人生は自分の居場所を探す航海

 人生は旅の連続なのかもしれません。どんなに門外不出の人でも学校や職場、人との出会いや集いは経験します。
 みんながお互いを知らないような新しい学校、職場などでは早く友人を作り自分の居場所を作りたくなります。あるいは家に帰って家族と過ごすことにこそ価値を見出す人もいます。
 生まれ育った地域や、国、就職した企業などに自分の居場所がないような感じを持ち、脱出される方もいます。
 堪え性がないという見方もありますし、注意多動性欠陥障害(ADHD)的な衝動的行動をとりやすい人かもしれません。しかし、必ず人間どこかの場面大きな変革の決断を迫られる時期がきます。
 還暦を過ぎたぐらいの人でも、まだまだ経営や政治に重鎮で活躍する方もいます。現役時代は遮二無二働き、セミリタイア的な悠々自適の隠居に近いところに居場所を見つけた人もいます。まだまだ生きるお金のために日々汗水たらしが働く人、新たな活動に挑戦する人、様々な事情はあるでしょうが、自分の居場所をそこに見出しているのではと思います。
 生まれ育った環境にもいろいろあるでしょうが、還暦に近くなったと時思うことは最初の階層にはそれほどの意味はない。やはり維持するにも、向上するにも努力は必要だし、それぞれ自分にあったポジションが居場所になるような気がします。

小さなヒヤリハットに気をつけよう

 運転手や使用人がいる身分ではないし、旅も移動も自分で計画し、交通手段を選び、電車やクルマを利用します。今月で63歳ですが、久々の旅でも、日常の仕事でも「ヒヤリハット」命や重大事故ではないけれどちょっとしたミス、危険な場面。何度か経験してそれなりに反省しています。
 元々、慎重とは言えない性格で、どちらかというと気がつけば身体は行動してモノにぶつかっているときもあるぐらいなので、これからはもっと注意が必要なのではと思います。
 40代から50代、じわじわと身体能力が衰え、いろいろと体のあちこちにガタが来ているなと感じることが多々あるこの年代です。


 もちろん未だに同年代でマラソンを3時間台で走ったり、衰えをあまり感じさせない人もいてこればかりは、鍛え方で維持することもできますし、それは個人差もあります。
 しかし、体力や集中力、記憶力など自分は優れていると思う人ほど、衰えた時の対応が遅れる場合があります。自信過剰は禁物です。
 典型的なのが、記憶力がいいと過信している人がメモをとる習慣やその発想すらないため、いざ物覚えが悪くなりだすと急にあたふたするケースです。


 運転やスポーツ、長時間のフライトなども、いままで何でもなかったことが急速に衰えて危険な目にあったり、つまらない失敗をしたりしがちになることがあります。
 私の好きな旅で言うと、若い頃は一人で長距離運転、青春18よろしく長距離鈍行シートで寝るのも苦でなく、エコノミーフライトで十分だったのが、グリーン車やビジネスクラスでないと疲労を感じやすくなってきました。移動が長いと循環器系など身体の不調や、失敗、交通事故や自然災害、テロなどトラブルの危険も増えます。それはいつやってくるとも限りません。


 自分に言い聞かせながらも、旅や仕事、余暇の移動ももちろんいたわりながらやく方が老けないとは思います。
 遠距離の通勤や、繁忙期の帰省、海外の往復は、ルーティンに組み込んでいるとやがて厳しい時期がくるのでどこかでライフプランの見直しが必要でしょう。

仕事も学校も5月なんとか乗り切ろう、

 5月病というのはあるのでしょう。
 日曜日の夜になると、来週からの仕事や学校のイヤ感が生まれ憂鬱になるときも多いでしょうから、そんな人はなまじ連休を愉しむとそれが終わると人生の終わりみたいに悲嘆します。
 月曜日の憂鬱、もちろん土日もしくは日曜日が休みの前提の仕事になりますが、気持ちは分かります。
 何割か仕事が好きという人もおられますが、多くの人にとって仕事は「苦行」の面があります。(以前にも書きました)
 それをしないと対価として生きていくためのお金が得られないなどの事情があります。
 定年で退職金や年金で仕事がなくても生きられる方は、もうせいせいして働かないという方も当然多いです。若い頃からの「苦行」を終えたのだからという考え方かもしれません。
 しかし、まあ100%苦行かというと、働くことには面白さや憧れる面はあるのです。定年すぎても、やることが無いより何か働いてみようという人もいますし、毎日が休日になると1週間を待ち望んだ休日と働く日のメリハリはなくなります。


