日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ12】

カネボウ化粧品と歩んだ人生12 上司

カネボウ販社当時は直属は課長で、その上に支配人という販社最高責任者。取締役がいました。
マーケティングでの権力者等一部の例外を除き、この上司に恵まれないのが悲劇でした。

とにかく朝礼が長い。叱責も長いし、訓示も長い。販売会議も個人攻撃。
できない。失敗、営業成績の未達等。『なぜだ。なぜだ?』の追及の嵐でした。
ああならないよう達成しようという、努力を回りに促す効果はありましたが、好事例をプレゼンして共有するような最近の会議や朝礼とは大違いでした。
大阪の最初の営業スタート時のトラウマ。I部長とY支配人のコンビにはなかなか辛いものがありました。
それ以降なかなか厳しい販社ばかりでしたが、追いつめられる前に何とかすることが、逆に墓穴を掘ることもありました。
粉飾まがいの売上も、追い込まれるとやってしまいがちでした。
広島時代はK支配人、M部長でとくに厳しい訳でも無かったのですが、悪い癖がついていました。
愛知ではKという支配人の上の事業部長、後販社社長に就くNマーケ課長が支配人以上の権力を持つ難しい二重構造でした。
沼津のKは先進過ぎ、秋田のKは只々前時代のパワハラ、そしてW課長などは組合で決まっている残業を握りつぶしシカトしました。
平気でうそをつく上司がいあるのには少し呆れました。まあ自分部下としては誤魔化すし、いざ上司になると苦し紛れもありましたからアイコでしょうか。
仙台でようやく課長に自分がなった時、パワハラと言われてしまいました。
一国の主になると下に物足りなく声を上げることもあり、嫌われもしました。
敵を作る前にいろいろしないといけないことがありました。
関西の戻って奈良のK課長や滋賀のS支店長やはり相も変わらぬパワハラでした。
これ以降は年も年、そんなに期待も叱咤もないベテラン社員です。この時期に前章で述べた同期のMが本社のパワハラで死んだのは何とも衝撃ですし、昭和からずっと難しい時期を乗り切った逸材が何故と思いました。
カネボウの終焉のその後、何とか花王の中でカネボウの看板を守りたいそんな焦りが、あの白斑事件につながったのかもしれません。

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