25年ぐらい先を見るリーダーがいないと

 今年は最後になってもダイハツの不正が発覚し、BIGモーターズの保険会社まで巻き込んだ不祥事もあり、社会、芸能、政治にも情けないような話が多いです。
 私も企業で営業をやっていた頃、年末は最後まで売上を追われていました、結局、昭和からの多くの日本の企業は、目の前の数字しか見えない人が増えるとダメになります。
 サステナビリティの時代と言われながら、今だけの業績、幹部の延命、損益計算書の瞬間を気にし過ぎることは粉飾につながるのは過去多くの企業の不祥事で明らかになりました。
 人間は弱い者ですし、目先にとらわれます。それでも知識があれば、今だけの評価が会社の全てではないことがわかるはずです。1年先のことや25年先のことよりも目の前の事しか見えないし、目の前で言われた人の意見に左右されます。しかし、たとえば簿記をやっていた人は同じ10万円を払っても一晩で終わってしまう20年以上事務所の備品になり、減価償却されていくものがあることがわかります。伝統や社員の規律が正しく、良い技術を持ち、商品やサービスを提供できる力があると判断されれば、個人の事故やコロナ禍など一過性の評価企業価値は下がらないのです。そして今は、その企業が将来をどう考えてプランニングしているかが、付加的価値として見られています。
 よく期末操作とか、期ヅレとかの不正や粉飾が問題になりますが、企業活動の実力をかかるためには、その実力、営業力や財務体質は瞬間ではなく流れ全体を見ないといけないことは明白です。
 さらにいうと、その活動が25年経ったとして、その間にどのくらい収益を上げ続けられるかなのです。もちろん目の前で現場の人間も頑張るかどうかにかかってきますが、そこは加味しても現場のその時任せではなく、ストーリーとして事業のライフサイクルがどのようなものが描けるかです。
 それが理解され、使命感があれば、目の前の損得は次への課題となって見え、頬かむりごまかしても意味がないことが分かります。現場は描いたデザイン通りやることは必要ですが、全体としては中長期の目標のために邁進していれば良いことです。

 比較的目先の利益を気にしなくてもいいのが行政なのですが、最近は妙に世論や市民の目を気にして、政治家は選挙を気にするため、結局漫然と年度内しか見えず、25年先を見据えられるリーダーがいなくなっています。首相、閣僚、政府与党こそ、25年ぐらい先の国家観を語れないといけないのに、今の国会答弁対策、近くの選挙戦しか見えないのでは、政治家失格です。
 人間にはタイプがあって、過去を振り返り分析する者、今現在の目の前の活動に集中する者、未来を想像しあれこれ考える者がいるそうで、それぞれが必要でもあり、相互のリスペクトも必要です。
 目の前のことだけにガツガツした人間が上に立つと、パワハラや裏ガネ、不正粉飾横行となり、未来が見えなくなります。
 一番情けないのが、30年前世界一だった日本、その国の総理大臣、与党、官僚、多くの企業のリーダーがこの30年、目の前しか見えなかったことです。

紙のポスターを貼りまくった思い出

 ただの昭和とか昔の回顧みたいになりそうですが、最近はターミナルやショッピングセンター、バス停なども紙のポスターがなくなりデジタルサイネージと言われるものになっています。

