年待っても幻なのは割と取り上げられ有名かもしれません。

 もう一つ、烏丸線の延伸計画もあり、これは比較的距離も短く5キロ程度で、20年ほど前に計画され、ちょっと前まで東西線延伸よりはリアルに期待されたのですが、やはり幻となりました。

 現在の終点竹田から、油小路を洛南進都経由横大路で京阪につながるものです。京阪側も本線に新駅を設け直通させる案でした。

 元々鉄道は空白ですが、高速道路のインターなは近く、交通至便となれば副都心の機能は満たされ需要はあると計画されました。

 企業の高層ビルを誘致、市役所機能も移転させ、横大路には京都サンガFCのホーム、サッカー専用スタジアムを作り、老朽化した西京極球場(わかさスタジアム)の野球場もこちらに新設するという、壮大な構想でした。

 しかし、財政難で、サッカースタジアムは亀岡に譲り、市役所も昔のままの現在の場所を建物改修、増築することになったのは、周知のとおりです。西京極も現施設を改修することが発表されました。 

 副都心らしいと言えるのは、バルスプラザと、京セラ、任天堂本社ぐらいで、あとはドラッグストアやファミレスなどの郊外型の店舗や飲食店が点在するどこにでもある地方国道で、とても副都心とは言えない光景です。

 京都サンガFCは2部をさまよっていましたが、この頃はJ1上位で観客も2万人以上詰めかけています。このあたりは、京都市にとっては悲観的な読みが結果として外れてしまって残念です。

 建築基準の見直しで、さらに高層ビルが建てやすくはなりましたが、一体鉄道も空白のエリアでどれだけの誘致が今後可能なのでしょうか。

 竹田からの延伸は、地下線しか無理なようで、財産的にはもはや完全に棚上げで、洛西ニュータウンへの東西線と同じく、幻となりそうです。

 私はサッカーファンで亀岡のサンガスタジアムは駅近でキレイで見やすく良いスタジアムですが、京都市民としてはやはり京都市内にできて欲しかったです。

 地下鉄の建築読み違いも、仕方ない面もありますが、都市計画の杜撰さ、甘さ、先見性の無さです。

 かつて京都市は明治初期の東京遷都で、衰退を怖れ新しいものに取り組み日本初を企図し続けました。

 しかし、戦後80年を経てその意欲や革新性を喪っていました。

 個人的に思うのは、市役所の職員、市議会議員さん、その他関係の方も真面目で良く仕事をされますが、こと斬新な改革、先進的な思考は弱い気がします。それは、市民の要望を短期的にはよく聞き入れての結果で、縁を大切にする感じで、印象の悪い言葉では、「コネ」や「しがらみ」にこだわる部分でしょうか。決して利権とか汚職はないのですが、善人が生真面目にやってしまう仕事であやまった方向に進む残念な結果のような失敗です。

 構想をブチ上げて、やっぱりできませんお金はこんだけ使って、中途半端にやりかけが残る。推進力が足らないのかと、それを止める勢力が邪魔なのか、国でも事業が進まないのは同じですね。

 結果、頭の良い真面目な人が、いっぱい集まって考えて、なんじゃこりゃというハンパなものしかできないのです。

 邪魔をしているのも、一人一人のわがまま、利権かもしれません。

 

 

儚き想い、蜃気楼の愛

 実は未だに、学生時代に好きだった人が当時のままで夢に出てきたりします。
 実際には、同い年だともう高齢者で、いいお婆さんになっているのでしょうが、可愛いままでいて欲しいと願うのみです。

 女性の多い化粧品の会社にいたのですが、女性の実年齢だとか、化け方はなかなか難しくもあり驚くほど面白いものでした。また、それに注目し、追いかける男性を観察するのも興味深いものです。
 一般の会社から見れば、随分華やかで遊びが多く、女性関係が随分大らかだったと思われがちですが。実際には私個人としては遊んだとか、モテたとかもそおうなく、面倒くさい仕事だけの会社時代でした。

 若手時代は、エリアの女性トップに立つお局のような美容教育の「先生」と呼ばれる責任者がいました。30代後半?か40半ばぐらいだと見えましたが、随分年年齢も言ってるのにケバイ、派手なおばさんに見えました。ある時、本社からその先生の若い頃を知っている男性幹部が来て、そのお局も若い頃は随分カワイく、美しい人だったと聞き、驚いたものです。
 自分が年齢を重ねると、ある程度、一緒に仕事をした人や好意のあった異性には思い込みがあり、少々老けてきても、良い方向にバイアスが働いて見るのが分かります。