 若い人の悩みと中高年の悩み、働くことへの苦悩は種類が少し違うかもしれません。
 学校のイジメや受験の悩みなど、社会人になって振り返れば何となくその程度だったと思える時もあるでしょうし、その時の自分には耐えがたかったのもわかります。
 こんな偉そうな文を書く私でも、ごくつまらないことが言い出せず悩み、沼にはまること、も多々ありました。
 いずれにせよ、自分にあった「場」をみつけ、仲間に出会い、自分の力で貢献し認められ「苦行」が少しでも意味を持って凌げるよう何かの力になりたいでものです。

日本人がウルトラマンに求めるモノ

  映画「シン・ウルトラマン」を観ました。子供の頃のヒーローや怪獣を現代的設定とふんだんにCGなどを使いうまく仕上がっています。
 当時からのツッコミどころも強引に後漬けで修正や科学的設定をつけています。
 そもそもウルトラマンがなぜ地球に来て、地球人と一体化し命懸けで地球の平和を守るのか、特撮ヒーローもの難しい点です。
 怪獣のようなミサイルも通じない巨大生物が、自然界に生存することはそもそも現実味がありません。侵略を狙う異星人の生物兵器とするのがやはり妥当なのでしょうか。
 現実に怪獣有事があったとして、日本ではどう立ち向かえるのか。ウルトラマンの世界では初期の作品から自衛隊<専門チーム<ウルトラマン という図式でウルトラマンが出ないと事態は解決しません。
 しかし、自分の国、自分のの問題でありウルトラマンに頼るというのは何だか違うような気がします。日本がアメリカ軍や国連軍が正義だと思い込むよううな依存、甘えが見られます。
 問題定義の作品もありましたが、異星人はもとより、地底人や海底人、植物人間などと人類の抗争になればどちらが正義ともわかりません。兵器の開発も際限なく止まりません。現実に、対怪獣、異星人にならどんな強力兵器もOKならごまかして他国攻撃に流用することも可能でしょう。
 まあいろいろ考えると難しく、素直に楽しめませんので。

 今回の映画ではカラータイマー、3分間の活動という設定が取りやめになっています。
 私はウルトラマンはアラジンの魔法のランプのような感じで、場所と時間を限定した局地戦で個人への協力として現れてすぐ消える存在でいいと思います。それが現実的なファンタジーのような気がします。

自殺や不審な死が多い

 連休明け、連日のように交通機関が乱れて、その原因は人身事故、飛び込みのようです。
5月病なのか、仕事や学校が始まり日常の現実から逃げたくなるのでしょうか。
 前後して有名人の自殺なのか不審死の報道にも驚きます。
 戦争や内乱、飢餓のない普通に生きていくのに障害はないはずの日本で、命を落とすのは何だか理不尽、無念ではないでしょうか。
 自殺を考えるまで悩む人に、確実に良いアドバイス、正解的なものはありません。
 周りの人も方が問題かもしれません。
 会社や学校、家庭などそう急にはやめたり変わったりできません。今の言葉でいうとマウンティングした人間が悪気はなくとも追い込んでいることも考えられます。
 人間知らず知らずに傲慢になり増長します。つまらぬこだわりで、環境を厳しいものにして、人を追い込んでしまわないように心掛けないととは思います。

瀬戸内に浮かぶ「ウサギの島」の哀楽

 連休に久しぶりに旅をして瀬戸内海の小島を訪れました。
 太平洋戦争中は軍事機密として地図から消えた島とされていた大久野島が、今は平和なウサギの島として人気を集めているそうで、御手洗の大崎下島、国宝の多い大三島などとともにツアーに組み込まれていました。
 

 900羽以上のウサギはいて今や人は職員などの22人のみの無人島に近い島。かつて日本軍は勝利のためには当時の国際法にさえ違反する生物化学兵器を研究開発していました。
 戦争はどんな手段を使っても勝てば官軍という考えもあります。負けたからこそ歴史を歪曲され悪者にされる史実も確かにあります。しかしやはり法にも倫理にも外れた勝利はやがて手痛い敗北と滅亡の道に向かいます。
 