 私が化粧品メーカーに入社して、営業に回された頃は、もちろん紙のポスターばかりで、あとは横長の店頭幕と言われる布を入り口や化粧品コーナーの上に吊るす販促物を、キャンペーンに合わせて設置をチエックするというのが仕事の一つでした。年配の方の店や。営業を丁稚のように使役する店は、自分でやらないとなかなか替えてくれません。コマーシャルが始まっているのに、主力店を幹部が来訪して、販促物が前のままだと、カミナリを落とされ叱咤されました。
 ドラッグストアやバラエティストアなどの企業が主流になると、大型のものや踊り場を占拠する枚数、パウチ加工したものをリクエストされ、逆提案で店の高所や壁周り全体をジャックするような貼りまくりをしたこともあります。ライバルメーカーの営業が来れば地団駄を踏んで口惜しがるような自社モデルの顔で埋め尽くすのは、高所恐怖はあっても快感でした。
 ポスターと合わせ店頭設置のビデオモニターのため、VHSテープやDVDをダビングした時代がしばらく続きました。やがて本部企業から【デジタルサイネージ】にするから、データをこのサイズで送ってくれと言われる、最初はなんのこっちゃでした。
 ポスターをピンやら、ホチキス、テグス糸で止め、屋根近くを忍者のように登っていたのが懐かしい。
 ああやはり、ただの回顧になってしまいました。
 古い街並みを散策して、ホーロー看板の広告などを探すのひそかな趣味になっています。しかしホーロー看板は多少劣化しても丈夫なのですが、紙のポスターは傷み、日焼けして残らないのです。

学歴、職歴、思わぬ自分史を作る機会を得て

 まったく数奇な運命で64歳にして、公的機関で再び採用試験に合格しました。しかし何と高校以降の学歴証明、職歴証明を提出せよと言われました。
 30代ぐらいまでの第二新卒、過年度採用のための書式ではないかと思いました。40年も前のことであり、入社した鐘紡(カネボウ、昭和57年当時は漢字)株式会社という会社は事実上倒産しています。学校も卒業証書や卒業証明ではなく、休学なども含む在籍期間の証明、職歴も仕事撫内容までも含めていったい、そんなの本当に必要で、そもそもはたして手に入るのかと思いました。
 学校関係は成績証明は無理でも、在籍証明は出せるそうです。年金事務の時に逆の立場で学生特例猶予の時にさんざん他人にはリクエストしましたが、卒業ではなく期間在籍の証明で、ネットや郵送で申請して、速達やレターパックで返送してくれました。高校は申請書に3年のクラス、出席番号、担任が分かれば書く欄があり、そこは記憶はすぐには蘇らず、友人の助けを借りました。
 最大の懸念は統合、組織変更した会社の方です。幸い、退社時にも世話になった後輩が花王グループの総務にいていろいろ差配してくれて、入社以来の経歴をうまく組織変更とまとめて記入、代表取締役社長印を捺して返送してくれました。
 高校からの50年におよぶ人生のエビデンス、自分史が完成したのは壮観でした。走馬灯のように見て、これが最後になるのではなく、さらに輝かしいページを加えていけるようにしたいとは思います。
 最後にオチではないのですが、これを提出した後、人事グループは証明を出したところに電話で確認をしてウラを取っていました。その上で、内線で「昭和57年3月21日卒業から、4月1日の入社までは空白期間になりますがアルバイトなどせず無職でしたか?」との確認「はい」と応えましたが、そんな40年前の春休み何してたか、覚えてないなあ(笑)。
 年金事務所では受給資格の足りない人に厚生年金にあたるバイトをしていたら年金が増える可能性はあって確認することはありました。しかしたかが経歴書そこで一週間強バイトしてたと言って何が変わるのかとおもいつつ、何してたのかなと回想しました。社会人になる前でドキドキだったのでしょう。

