森会長に対する集団攻撃は五輪理念に反する

民主主義はマスコミやSNSの扇動で実に安易に「大衆主義」に陥り「魔女狩り」「集団リンチ」に向かいます。
森喜朗の失言を言葉として見れば誰だって女性蔑視だということは分かります。
個人的に83歳の彼を支持してきたわけでも適任とも思っていません。しかし彼はそれを撤回し一応謝罪はしています。女性蔑視を信条として主義主張としているわけではありません。
五輪組織委として老骨にムチ打ち、IOCや政界、行政、スポンサー企業、都、アスリートや団体、マスコミその他調整に明け暮れた功労に対して、世話になった方もいれば冷静に見て今この状況で適任がいないというのも一つの意見でした。
それがこの状況下、多少なりとも中立な意見を述べても大変な非難を浴びる次第です。
大衆となった人々の正義が、コロナ禍のストレス発散とばかりに、少数派を封殺し、弾圧し、言論リンチにかけてしまいます。
民主主義の起こりであったフランス革命にもこういった殺戮がありました。
えらそうに思える権力者を追放しろ、火あぶりにしろという大衆の欲望が噴出した時は、一度落ち着いて深呼吸をして便乗してはいけないのです。
83歳の森さんにも、生き様があり心情があり、家族眷属もあります。
フランス革命の暴力から時を経て「アラブの春」と呼ばれた中東のSNSによる民主化運動でも、一見正義に見えたSNSの大衆の力が独裁者を倒せば、混沌がやって来て、IS(イスラム国)が誕生し結局ますます暴力と混沌が生まれました。純粋な正義は結局、混沌(カオス)しかもたらさないのです。
コロナ禍の暗いニュース一辺倒に、森さん批判は格好のストレス発散かもしれません。しかしミクロ的な現象としても、結果的にSNSの暴力を助長して次のイジメのような現象が必ず現れます。
五輪憲章の世界の人々が平和に手をつなぐ精神とは、大衆の心がどんどん離れていくことに気付いていただきたいです。

それでも五輪の開催は冷静に検討するべし

それともう一点、この勢いで五輪を中止した方がいいという考えの方ももう一度冷静になってください。
オリンピックは確かに進退相難でやるもやめるも大きなデメリットがあります。どちらにもリスクは多く、多数の観客を期待する等理想的大会の可能性はないです。
それでもハードルは高くとも観客を制限しても7月なら開催は可能だとも思えます。現在サッカークラブW杯、スキージャンプ、全豪テニス、南半球や世界でも国内でもスポーツ大会は開催しています。
開催できなかった時は結局国家、国民に財政として大きな負担がのしかかります。ただでさえコロナのワクチンや医療体制で今後ますます増税医療負担は必至です。その上に五輪キャンセルでの日本国や日本主要企業は信用低下、保険負担等を強いられ格付けは下がり、円も日本株も大きく下がります。困るのはアスリートや政界、富裕層だけではなく日本全体が東京五輪のステークホルダーなのです。
そこも今一度冷静に考えるべきところです。

同窓生でも大きな格差?

かつて同じ学び舎で、勉強や遊び、いろんな時間を共にした学友も40年以上たち還暦を迎えました。
出世したものは一部上場企業の社長、医者や歯医者で高等市民クラスもおれば、早々にリタイアして年金暮らしや年金待ちで非課税所得の方もいます。
アーティスト系の自由業の方もいますし、京都の老舗を引き継いで門外不出とういか旅くらいはして貼るけど住所は京都市内を一歩も出ずの生涯の方も結構おられます。
とくに部活で一緒にグランドで汗流した中学の頃からの仲間でも、いろいろ数奇な運命をたどっています。
ずっと京都で何代目かの老舗を継ぎ、小学校時代神童と言われ中学校高校と口も達者で元気に遊びまわっていたA君、昔話には花が咲くが、今は少ししんどく他の仲間が羨ましいような様子にも見えました。
高校時代運転免許証を取った時、物凄い事実を知りそのショック、逆境を乗り越えて、勉強を重ね人一倍努力して、大立者になったB君。名士となり誰も羨む出世頭となりました。
人間の運命はわかりません。今60歳を過ぎ、あがりのような悠々自適が良いのか、まだあくせく働く機会があるのが良いのかも、どちらが幸せなのかもわかりません。
何かで分岐があったのでしょう。その分岐点は今も人生のどこかで続いています。