 またストックホルム症候群とも言われ、閉鎖的な小さな集団では、「その人ぐらいしかいない」となると特別な感情は肥大します。
 職場、学校やさらにその中のチームやサークルなどで、男女というのは、異性間を意識し合うのも分かります。
 彼氏がいるとか、結婚しているとかで、あきらめる人と、それでも突き進む危ないというか、性欲の強い人もいました。
 好きなタイプが結婚しているとか、付き合っている恋人がいる場合などは、そこで引いてしまうけども、かといってすぐ別の人というわけにいかないという心理が働く場合もあり、付き合いづらくなって晩婚になった私はそんなケースです。
 もちろん、女性関係で問題を起こし、それを繰り返す輩も数多くいました。それだけ、モテるから仕事もできるんだと、さすがに今のコンプラ重視時代では通用しないような気もしますが、政治や経済界を見ても近くを見ても男女の関係はどこまでいってもいくつになってもそれなりにあるものです。

 化粧品会社でも、職場結婚は多かったですし、役所だとか法曹界でも職場結婚は多いです。翻れば、同級生たちも卒業と同時ぐらいに学生時代からの交際相手と結婚した者がかなりいて、あとはやはり勤めた会社で相手を見つけています。もちろん、見合いも昔は多く、合コン、今ならマッチングアプリもありますが、職場結婚の比率が多いのは、やはり狭い空間に異性が押し込まれると、一緒になる可能性が高いのでしょう。
 理想は映像の中という人も、目の前の人が見えず、少子化の元凶で夢を追いすぎてるとも思われますが、ある意味一本気で良い面もあります。

 私はそれでも、時間も空間も離れた初恋の夢を見続けます。
 

 

思い出の街の変貌と静寂

 

先日、大阪に暑い日に、水に映える建物の図書館があると聞き、大阪府松原市を訪ねました。
この町は、43年前、化粧品メーカーに入った社会人一年目で初めて営業を任されたエリアです。北は大阪市南部、西南部は堺市、東部は羽曳野市、藤井寺市、八尾市に囲まれた、人口12万人あまりで南北の政令指定都市に比べると小さめの市です。
2年ほど右往左往した思い出深い、新人向けのエリアでしたが、中心部にダイエー、イズミヤがあり、そこを除くいわゆる路面にある一般のお店を担当していました。ドラッグストアはまだなく、コンビニもやっと出来はじめたばかりで、当時は個人商店の薬店、化粧品専門店が主力で、この小さな町に20~30店前後あったのではと記憶します。
京都市で15万~20万ぐらいの行政区に50とか100の専門店があった個人店の時代です。
当時でも、時代がかわりつつある兆候はありました。昔と変わらず、この市にはJRはなく、私鉄の近鉄南大阪線の、4つの駅があるだけです。当時から車での移動も便利で、阪神道や近畿道のインターがありました。
この写真の水面に浮かぶような図書館は、5年ほど前にできたモダンなデザインのものです。近鉄の駅の一つ高見の里駅の近くです。
その駅の周辺にも、何軒か担当した店がありましたが、今はすっかり変わりました。あちこちに大手ドラッグもできています。その当時も、公設市場が亡くなったり、高齢で後継ぎなく、廃業に追い込まれた店がありました。小さなエリアで2店も閉まると、営業成績は苦しく堪えました。
天美の駅から、少し東に歩いたところにあったタバコを扱う古いお店に、若いお嫁さんが来て、改装もされてイッキに売上が上がった時期もありましたが、もうその店もありませんでした。あの時若かったお嫁さんももう間違いなく60代後半ですから、40年の間にさまざまなドラマがあったのかは分かりませんが、残念です。
その駅の反対側には、Bというお店がこれも古くからあり、もうひとつ資生堂を良く売っていた老舗でOという店もありましたが、Bだけが残っているようでした。本来、Oの店がやっていそうな資生堂の専門店ブランドを、当時は垢抜けなかったBがサロン風になって引き継いで続けられているようです。
近鉄線とは離れた東北部に、三宅、阿保地区にもお店は点在し、阿保にあったNという薬店も立地は悪いところでしたが、半年に一度の催事は多くの美容部員を手配し、よく集客して良く売りました。店主もアイデアマンで当時若輩の私には随分年上の夫婦に見えましたが、子供も小さかったので30代前半ぐらいだったのでしょう。やはりもう廃業されているようです。薬の小売は一般の店では、全く大手に太刀打ちできない時代が来ていましたからでしょう。
河内松原、布忍にはそれぞれ小さなスーパーがあって、そのビルにテナントで入っている店がありました。Sという薬店も小うるさい親父で、相手するのがイヤでした。布忍の駅前のスーパーも見当たりませんでした。当時のナンバー1の店だったTという店もあったはずです。表彰店にもなったのですが、したたかな女経営者でした。近くの路面店のZはTよりも古くからある店でしたが、Tの勢いに押されて、いじけるように、自然派メーカーに傾いていかれたようです。当時、白髪の混じる奥さんがやっていましたから、代替わりしたのでしょうか、自然派の店で、ネットでもみつかり、古い店舗のまま健在でした。
駅の人の流れ、商業施設の人の流れは、塞翁が馬のように、経済、社会とともに時間がうねり、人々の運命も流れたのだと感じます。
近くに古墳があり、このようなため池もあり、マンションや住宅も増えたとは言え、ピークはとっくに過ぎ、人口は減ってきています。
昔は、最新式のポケットベルを持たされ、鳴動すれば、公衆電話か店先で電話を借り、得意先に電話して商用を聞くような対応もしていました。今はそんな公衆電話も消え、古い看板色を背負った商用車はおろか、それを迎えるメーカーの看板のある店すらありません。
それでも、近鉄以外の新しい鉄道ができたわけでもなく、街全体の大きな枠組みが変わっていません。線路も高架されることもなく、ICカード対応になったぐらいで駅の構造そのものも変わっていないでしょう。電車から見える街、駅から少し歩く市内の様子としては、40年、そうは変っていないものです。モダンな図書館、ドラッグストアやコンビニは時代の変化を、ため池や鉄路は不変の静寂を象徴しているようです。
おそらく、戦後80年の間、前半の40年の方が劇的な外見変化があったのでしょう。後半の40年は内面的な変化と言えるのでしょう。
どうでもいいような思い出からの雑感です。