還暦から手習い、雑巾がけもまた良い

 10月から、また全く新しい職場で新しい仕事を始めていて、慣れないことばかりで緊張も戸惑いもありつつ新鮮な清々しさも味わっています。
 大学を卒業し、カネボウという大きな会社に就職が決まった時、友人に「一生、カネボウの人生でええんか」と揶揄されたのを覚えています。その友人は、自分で事業を起こして独立した人物ではあります。また同じようにカネボウの面接を受け、内定を決めながら公務員になった者もいました。また、すぐに親の家業を継いでいった友、医者や、学者、教師を目指した同窓もおり、同じ学び舎からでも千差万別な人生です。
 もちろん、途中から道を変えることもできますが、サラリーマンはそう簡単にはいいところに再就職できませんし、新しい会社はよほどヘッドハンティングでの条件付きでも、最初は一から学ぶ仕事であり、雑巾がけの新入社員から始まる場合がほとんどです。
 60歳を過ぎ、再雇用制度を選ばずに、就職を探した4年前もそう簡単には仕事は決まらずでした。何の縁か公務系の社会保険の仕事につきました。そこで覚えたことも一企業では味わえないものでした。
 今回は社会保険、厚生労働からも離れます。公務とは言え、全然かけ離れた、裁判所の事務です。
 内容に関しては追い追い守秘義務以外の範囲で語ります。
 仕事へのチャレンジという面では、輪廻転生できても記憶はリセットされそうですから、大学卒業時に選ばなかった道を通ってみるももいいかなという気持ちです。
 一度きりの人生かもしれませんから、新人に戻るのを恐れることなく、楽しむように感じていきたいと思います。
 60でリタイヤして遊ぶのも選択で、若い時に苦労されて貯めたお金で楽をするのも間違いではないでしょうが、もう一度若い頃に戻って雑巾がけというのもいいのではないでしょうか。
「一生、カネボウの人生でええんか」同じ企業に縛られる人生かと揶揄した友人に対しての、ささやかに意地で反抗するような選択です。
 慣れない上で、間違いの許されない激務ではありますが、テレビや映画で見るような裁判所の中は、新鮮です。また、何気に毎日新聞やテレビで報道される事件、訴訟はすべてどこかの裁判所に絡んでくることは世界の見え方が少し変わります。

最低賃金1000円台に

 最低賃金が見直され、全国の加重平均(人口按分か)で1000円を超えました。近畿では大阪に続いて、京都と兵庫が1000円を超えています。まだ地方の人口の少ない県では800円台というところもありますが、相対的に900円後半には近づいています。これに伴い、当然そこよりも少し上だった基準の人は改善されていくケースが多いです。
 物価高の感覚は重く、収入がそこそこの人は、賞与や退職金も含めてバブル崩壊後、一部業種を除き漸減している傾向にあります。非正規と中堅の社員の格差は詰まっているともいえますが、日本の給与水準の伸びがOECD諸国やアジアなど海外と比べても小さいのも現実です。

 とはいえ、ローカルニュースでは取り上げられいましたが、今月はじめから全国のトップニュースでは値上げ値上げばかりの報道が、ジャニーズ事件と並んで洗脳のように流されています。賃金がじわっと上がっているということは、値上げからそこは引かないといけません。節約節税、吝嗇などのノウハウが知れば、乗り切れる場合もあるので、暗くなるばかりではないというところです。

 推しの飯豊まりえさんから、なぜか藤原紀香にモデル変更、

昭和史からの裁判 水俣病

 たまたま、昭和史の本を眺めていて昭和40年代の「日本株式会社の功罪」という一冊に、私の小学校時代の世相写真とともに、高度経済成長に伴い、日本の主要産業が重化学工業にシフトしたため、「公害」という新たな言葉とともに、裁判が始まったことが書いてありました。
 佐藤内閣時代の懐かしい写真、当時日米繊維交渉もあり、綿紡中心の繊維会社だった私は勤めた化粧品会社の前身も大きな転換期を迎えました。
 明治以降、絹紡や綿紡などが主要産業だった日本は、重化学工業により大きく発展し、世界の先進国へと成長します。しかし、その過程の暗部に公害の問題がありました。
 一時代も半世紀以上前の歴史と思われた名前が報道の一面に出ました。当時から引きずった公害裁判の判決が大阪地裁で先日下り、国とチッソ側に賠償を命じるものでした。
 小学生が耳には入れていた水俣病という、病と地名、社会の授業で学んだ四大公害裁判。そんな昔のことと言われますが、昭和から平成、令和まで苦しみぬいた方々がおられることに驚くばかりです。
 青春ドラマや特撮ドラマを見ていた子供が、還暦を突き抜けるまでの間、ずっと裁判をしていた人達がいたのです。金額や中身などもあれっと思いますが、内容な詳しくは触れませんが、ただただその長い時間の経過を耐えた被害者をリスペクトするしかありません。

