ヰタ・セクスアリス4 特撮ヒロインやアイドルに憧れた少年時代

 まあだらだらと4日も続きましたが、今日は昨日のたわわ以上に炎上しそうな最近の画像でサムネ攻めます。
 性とか恋愛とかはやはりね、人それぞれ秘めたもの、歪んだような個人差があります。
 教科書やバイブルもちゃんとしたアンチョコもないのが、性の難しいところ。それを時代が妙にギスギスしたものに押し込めて。変におかしいものになっています。
 なかなか、恋愛って好きな人には伝わらず、うまくいかないものです。
アイドルや、特撮ヒロインにその欲望の代替をお願いして、自慰行為にふけったりという恥ずかしさ、後ろめたさみたいなものがありました。当時は今のようなネットでの同胞のつながりもなく、みんな同じような輩やもっと徹底したつわものもいて、世の中同じようなもんじゃんと思えたのは随分年取ってからです。
 コイバナに関しては以前もこのカテゴリで書いていますので、比較的いいとこまでつき合えたけど、結婚に足らなかった話は多少美化しながらありました。
 しかし、その以外の期間は、まあホンマに厭らしく言えば、恋愛したいけど相手いない寂しい期間の長きにわたる暗黒時代です。そのうっぷんを仕事にぶつけるわけでもなく、大金を出してプロと遊ぶでもなしでしたから、犯罪に行かずによかったとも思います。まあ、ミステリとkいろいろの読書、鉄道趣味、旅行趣味などが意外と発散していたのでしょうか。
 
 ただ個人的には、飽きっぽいところがありますので、いくつか失敗ばかり経験して焦りもありましたが、三十代半ばでようやく結婚出来たタイミングはまあ別に良かったかなと思っています。友達の中には独身をとおした人もいれば、すごく、すんなり初恋のような高校時代のつき合いから、判で押したような美男美女が恋愛成就して結婚して子供もでき長~く同じ屋根に暮らしているひともおられます。結婚生活の心得みたいなのがしっかりしているのでしょうか、適度に不倫とか遊びも恋があったのかはわかりません。倫理に反しな息抜きがあるとは思います。

 政治とか、大学、会社の中とかいろんなルールを厳しくするのか、自由、自治、自主がいいのかは、難しい議論です。議論するK都ができるのが、自由の証なのでしょうが。国だとか組織の名誉とか威厳とかのために、厳しくしたところで抜け穴はできるでしょうし、本当に抜け穴も何の隙も無いルールなら行きが詰まりそうで、私ならそんな学校、会社、国にはいたくありません。そして今さら厳しいルールを設けても、組織の過去の緩みや罪(があったとして)消えるわけでもないでしょう。世の中の裏側上の方に、いっぱい枕営業みたいな闇もあって、それでお互いも訴訟もなく連帯責任もなく成り立っているのに、キレイごとだけがまかり通るのは何だかと思います。

ヰタ・セクスアリス3「月曜日のたわわ問題」 表現を不自由にする

「月曜日のたわわ」という「月曜日が憂鬱な社会人に向け、豊満な体型をした女子を中心に描かれるショート作品」が日経新聞に全面広告を出して、炎上してしまうというのが、少し前にありました。
 以下、たとえばジェンダー問題に詳しい識者などが、問題点を3つほどの主張をされています。内容をまとめると下記のようなものです。

 「見たくない表現」(たぶん痴漢を恐れて憂鬱な女子高生、OLなどにか)に日経新聞の朝刊で出合ってしまった読者が、購読の解約を表明する動きも出ているとのことです。「広告によって与えられた媒体のイメージはすぐには払拭できません。どのような広告を載せるかは、メディアにとってのリスクにもつながります」「異性愛者の男性が未成年の少女を性的な対象として搾取する」という「ステレオタイプ」(世間的固定概念)を肯定し、新聞社が「社会的なお墨付きを与えた」

「広告は女子高生のイラストをあえて用いることで、作品が発信しているメッセージを確信犯的に、大々的に伝えています。作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのものを日経新聞が肯定する構図です」

「メディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプを撤廃するための世界的な取り組み」を国際機関とともに展開してきた日経新聞が、自ら「ジェンダーのステレオタイプを強化する」という矛盾に陥ってしまったことだ。

日経新聞はUN Women 日本事務所と連携し、ジェンダー平等に貢献する広告を表彰する「日経ウーマンエンパワーメント広告賞」を主催するなど、広告のジェンダー平等化を推進する立場に立ってきた。同賞では、「3つのP」という審査項目を掲げている。