 戦争の怖いところは勝つと士気が鼓舞され、恩賞や論功のためさらに勝ち続けないといけなくなり民の世論もそれを推します。
 本当は平和望み、母は我が子だけは命を危険にさらす徴兵にも反対でももはやそれも言い出せない雰囲気、全体主義に押されていきます。

 人間が戦争を好みつつ、どこかで平和を願う存在。平和を愛しつつ、勝つためには殺戮の兵器を研究する矛盾した存在であることは、多くの歴史が証明します。第二次世界大戦も日本が先に原子爆弾を開発していたら使っていたかもしれません。事実敗戦を知った毒ガスの研究者は「殺される」と思いつつ「もっと早く毒ガスを開発できていたら」とも嘆いたそうです。
 それでも戦争の悲惨さ、核や生物兵器の危険を誰かが警鐘を出さないといけないのです。
 人間が戦争に巻き込まれると、フェアなスポーツ大会ではなく、人道上許されるかぎりぎりでも勝てば良いと思ってしまいます。
 戦争の全てを否定するものでもなく、その醜さと、平和であることの純朴さを、小さな島の野ウサギが語ってくれるようです。

ウトロ平和祈念館を訪れました #在日の厳しい運命

 2022年4月29日にオープンした京都府宇治市伊勢田にあるウトロ平和祈念館を訪ねました。
この写真はその祈念館の屋上から南側、自衛隊の大久保基地を見ている光景です。
 ウトロ地区は在日韓国人地、戦前飛行場を造るため集められ敗戦後、韓国に戻らなかった人達が居住していたところです。長い間、上下水道も通らず、立ち退きも強いられ差別と貧困に苦しんだ人達がようやく令和になって再開発をされ、祈念館にその事実、経緯を刻まれています。

 私は15年ほど前、東北から関西に戻り宇治市大久保に住んでいました。その時伊勢田のウトロ地区の様子は実際に見聞きしました。21世紀になっても立て看板でいろいろな問題を訴えるその住宅群は正直異様に映りました。
 京都に住む人でも知らない人もいるかもしれません。知って目をつむっている方も多いかもしれません。サッカーの日韓W杯、韓流ブームもありましたが日韓の関係はなかなかいい方向には進まずむしろ悪くなる一方です。
 昨年もこのウトロ地区の看板にヘイトクライムによる痛ましい放火がありました。

 私は政治的な問題は常に中立で、どちらかの肩を持って相手を攻撃することは好きではありません。歴史は勝者や国により歪められます。それぞれの主張には主観が入り、恣意的なものになりますから、私は常に片方によらず両方の可能性を考えます。
 この施設で語られ、展示される日本特に戦前の日本が全て正しいとは思いません。いわゆる左翼系の自虐史型日本史へ誘導する錯誤の可能性もあります。しかし戦後の復興の後も日本政府の行政が動かず日本社会が差別や偏見、非協力な無視が続いたことは事実でしょう。
 日韓や在日の問題、歴史も含め改めて知ると私は知っているつもりで勉強不足でした。

 ウトロの経緯も詳しくはなかなか分からないものです。
 知らないことが人々の嫌悪の感情を産み、ヘイトに繋がっているのではとも思います。
私自身も、在日の人がなぜ本国に帰らなかったのか、帰ったら良かったのではと単純に思っています。実際に帰国支援事業もあったというい事実を持ち出し、【不法滞在だから仕方ない】という考え方をされる人もいます。国や法律が正しいのか間違いのかではなく、救い切れないものがあり、それぞれの考え方がありそこに不幸が産まれました。
 では差別やヘイトが許されるのか、今ウクライナの難民には手を差し伸べたいという方がたくさんおられます。誰も好き好んで異国に住みたくはないはずで、まして上下水道もない買い物もままならないところで住むのに何らかの事情はあるでしょう。その経緯を詳しく知れば仕方なかったと分かることもあるでしょう。また法律を盾に分からない人もいるでしょう。


 いわゆるネトウヨという人の在日攻撃は未だにあらゆるところで止みません。在日の人の中に日本社会で成功した有名人、財界人も多くいる中で、それをあげつらい並べ上げて何が証明され何が楽しいのでしょうか。