ダメおやじの万年係長

大阪の新入社員時代に結構今ならパワハラを見ました。そういう面では大卒の新人で可愛がってもらったのか。そこまでイジメられることはなかったのでしょうが、先輩がボロクソにやられてるのを見るとプレッシャーがかかったものです。
やはり販売会社、売上数字が中心なのと,その中身が押し込みでなく販促にみあったものでかも、よく見られました。
Tさん、土田さんは小柄で、本当にまんがのダメおやじそっくりでした。係長から平に降格されて転勤されました。給与体系からいっても厳罰の処置でした。
卑屈で見かけも悪い人で、お世辞にもセンスがいいとも言えないタイプですが。そこまで悪い人とも思っていませんでしたが、何だかそこまで悪い人だったのかと驚きました。
次にお会いした数年後、平から主任には戻られましたが、やはりその人格には残念な面は大いにありました。
正月の高校サッカーに息子が出ると親ばかな面も持たれ、私と食堂で弁当等を食べる時、ほとんど残さず一気にキレイに食べるのを見て感心されてました。自分は好き嫌いするから大きくなれなかったと嘆いてました。
最後は倉庫番の係長で、寂しい会社人生を終えられました。もちろん見た目だけですけど、なんだか今の化粧品会社ではあり得ないような昭和の営業マンでした。
もちろん私もその後ベテランになり、おっさんになりリストラ候補みたに厳しく言われて、後輩から情けなく見られてたこともあったでしょう。そんな面ではよく土田さん最後まで耐えられたなあと思います。

人が変わった再会:鈴木義明(仮名)さん

出会った人の思い出1

いろんな人と社会人になって出会いましたが、最初の3年間大阪の南の方の支店(当時販売会社)の人たちは今でもよく覚えています。その中でも転勤等で複数回あった人は印象も深いのと、縁を感じます。
Sさん(仮に鈴木さんとしておきましょう)は年(学年、入社年次)は2つ上で背の高い好青年でした。先輩社員として養成担当だったI川さんの後任として、当時は3年目で必ず転勤があるローテーションで来られました。私がいた第一南というところは全国でも大変厳しく、細かいところで鬼のトップと課長のいるので有名でした。最初の母点がユルイところで、最初の転勤が厳しいところというのは難しいパターンです。恩着せがましく偉そうに私に先輩ずらしたI川さんに比べ、鈴木さんは社内のモノの置き場、人間関係や地域の実情等は私に聞いてくる丁寧で朴訥な人でした。
丁度1年後輩にも私と同姓がいたので「智史」と名前で呼んでくれていました。
本人もタフだったのでやがて厳しい状況にも慣れて、後輩の私を一目置きながらも面倒見る感じでした。二人で新規開拓に山の奥まで行き脱輪して難儀した思い出もあります。
私が3年目で転勤する前の慰安旅行等で、女性関係でいじられるところを庇ってくれたことを覚えています。
その鈴木さんと20代だった頃から30年ほど経って再会した時、彼は豹変していました。立場、役職はずっと上の流通部長でしたが、その評判はパワハラ、セクハラ、ヤクザまがいの恫喝する噂でした。実際の顔も凶悪な人相で、恰幅もよくなってましたが、どこか疲れた感じで、訓示も暗い話が多かったようです。
「智史」と呼ぶのは変わらず、「智史変わらんなあお前だけは」お前にまた会ったのは、若手の頃思い出して一生懸命やれていうことやろかなという話もしていました。
しかし、大阪での彼の評判は悪いまま売上全体も上がらず、まもなく降格ではないものの長野への異動で短い再会は終わりました。
まもなく鈴木さんの定年退職の告示だけ見てもう会うこともないと思っていました。
ところがある日、私も京都から姫路へ毎日新幹線で通う日々に、一度新大阪駅のホームで鈴木さんにバッタリ会いました。「新幹線通勤」というと、「俺は今から一から研修やのに、何でこんな立場かわったんや。でも智史は変わっとらんなあ」
「まあ、智史、がんばれ」「はいお疲れ様です」
少し、寂しげな背中。さすがにもう会うことはないと思いました。
彼の顔をあれだけ変えた30年も会社生活。当時生き残り、出世するのに大変なく売ろうのあった会社です。変わらなかった私、どちらが良かったのかは聞きもしないし、分かりません。