Presence 多様な人々が含まれているか

Perspective 男性と女性の視点を平等に取り上げているか

Personality 人格や主体性がある存在として描かれているか

この基準に照らすと、今回の全面広告は、『未成年の女性の肉体に欲望を抱く男性の視点』のみに偏っており、見られ、触られる側に立つ女子高生の『人格や主体性』は考慮されていません」と指摘

これまで大手メディアとしてジェンダーのステレオタイプを克服するために取り組んできたことは、全て偽善だったのでしょうか」「今年の新入社員が最初に迎える月曜日」に、「豊満な体型」の女子高生を通勤中に眺めて「元気になってもらう」。こうしたステレオタイプを強化する全面広告が注目を浴びる一方で、女子高生らは痴漢の増える不安な時期を迎えている。一般社団法人痴漢抑止活動センター(大阪市)は「4月は、電車通学に慣れていない新入生を狙う痴漢が増えます」とTwitter上で警告
 などというまあ随分強引な結論づけをして厳しい対応や忖度して自粛を迫るようなこと言う人達の非難が集中したわけです。

 マンガそのものは書くのは自由なのでしょうが、日経新聞の一面広告がダメということなのでしょうか。
 最近は、水着とか露出はなくとも、〇〇を連想させると言われている姿勢やポーズとかで噛みつく人もいます。実際たわわとされる胸が正面から書いているわけでもなく、単にキャラクターが月曜日に憂鬱なサラリーマンを愛らしく微笑んで激励している以上に見ることはないと思うのですが、どう感じとるかは自由なので否定はしきれません。しかし、新聞を広げなくとも多くのエッチな水着写真はもちろん、ヌード写真やAV動画、昔のポルノ映画だってそれこそ「痴漢電車どうのこうの」なんてのもスマホやタブレットで見て女高生に欲情を抱いている人も大勢いるかもしれません。
 日経新聞というところがいくらこういう取り組みをしていようが、権威か厳粛なところなのか、別にこの程度のことが問題になるのは正直、どうでもいいというのか、騒ぐ気持ちがわかりません。
 憂鬱な月曜日の朝、踏切の人身事故いわゆる飛び込み自殺も多い中、このマンガに癒されていた方もおられるのですが、確かにこういう容姿、スタイルを見るのが不快と言われれば何とも難しいところです。裸、水着とかレオタードでもダメ、やがてイスラム教のラマダン時期みたいに禁欲になっていく方向がジェンダーなのでしょうか。

 まだつづくかな

ヰタ・セクスアリス2    誰もが童貞を捨てるのに焦り、青春の門の前でもじもじした

 東京の方の大学の方の本が続いてしまいますが、齢63になる私たちの世代の学生時代に人気があった小説で,映画化もされた作品に五木寛之さんの「青春の門」というのがありました。現在も進行中の大河小説で長く書き続けられ、私も含め全巻を読んでいる人は多くないでしょうが、筑豊編に始まる初期の話は、何度も映画やドラマになり、その概要を知る人は多いでしょう。
 時代なので、赤線、売春も出ますが、「誰もが1度は通りすぎる、そしてただ1度しか通ることの許されない青春の門」というのはいつの時代も変わらない気がします。
 男性目線と言われるかもしれませんが、男と女は表裏一体のものです。
 現代は、いろいろなモノや情報が私たちの若い頃よりも早く簡単に手に入る時代です。その反面昨日も書いたように、妙にお堅いこと、厳しい規律を掲げる窮屈な時代でもあるような気がします。
 昔はエロい写真や雑誌などがビニールをかぶって売られ入手するのが難しかったような時代でもありました。今はネットを探って、ポチればとんでもないほどいやらしい動画が入手できるような感じです。テレビなどの上っ面では裸や厭らしい言葉がなくなったのに、手に入れようとすればすぐわいせつなものが入手できる。
 ところが、昔の言葉で耳年増というのか、変な情報はあっても、いざ現実に異性と対話して体験、経験していくのとはわけが違うのです。
 かくいう私もそうでしたが、童貞をなくすのに結構な時間と苦労がありました。それはモテる、モテないとか、人間的にいい悪い、仕事や勉強ができるできないとは全然違う話です。若い男性も女性も性や恋に悩む年代であり、それを男性にとってはプロの女性が指南して経験を積ませたからうまく流れたとも言えます。そういう女性がいたことを表に出すのは、女性差別だと言われる向きもありますが。そういったプロと経験した男性が上手く素人、初めての女性を相手にして上手くコトが流れるのに寄与したというのはあると思います。
 ちなみに私の場合は、いわゆる性風俗に行ったことはあり、そこが初めての経験かもしれませんが、とても年齢のいった女性で全然まともな経験ではありませんでした。ですので趣旨とは違いまがプロは嫌いです。