クリアファイルの謎 

 推理小説でも、ミステリドラマでもないので、この何気ない謎の真実はたぶん分からないでしょう。
 役所、公務というところは、まだまだ紙媒体の申請や提出を受けています。そして申請書には控えや、関連を証明する添付書類があります。年金手続きでも、労働保険でもそうですが、1つの案件にいくつもの書類があります。他案件と絶対混ざらないように、入力処理や決済完了で編綴されるまで、クリアファイルに入れている場合が多いのです。
 ファイルの色や保管のBOXの色、どこまではクリップに止めるとかは、それぞれ役所、部署によってルールが決まっているのだと思います。クリアファイルは登場して、一般に使われだしてどのくらい経つのでしょうか、マニュアル的なルールにもなっていますのでかれこれ20年以上は優に経過しているでしょう。
 この前、京都労働局の労働保険年度更新の繁忙期を終え、最後の中間整理をしているとき、上の写真の何と以前勤めていた、懐かしい会社のロゴの入ったクリアファイルを見つけました。左上に小さく今は使われないベルのマーク、ちょっとわかりにくいので下地を赤にして右側にアップで撮りました。
 この部署では、整理用に、透明、黄色、赤、ブルーを使用して、透明を最も使用し、新規購入もしますが、提出してきた企業様からのファイルも、下に社名が入っているぐらいのものは一時的に流用してはいます。
 しかし、今は使用していないおそらく少なくとも15年くらい前の制作であろう、ベルのマークの入った、カネボウのクリアファイルが何故に今、私の手元に回ってくるのか。
 一体、いつどこで作られ誰に配られ、どういう経緯でここに回りまわって、残されて令和5年に残っているのか?
 これは、まさに事務用には重用されるシンプルなものですが、いわゆる景品とかノベルティとして、渡されて喜ばれるものではありません。ブランドやモデルの入った透明でないクリアファイル(変な言葉)はよく私も販促で使いましたし、鉄道の何かは集めています。
 しかし、これは本当に使途が、社用に限られそうです。COMETICと入ってないので、化粧品部門が使ったのではないのか。繊維、アパレルや食品、住宅関連、薬品まで手広くはやっていた全盛期はあれど、逆に他部門にしてもシンプル過ぎるような感じで、どう推理しても出所不明です。
 このカネボウのベルのデザインが使用できる末期に、社内外の書類管理、書類提出用ぐらいにまとめて作ったもののでしょうか。
 余ったものが、透明部分も多く、企業色が弱いため、形状や保存が良かったものが労働局に提出され残っていたのでしょうか。
 真実は一つなのでしょうが、スッキリとした回答は分からない、それでも懐かしい謎でした。
 

32年前の橋桁落下事故

Wikipediaより

 私が広島に勤めていたのはまだ昭和62年とかでした。若手バリバリ、イケイケで仕事も遊びもしたもので、当時の若手グループが3人ほどと集まり広島会というのもやったぐらいで、ベテラン社員になっても、当時の広島での3年足らずはいろいろ思い出になっています。
 
 そんな広島から転勤して4年ほど過ぎた時、広島で痛ましい事故があって、新聞で見た死亡者の名前に見覚えがありました。
【広島新交通システム橋桁落下事故は、1991年3月14日に当時建設中であった広島高速交通広島新交通1号線(愛称アストラムライン)の工事現場で、橋桁が落下し、一般人と作業員の14人が死亡、9人が重軽傷を負った事故】Wikipediaより