政治家の許されない嘘、放言

人間は一日に社会や家庭で、誰でもついつい何回もウソをついているそうです。
その場で思わず誤魔化してしまう場合や、追い込まれて仕方なく言い逃れした場合。予想に反して事態が変わってしまって結果としてウソになってしまう場合等、さまざまな場合があります。
政治家はいまや詐欺師に並ぶくらいウソや放言を放って、毎日その謝罪や撤回がニュースになっています。
一国の総理大臣でさえが、成り行きか、結果的かは別として明らかにウソをついて、証人喚問や裁判なら偽証にあたります。
私は個人的にはもう記憶力も弱まっており。元々販売会社でも追い込まれると実現不可能でもその場しのぎの嘘をつきまくったもので弱い人間のウソは否定しません。
しかし国会議員やそのトップの閣僚や、総理大臣は権力をもっています。いくらマスコミや野党等に追及されても堂々と真実をその背景とともに語らないと、上に立つ者ではありません。
立場と状況でついていいウソとダメなウソがあるのです。
そしてダメなウソをついたら誠意をもって謝罪する。それもウソかどうか見る人は見ています。

節分2月2日

2月2日が節分。3日が2021年は立春ですね。
二十四節気、立春、季節の上では春がスタートします。まだまだ2月は時に南の方でも雪になる日も多いですが、日の入りが少し遅くなり日が長くなったのを夕方に実感します。
梅が咲き始め、スギ花粉もそろそろです。
今年はコロナ禍、なかなか外出もままならず季節感が味わいつらいですが、スーパーにも豆が並び、しっかりイワシも恵方巻も食べて、コロナという鬼を追い払って欲しいです。

屏風は広げすぎると倒れる

コロナ禍時短要請等で飲食業を中心に事業が大変な危機に見舞われています。
自分の住む京都でも、多くの老舗の旅館、料理屋やそこに関わる業者等も立ち行きが難しいという話を耳にします。
ただコロナ前のインバウンド全盛で事業を拡大しすぎた反動というケースもあります。どんどん物見遊山の人が集まり、伝統的に見えるものなら味や質にかかわらず商売ができ稼げて手広くやっていた場合一気にバブルははじけます。
表題の「屏風は広げすぎると倒れる」は頭に料理屋とつけて、いくつかの飲食業が社訓にしたり、その他多くの事業の経営者も家訓や、社訓にされています。
事業拡大とは相反するようで、やはり身の丈を知るということなのでしょう。
温泉旅館だと「湯量以上に宿が大きくなってはいけない」というのもあるようです。ブランドや名前が大きくなると質が伴わないということでしょう。本質を忘れてしまうということでしょう。
サービスや社訓を社員に徹底し組織を大きくすることはある程度できます。しかしお客さんが見えなくなれば、やはりおしまいです。今は苦しい時ですが、相手を思いやった商売で顧客を掴んでいることと、そのポリシーを継続することが耐え忍べるかではないでしょうか、

コロナ禍で見て欲しい大きな数字

問題です。日本で毎月亡くなる高齢者の人数は?