 学生時代の体育会系や、劇団のグループの友人などの話によると、そういうプロで経験した者と、もちろん本物の恋人とに分かれるのと、あと中間ではないですが、けっこう誰とでも付き合ってくれる「サセコ」という感じの女性がいたのです。もちろん、誰彼と見境ないなくというのではなく、そこそこのつき合いで、短いインターバルですぐカラダの関係にいたってあと腐れがなく、別の人ともすぐつき合い、また付き合ってくれるみたいな感じだ、というお話です。
 基準がユルイといって、全てのモテない童貞やブサ男まで相手にしてくれるかというと、そこが難しいところです。ただイケメンの口利きとか、お金をかけた設定で一度だけならとかが何とかなるハードルのようです。

 集団での半強制性交というのが母校のアメフト部で、強姦犯罪のようにやり玉に挙がっています。どうもいろいろ確認にていると、報道がイメージづけているような、それほど凶悪な企図のある集団での常習的性犯罪者ではなく、情けない要領の悪い、ドジな童貞君たちのようです。
 1対2とか4ってプレイもありますが、基本的に同性と一緒になど恥かしいですし、それほど面白いものではないそうです。一人ずつ順番でも後でする方は、何となく不潔感を覚えますし、キレイに洗ったとしてその間が空きますし、私ならイヤです。これをいいと思う友達はほぼいなかったですね。鬼畜集団レイプなどというのはAVやエロビデオのウリです。

 まあ、愛のあるセックスとは基本1対1のパーソナルなものだと思います。報道で明らかになった1時間に4人かわるがわるというのは、その前の4時間以上お酒を呑んでというのから考えると「たった1時間、早ーっ」ではないでしょうか、本人たちにとっては一人がリードした、童貞喪失体験会みたいなものではなかったのかなと思います。相手が精神的肉体的に損害や被害を蒙ったと思い、不快に思う気持ちで訴えるといわれればそれまでなので、男性たちに非はもちろん全面的にあります。男性は女性を不快にしてはいけませんし、それで訴えられるのは本当にへたくそ、情けないドジ野郎であり、周りが深く反省して組織に自粛などがあれば、本当の迷惑野郎です。しかし、まあ本人たちはたった1時間、一人15分ほどのため、就職内定取り消しで、暴露雑誌に顔をさらされ、一生を棒に振りかねないとしたら、親御さんも含めてまあ忸怩たるものというか、それこそメンタルケアが必要な危険なレベルです。
 厳しすぎる青春の門みたいな話ですが、そういう何ともいえない理不尽なタイミングというのもありなのでしょう。

  また少し話がそれて「月曜日のたわわ」の話は明日へ(つづく)

 

ヰタ・セクスアリス  最近まじめすぎる禁欲主義のような人が増えた?

 性の問題、その情報というものはセンシティブで、書き込むのも作品化するとか報道するときも非常に難しい面があります。
 何だか最近は、自分は性欲も我慢したひどく高潔な、石部金吉みたいなことをレスする向きが多いようです。一つの性的な表現事象や性犯罪の事件をとらえ、著しく厳しい発言や妥協を許さない非難をし、擁護する者も攻撃する。「時代遅れ」とか我々の時代にはあり得なかったとか、歴史初めての暴挙のような表現までされます。性風俗の歴史などを考えれば、現在に近いモラルやらができたのはごくごく最近であり、愛人や不倫に罰則はなく、昔はもうやりたい放題のようなところがありました。
 ですから、男はオオカミに変わるからとか、夜道は女子供一人で歩くなというような戒めがあったわけです。
 逆にいうと、若い男の性欲、女の性欲など今も昔も量など変わりあるとは思えません。悪質な性犯罪は統計的には減っており、ある程度治安のよいいい時代になっています。ただいろんな人権が確立したり、不快を感じる微妙な心理までもセクハラという罪に問われるようになると、大きなメディアに出る表現や、有名な企業や大学などでは罪のハードルは低くなり摘発されやすくなっている気がします。表現は昔と比べ、ものすごく不自由になっているところに、ますます雁字搦めの不自由を叫ぶような人がいます。
 鴎外のヰタセクスアリスではないですが、私らも若い頃、間違いなく今なら捕まりそうなエッチなことはやってきました。それは友達や同僚も同じレベルでした。今も昔も、英雄色を好むでも、偉くなってるやつはもっと豪快な遊びや犯罪まがい(今なら犯罪)をやって逃れてのし上がっていました。