 会社の幹部に問いあわせると、亡くなった女性はすでに退職しているが、やはり良く知った事務員の子でした。同僚によるといわゆる寿退社前の20代でした。
 軽自動車で買い物途中か何かではないかと言われています。
 それにしても、悲惨の極みの、上からいきなり構造物が落下しての圧死です。
 しかも原因を聞けば、請負業者の信じられない現場でのミス、怒りをおびえる内容でした。
 
 重量物のジャッキ降下というたいへん危険な作業でありながら素人同然の作業員に任せている状態であった。または素人の寄せ集め故にH形鋼の積み間違い(橋桁を受けるためには、完全に強度不足)という、致命的な作業ミスをしていることに気付く者が誰一人いなかったのです。この背景にはアジア大会準備のために広島市内各所で建設工事が行われており、深刻な人手不足のため熟練した作業員が不足していたこともある。そのため工程に間に合わせるために頭数だけそろえた素人作業員が危険な作業をしていたとされています。Wikipediaより

 同事故を教訓として、全国的に危険が予想される現場では交通を遮断する措置が行われることになったといわれています。国の対応も危険な交差点で死人が出てから横断歩道や歩道橋を作るようなものですが、尊い犠牲者のおかげではあります。
 最近でも数年前2016年工事中だった新名神の兵庫県有馬川橋で死傷者10名の橋桁落下事故があり、クルマは何とか奇跡的なタイミングで難を逃れました。乗用車に乗っていて、上から構造物で圧死する確率は、天文学的に低いはずですが、何の因果か当たってしまう人もいたのです。
 

 それにしても、突然の圧死とはなんという悲劇でしょうか。そんなものに巡り合う確率が低いだけに、ご両親や、関係者そしてご本人の無念はいくばくか。 それは運命というには、あまりにも過酷で衝撃的なものでしょう。
1994年、広島アジア大会観戦にこの新交通システムに乗車して、通過地点で黙とうしました。

 広島というと、どうしてもかつて原爆投下ということも思い出します。しかし、全て周りが平和になり、豊かに発展していこうとする中で、その発展への突貫工事の犠牲に、何の責もない人間が召される理不尽さには、嘆くしかありませんでした。
 多くの理不尽な事件もそうですが、亡くなられた方に輪廻があり、今よくドラマであるタイムリープなどで、もう一度生まれ変われる人生があることを、切に願いたくなる。そんな切ない事件が30年以上前にありました。きっと、どこかで生まれ変わて良い人生を過ごしていることと信じます、
 
 