オールドメディアはどうなる

不祥事でテレビから消えていたダウンタウンの松本人志が、ネット配信の番組で11月から復帰するとの報道がでていました。
地上波テレビには、問題を起こして出れない人が動画サイトでは、それを逆手に知名度を活かし逆に稼いでいる時代です。
本来の意味での、不祥事に対する戒めでも何でもなくなり、ますますオールドメディアと言われるテレビの衰退がささやかれます。
そんな話題を競合するオールドメディアたる新聞やテレビが報道していていいのかとも思います。しかし、もう彼らにはプライドも何もなく、広告出稿量も金額も減っても、共存して生きながらえる道しかないでしょう。

新聞などもう、ネットニュースへの情報提供で生きています。かつてはテレビの台頭で存在を脅かされたとき、それを逆手に目立つ裏一面をテレビ番組表にして、共存を図ったものでした。今や、テレビ局も制作はしても同時にネット配信もして、無料の動画サイトにもコンテンツを提供することで、存在感を維持しています。
リアルタイムで、人気番組を家族でチャンネルを選びながら見た時代は隔世の感となりました。
子供の頃、裏番組で見れなかったり、録画もまだできなかったような不便さはありませんが、もう何だかワクワクするようなコンテンツが減ってしまって、興味も少なくなっています。
それは、もう若い人でもそうで、今のテレビを見ているのはごく一部の高齢者になっています。

ネットも不祥事起こした人間の活躍の場で、毒まみれの情報もありますが、清濁見極め、情報や娯楽をチョイスするリテラシーがないと、自分が守れない時代です。

過疎地の商店の物語

ローカル鉄道をめぐり、廃線跡などを散策する途中には、タイムスリップしたような古い看板やお店を見かけます。意図的な景観保全ではなく、昭和から令和まで息づいていて、かつては繁栄もあっただろうに朽ち果てている姿が哀れを誘います。
シャッター商店街が話題にあがりますが、アーケードがあって、企画などのあったスケールの商店街ではなくても、駅前に賑わいがあった痕跡がうかがわれる場所はよく見かけます。
鉄道がピーク時は毎日通勤や通学、買い物の人でにぎわい、乗客や、鉄道車両の管理のための人員とその家族までたくさんいたことも分かります。そんな駅も無人化、廃線となり、大型モールはクルマで飛ばせば行ける時代になり、駅前の店は後継ぎもなく、そもそも商売が成り立つほどのお客さんが来なくなったのでしょう。

そんなさびれた駅前で代々続いた米屋を営んできたY子さんは、ご主人を亡くしながらも、女手一つで、店を回しきました。イオンモールが郊外にでき、若い人がすっかりいなくなっても、Y子さんは近所に配達し、お年寄りを何かと気遣いして細々と商売を続けてきました、
嫁にだした娘の青果店はとうに廃業し、旦那さんの勤めで遠くの近いに引っ越してしまい、年に一度顔を見る程度です。
頑張っていた多くの近所の店も平成の半ばでほぼなくなりました。
令和が始まっても、何とか重い米を外まで買いに出かけられないお年寄りのために商売を続けてきたY子さんですが、コロナにもかかり、復帰する時、腰を痛めてしまいます。
そして、トドメを刺されるように、米の卸先から、回せる米が無くなったと告げられます。とても年金ぐらしのお年寄りにか買えない値段の米しか卸して貰えず、お店の米が売りつくされ、棚がすっからかんになった時、Y子さんは商売をやめる決意をしました。
国民年金とわずかな貯えで店の処分ではマイナスになり、とても高額な施設には入れず、介護サービスを受けながら、シャッターの奥の自宅で、つつましやかな老後生活を送るY子さん。
かつて、にぎやかだった駅前通りをたまに夢のように思い出すことがあるそうです。

というような物語を創作してみたくなります。
この後は、Y子さんから不動産も年金も巻き上げようとする悪徳業者を追い払いう、薙刀と合気道の達人、孫の美少女が活躍。