人は何のために生きて来たか分かる歌があった

 ろくでもない1日ってありますよね。いくら心の広い人でも、難癖ばかりつけられてやりたいことができず時間が過ぎた1日。そんな日に限って巡り会わせが悪く、天気も体調も悪いような最悪のイライラが募るような日が私にもたまに来ます。
 先日も仕事でもさんざんみたいな一日の帰り、天気予報に反して、みぞれ交じりの雨です。しかも風も強く、服もかなり濡れるほどです。
 今日はいいことの無い日だと、泣きたくなるような気持ちでの信号が変わるのを待つ交差点で、お母さんの自転車の後部座席に合羽を着せられた子供が寒そうにしています。
 小さな折り畳みの傘、信号待ちの短い時間ですが、子供にだけでも雨がかからぬように差しかけてやりました。母親には見えないまま、信号が変わると自転車は走り去りました。子供ははにかんだ笑顔で手を振りました。自分が雨の打たれる状況は変わらず、むしろ濡れ方が激しくなったわけですが、気持ちは一変してモヤモヤもイライラも、悪い一日という気持ちは消えました。

その人はさっき僕が拾った
素敵なものを今の僕以上に
必要としている人だと
言う事が分かった

惜しいような気もしたけど
僕は それをあげる事にした(中略)

結局僕は そんな事を何度も繰り返し
最後には何も見つけられないまま
ここまで来た道を振り返ってみたら

僕のあげたものでたくさんの
人が幸せそうに笑っていて
それを見た時の気持ちが僕の
探していたものだとわかった

今までで一番素敵なものを
僕は とうとう拾う事が出来た
槇原敬之さんの「僕が一番欲しかったもの 」歌詞より抜粋です。

 前半の歌詞は、素敵なものを見つけては人に譲り、そんなことを繰り返している内に、時間だけ過ぎてしまったという嘆きでしょうか。
 人生の終焉が近づく頃、自分がこれまで歩いてきた人生を振り返ってみると大金持ちになったり、名誉や地位を得た者に比べ「虚しい価値のない人生を送ったかな?お金も残らないし、モノもたくさん持っていない。結局、いいことはあまりなかったかな?」
 そんなことはないでしょうと後半の歌詞は否定します。
 自分がこれまで人に譲り続けてきたものは、その人たちの笑顔とともに心に焼き付き、人生を豊かに彩ったはずです。たとえ、わかりやすくお礼を言われなくとも、人に譲った時の自分自身は輝いているのです。
 がめつく奪った時よりも爽やかな顔になっています。
 
 人生の目的は奪うことや貰うことではなく、大切なものを他人に与えることなのです。このことに気づけば、肥大する物欲をある程度断ち切り、幸福感がジワジワと増してきます。
 春を待つ驟雨の中、そういうものだなあと思いました。
 

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