いかにも日本的会計基準の「辞める相手にボーナスは払えない」

 会計基準とかIFRSというと、いかにも硬い難しそうな話ですが、ちょっとしたところが日本って変わらない変えられないのだなあという話です。
 退職時に、退職金を貰えるのは当たり前、でもボーナスはというとたいていの会社は6月か12月が賞与月で、その時に在籍していないと貰えないところが多かったものです。
 まだ退職したことがない、あるいは勤めたことがない人でも、同僚や家族、後輩らが会社を辞めることになって、その際ボーナスを貰ってからとか、あるいは急だったので貰い損ねたという話を聞いたことがあるかもしれません。
 実際、退職時期を決める時、ボーナス時期、有給消化は考慮しないといけない問題でした。
 ところが、昔は部下の女性の退職をさんざん扱ってきて、人が足りないときや優秀な人材には「何とか次の12月賞与までいないと損だよ」と引き延ばしていたものです。
 ところが、いろいろ体制の変わった中で、定年退職で60歳の誕生日月の20日で規定通り辞めた際、新体制の会社では在籍期間を計算した「退職賞与」が貰え、次の6月に貰える賞与より少し少ないくらいの金額が貰えました。
 IFRS(国際会計基準)で退職金引き当て金を計上している会社なので、どの時期に辞めてもそれに相応する賞与が貰えるのです。
 カネボウが花王傘下に入った時、当時の組織に無理をいい花王のアカウンティング(会計)幹部養成教育に最年長で参加させてもらいました。1週間以上にわたり、簿記と国際会計基準や未来会計戦略を学びました。極めて合理的で、よく考えれば道理にかなうことが多いのです。
 日本の会計基準は「細則」「前例」に拘り、全体的な考えが歪むのです。粉飾なども、法律の抜け穴とか、ギリギリの基準なら許されるだろうという「法は守っても道徳は守らない」のが許されるのです。
 賞与の問題でいうと、辞める相手にボーナスは払えない、残っている者に悪いし、経営として当たり前じゃないかという考えは今でも多くの会社や公的機関にもあります。
 しかし、労働者の公平を考えれば、5月まで働いた人と6月まで働いた人に給料2か月分の賞与がオールオアナッシングになるというのはおかしい話です。そのために退職時期が賞与月に集中するのは、会社としても全く得になることはありません。どうしても時期を急いだ人以外が、賞与まで待ち、フルの賞与を貰い、その間モチベーションの低い仕事をされれば、会社に害の方が多いからです。
 こう考えると、退職時に計算して賞与支給は合理的に思えるのですが、結局その後公的機関に3年勤めるも、4月に入り、6月賞与貰えずで次の12月から貰いだし、夏冬あと2回貰いましたが3月退職では次の6月分はゼロでした。
 公務員系は全く、そういう計算なしです。
 退職賞与は労働協約の賞与規定で決められていますから、貰えないところは多いです。
 誰も損しないのに、国際的な基準にならない。日本にはそういう変わらない慣習が多いものです。
 
 あの時の研修は本当に良い内容で、現場ではもちろん役には立たないが、世の中の会計的仕組みが目から鱗が落ちるように分かりました。強い会社というのは、こういうところなのかと思います。
 

officeにまつわる話 最新主要3ソフト履修終了

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 正確にいうとOfficeだけではなく、地域ITアドバイザーとしての表計算やワープロ、プレゼン等の勉強です。
 マイクロソフトが提供するMicrosoft Office製品ラインのサブスクリプションサービスいわゆるWEB版対応が主体です。従来の買い切りのライセンス版はイニシャルコストは高くつきアップグレードもそれなり支払いました。昔は紙の箱に入って家電量販店に沢山並んでいました。今はすべてのMicrosoft 365プランにはそれぞれのソフトウェアの自動更新が追加され、常に最新版になります。GoogleやMac系のソフトもある上、自社内でもライセンス版との機能の差別化が難しく、実はそこらあたりが研修のメインになっていました。
 Excelの関数とか、PowerPointの発表をめぐり、企業の中でいろんなことがあった時代が非常に懐かしいです。
 2000年代、当時DXはおろか、いわゆるIT化の遅れていた企業内で、同業他社やベンダー、流通取引先にしっかり提案できるように、PowerPointに関しては常に先駆を目指し、全国一の評価を貰ったこともありました。
 スキルを磨くだけでなく。実際に営業できないとなどと、すぐに成果に結びつかないと、外に出てナンボやのにとごちゃごちゃという昭和の営業を引きずっている人も多い時代でした。
 御用聞き営業でずっと来ていた時代なので、相手もビジネスマンでネットで公開され、メールで事足りる内容にいちいち足を運んで対面するには、それ以上の中身が必要なのだということを常に追い求めないと、時間は過ぎていくことを、当時のライバルや取引先とともに学びながら、社内にもやがて広がっていきました。
 今はWi-Fi環境も広がり、全てがオンラインで最新の情報も入り、ヒントさえ入力すれば、AIが最適に近いものをいくつか候補を上げてくれるという、昔なら考えられないぐらいの進化です。
 人生にIFはないですし、時間は巻き戻せない。それこそドラマや創作で今流行りのタイムリープもできませんが、もう20歳若かったら、この最新版を使ってビジネスの第1線に立っていたいと思いますし、そんな自分をまた20年後に振り返りたいものです。