 レイプ、強制性交などの性犯罪を許すとか擁護するわけではないですが、そういう人が特殊な異常犯罪者かというと、そういうわけではなく、誰もがもっている性衝動ではないかと思います。そして、それがいい悪いに関わらず、我慢しきれない状況が偶発する場合もあるし、衝動を抑えきる理性がやや弱い人もいるということです。
 犯罪として、表に出るのは氷山の一角であり、和解や泣き寝入りの数も多いでしょう。性衝動を抑えきれない危ない人間というのは、ある一定の割合で、学業や仕事が優秀な人間の中にも潜伏しており、試験などで振り分けることなどまず不可能です。

 私の元同僚というか、部下、後輩にあたるYという男も国立大を出た優秀な男でしたが、新婚なのにとにかく女癖が悪いというか、遊びも不倫も強引な性交も何でもありのタイプでした。同年配のFという対照的なコツコツ真面目に積み上げるタイプの男がいたのですが、一般的な評価はもちろん、目立つのも上司に可愛がられ、女性陣からモテるのもなぜかYでした。
   

 個人的なこと書いてたら「月曜日のたわわ」問題まで行かんかったので明日へ(続く)

夏の暑さが終わる         少しだけアンニュイ

 暑い時は暑いことに文句を言って、ヒーヒー言ってたのですが、いざ涼しくなって長い夏の暑さが陰り出し、朝晩が涼しくなりだすと、ちょっと寂しくなります。
 子供の頃の長い夏休みが終わる寂しさのトラウマなのでしょうか。京都では地蔵盆あたりからが夏休みの終盤です。当時の記録だと50年前は毎日猛暑日、真夏などにはならず、京都で30度を超えない日も多かったようです。
 まあ最近の夏は前後からとんでもなく暑いです。7月の初め梅雨が明けた頃、本当にギラギラだった太陽が、9月にもなると真昼はまだ暑いですが夕方は早く日が沈むようになり、何だか夕陽が寂しげです。

 小さい頃、もう亡くなった父親に夏休みの終わり間際にクルマでどこかへ連れてもらい、沈みそうな夕陽を見て帰る道はなんとなく寂しかったのを未だによく覚えています。イチジクを頬張って美味しかったのも思い出です。

 今年は、社会人になって以降初めて、入院をして6月の後半からずっと療養の欠勤、その後も1週間の出勤を挟んでコロナ陽性で欠勤、都合1カ月半という長い学生のような夏休みでした。もちろん子供の夏休みのように、海や山に出かけることもできない悶々としたものでしたが、本やネット、テレビなど今思うと時間の贅沢の限りでした。窓際の部屋で、夏空や京都の瓦屋根、夏の青空と入道雲、夕立も毎日見られました。個室ではなく4人部屋で苦労もしましたが、窓の外が望めるのは良かったです。

 ゆっくり昔を振り返ったわけでもなく、ごく断片的に子供の頃、学生の頃、若手社会人だった頃、新婚の頃、子育ての時期、熟年となっていく時期、いつも夏の終わりはこんなアンニュイを味わっていたのです。

 少しだけ感傷的になり、また何事もなかったように、動きやすい心地よい秋の季節を頑張り、楽しむのですが、やはり夏の終わりの夕陽はアンニュイです。

コロナがもたらしたマイファミリー

 私事で恐縮です、私の家の2022年現在の家族構成は、私と妻、長女、長男の4人です。子供二人は大学卒業就職していますが、自宅から通っていますので弟が生まれてから25年ほどずっとこの構成は変わりません。

 長女が部活やバイトに明け暮れ出し、旅行会社に勤めてからは平日は深夜まで働き、土日の休みはあまりないところです。。私も定年前は仕事や通勤で帰りも遅く、定年後は私は早く帰っても長男が働きだし、これまたブラックまがいに残業が多く、家族そろって夕食というのは年始にあるぐらいで、年に数えるほど奇跡的なタイミングしか4人が揃っての食事はありませんでした。夜遅くなると4人とも揃ってはいるのですが、集まるわけでもなく、風呂や家事、、スマホ、寝床となてしまう時間でした。

 今般、8月7日に長男が高熱を出しコロナ発症、陽性と判定され当然家族全員が濃厚接触者になり、9日には中心的に看病していた長女が発熱やはり発症で、私のマンションは野戦病院となりました。