コロナ禍で毎日毎日報道され、変動する感染者や死者、陽性率、病床使用率等細かい数字が出ますが、その分母やら枠組となる大きな数字がまず一般には頭に入っているでしょうか。これではその数字が多いのか危険なのかは判断はできないです。
日本の人口は?これは1億ちょっとと大抵わかりますね。1億2600万で、10年くらい前から少子高齢で減っています。
成人の日が先月あって120万人くらいが20歳になったということは、覚えておられるかたはいるでしょうか。出生はこの20年でも減り昨年は84万人だそうです。
人口が減っているということは死亡する人数はこれよりも多いということです。
死亡者数はここ数年135万を超えたあたりで、毎月にすると11万人弱、そのほぼ9割以上が高齢者ということで、正解は10万人。毎月10万人の高齢者が亡くなっています。
コロナでのここ1年での関連死も含め亡くなったかたは5700人ほど、ここ2か月くらいは確かに増えていますが2千人前後です。
コロナで亡くなられた方の平均年齢は80歳強で、ほぼ日本人の平均寿命です。
この大きな数値を、毎日の死者と比べどう感じるかはそれぞれの感性でご自由です。
ただコロナで亡くなっているのはほぼ95%が高齢者であり、高齢者はコロナが無くとも毎月10万人亡くなっています。
イギリスでコロナの死者累計が10万人を超えた、人口比でいうと日本の3分の2程度ですからこれは事実なら多いと思います。逆に言うと日本はコロナ死者が大騒ぎするほどの危機には見えないと言われます。確かに医療現場の一部は大変です。しかし、一般の医療が制限され崩壊するほどにはなっていません。数字から見た日本の全体構成比をみればそれはわかります。
ワクチン接種のスキームで、65歳以上3600万人に医療従事者などの次の最優先、60歳以上820万人に次の順位でそれぞれ2回、3か月以内で打っていくスケジュールです。
ワクチンを冷凍輸送、保存して大人数に打つのは大変ですし、国際間の格差や、遅延の可能性も指摘されています。
ただワクチンを打とうが、打てまいが毎月10万人の高齢者は亡くなっていかれます。
コロナに限らず、自然死、病死、尊厳死、自殺、事故死すべて高齢比率は高いのです。人間はいつか使命を終え死ぬのです。いかに命尽きるまで、生を全うするかでしょう。
日々の煽情的な数字の大枠になる『大きな数字』を見ると何となく見えてくるものがあると思います。

世界中が笑顔になれる日が来るのか

オリンピックが平和の祭典なのですが、それは遠い昔のようです。
いつか政治に利用され始め国威掲揚と商業利権にまみれて、世界の人が集うことの意義は失われかけていました。
そんな中、コロナ禍オリンピック開催に対してまた政治も絡んで、やるやらないの論争もまた敵対的なものになっています。
がんばってきたアスリートのためできることならですが、今の世界の逼迫した状況、そして日本もまた余裕はありません。
ただ世界のアスリートが集い、競い、笑い合える日々が早く来てほしいと願うだけです。

『ケチ』『いちゃもん』をつけられたと思わない

首相や官房長官、与党大物政治家等が野党や記者に突っ込まれうと、それをかばう側は「ケチをつけるな」「いちゃもんつけやがって」的な上から怒りの態度になるときがあります。
最近の政府与党もそういう発言がありました。どうしようもない時、一所懸命やっている時、誰が変わってもそう変わらないような時、どうしてもケチつけてないで協力して、前向きにと思う気持ちも分かります。
私もプレゼンをさんざんやっていた時思いましたし、逆に質問や指導する時もありました。そういう時やはり、細かいこと聞いてケチつけて恥かかそうとかやっかんでるとか被害妄想になる人がいます。
かつての同僚、後輩なのですが、すぐにむくれる人がいました。体育会系で、それなりプレゼンを学んだんですがやはり気が短く、高圧的で調子のいい時もありましたが」、淘汰されてしましました。
もちろん、根も葉もない中傷や批判には毅然と否定、時にはスルーしないと、実際に組織の攪乱やら時間の浪費になる場合もあり、そこらの知識と判断力、表現力は求められます。しかしあくまで他人の意見を聞き入れるスタンスがないと、誰からも支持はされないでしょうし、良い情報は集まりません。
やはり人からの指摘や質問には丁寧に対応して、教えてくれてありがとうのスタンスでこそ天使が舞い降りるのです。