 厳しい条件で努力され成功された人は認め、恵まれない人はとことん罵倒し罵詈雑言を吐くのが日本人のやることでしょうか。

 愛国心、真面目な法律や秩序のためか、公益や私益を拡大する使命感のためか、日本人は時に優しく、時に残酷にまっすぐ進みます。

 日本人は美しい花を作る手を持ちながら、一旦その手に刃を持つとどれだけ残忍極まりない行いをする(帰ってきたウルトラマン33話「怪獣使いと少年」)

昭和の日

 昭和の時代は1926年から1989年まで63年あまり続きました。今の日本の人口構成でこの間に生まれた人はまだ7割以上を占めています。戦前となると77歳以上の後期高齢者となり、戦後すぐの第一次ベビーブームの人でさえもう高齢者となっています。一番若い昭和生まれが33歳なのですから、時の移ろいとともに日本の人口を占める高齢の割合に改めて愕然とします。
 第一次ベビーブームから最大の第二次ブーム、団塊の世代を経て、出生はその後激減します。昭和の終わりの手前までは正三角形に近かった人口ピラミッドは、縦長で上の方に太いいびつなバランスの悪い形になります。

 日本では戦争は遠いもの、語り継がれる昔になってしまいました。戦後生まれの私でさえ、直接の体験はなく60歳を過ぎているのですから、その下さらにその下の世代にとっては伝言の伝言です。もはや正確というよりは画一的なもの、恣意的だったり情緒的なものに左右されやすい話になっています。

 間違いなく戦中、戦後すぐの日本は最も不衛生で貧しく食べ物にも困っていた時代でした。そのなかで何とか高度経済成長を成し遂げて平成、令和へ今の飽食とまで言われる豊かな時代がきました。
 戦争の時代に生まれ兵隊として戦地で帰らぬ人となった人や空襲で亡くなった人たちがたくさんいて、身体にも心にも傷を負いながら残された人たちはその分を生き抜きました。
昭和のくすんだ服の子供たちがやがて日本を伸ばし、支え、今の日本の課題も生んだ。昭和とはそんな時代です。今日はそんな日本の今に至る大事な歴史のページを想起する一日です。

戦は人間の業(ごう)宿痾(しゅくあ)

【宿痾】長くなおらない病気。持病。

【業】仏教用語 

仏教身・口(く)・意が行う善悪の行為。特に悪業。また、前世の悪行の報い。

 前年ながら人間は戦争というものを断ち切ることはできないと思われます。ロシア侵攻以前から、世界の各地で紛争は絶えていないのです。
 各国は他の国を信じるわけではなく、徒党ともいえる同盟を組み戦争のための兵器を調達し、競い合うように戦力を誇示して戦うことを止めるわけではありません。
 戦争を始めた人間が特殊な狂人やならず者、あるいは戦争を支持していた国民は騙されていただけで支配層や時代背景が悪いという方もおられます。自己正当化して戦争を非難する層は戦争の忌避はあっても立場が変わればはたしてどうでしょう。
 自分が安全で自国とそのグループが勝ち続け利益が拡大すれば、戦争は対岸の火事です。むしろ遠く離れた他国、他人の不幸は大ぴらでなくとも蜜の味です。同情をしなながら、正義を語りながら日常の贅沢を愉しんで離したくない心理です。
 戦争批判の多くは自分に降りかかってきたときの怖さ、面倒くささが多くを占めます。
 結局は人種や貧富、格差、産まれながらの理不尽が支配層や富裕層への不満への爆発であり、次の支配と富を狙った争いを産むわけです。

 残念ながらそれが歴史であり、世界中の不変のもののようです。片方から見れば「悪」に見え、俯瞰してみれば「対立」に見える問題というものは消えそうになっても必ずどこかで発生していくものです。正義のヒーロー番組が最終回に悪を倒しても、次の週からまた悪の組織が新しく生まれる。悪役は正義を盛り立て憎まれるために存在するものです。昭和の特撮やプロレスと同じです。これが世界の構造であり、それが人間の宿痾なのです。

久々にカラオケ

 流行りの歌もすぐに懐かしい歌になってしまいます。時の移ろいは早い。
コロナ以前以後で人前で大声で歌うのは大違いになりました。しかし、まあ他の部屋からも元気な大声の熱唱は聞こえます。みなさん元気なようです。
ただ唄い過ぎはやはり喉の粘膜を弱めるようです。
 集団感染がカラオケや合唱で多いのは何となくわかります。ストレスは適度に発散しつつ健康に気をつけましょう。