 長男は元々腎臓の難病を抱える基礎疾患者であり、私も3週間あまりの入院からやっと自宅療養に切り替わったばかりの肺膿腫、呼吸器系の疾患なので、緊張が走りました。

 幸い二人とも熱は何日かつづき、脱水手前まで行きましたが、軽症の範囲なので漸次回復に向かいました。私と妻もそれほど隔離された状況までは作れなかったですが、換気と消毒、手洗い、うがいなどだけで、何とか罹患することなく一番危険な時期は逃れました。2日連続の抗体検査陰性で昨日から私は職場復帰しました。

 思うにコロナはインフル並みとか風邪と同じというと大論争になっていますが、何より厄介なのは病気そのものより、医者に行って迅速に診察や処方がされずに自宅療養を強いられ、周りもまともに守れば物凄い制限をかけられることです。後は、大きな咳やくしゃみの極端な飛沫感染だけ防げば、換気などの対策しかないので、空気感染で体力が落ちたりしてうつるときはうつるので仕方ないと思うしかないと思います。

 お盆のこの土日と15日はそろそろ寝込んでいた2人も食欲が戻り、期せずして毎日、家族そろって家での食事になります。

 娘も「彼が家に来て挨拶したいと言っている」とチラリと、コロナ前に爆弾発言をしていましたから、この家族構成での日常的な食事はこれが最後かなあとも思われますが、そんな感慨もなくガチャガチャとしながらの毎日です。

祭りやイベントの復活

 コロナ禍でここ2年休止や、無観客、規模縮小になっていたお祭り、伝統行事などが今年はだいぶ従来通りに戻って行われるようです。

 あまりにも人が集中するもの、花火大会や屋台などは従来のような人手集中は避けないといけないでしょう。

 私の住む京都も特に祇園祭、五山送り火はじめ継承されてきている行事は多く、関係者のご苦労を労います。支えるため待っていた町衆の気持ちも最高に高揚するでしょう。そのワクワクした喜びの顔は、想像するだけでコロナの苦難が吹き飛びそうです。

 いろんな町で、今年は祭り、イベントが再開されたりして盛り上がっていくのでしょうか。

 ただ、この2.3年の間にも高齢化、過疎化人口減が進み、前の賑わいか戻らないところもあるかもしれません。京都など知名度があり大規模なところはそれなりの大変さはあるもののファンドなどもいざとなれば集まりやすいでしょう。限界集落とはいかなくとも、宮司や住職、祭りの担い手がどんどんいなくなり、資金もないところも増えていると思われます。夜店の屋台で、怪しげなゲームや買い食いした思い出を作れない地域があるなら寂しいことです。

 それぞれの町の行事が減り、イベントも派手な大都市に集まる傾向が強まるのかと思うと、それも何だか切ないようにも思われます。

 

祭りやイベントの復活

 コロナ禍でここ2年休止や、無観客、規模縮小になっていたお祭り、伝統行事などが今年はだいぶ従来通りに戻って行われるようです。

 あまりにも人が集中するもの、花火大会や屋台などは従来のような人手集中は避けないといけないでしょう。

 私の住む京都も特に祇園祭、五山送り火はじめ継承されてきている行事は多く、関係者のご苦労を労います。支えるため待っていた町衆の気持ちも最高に高揚するでしょう。そのワクワクした喜びの顔は、想像するだけでコロナの苦難が吹き飛びそうです。

 いろんな町で、今年は祭り、イベントが再開されたりして盛り上がっていくのでしょうか。

 ただ、この2.3年の間にも高齢化、過疎化人口減が進み、前の賑わいか戻らないところもあるかもしれません。京都など知名度があり大規模なところはそれなりの大変さはあるもののファンドなどもいざとなれば集まりやすいでしょう。限界集落とはいかなくとも、宮司や住職、祭りの担い手がどんどんいなくなり、資金もないところも増えていると思われます。夜店の屋台で、怪しげなゲームや買い食いした思い出を作れない地域があるなら寂しいことです。

 それぞれの町の行事が減り、イベントも派手な大都市に集まる傾向が強まるのかと思うと、それも何だか切ないようにも思われます。

 

昭和の日

 昭和の時代は1926年から1989年まで63年あまり続きました。今の日本の人口構成でこの間に生まれた人はまだ7割以上を占めています。戦前となると77歳以上の後期高齢者となり、戦後すぐの第一次ベビーブームの人でさえもう高齢者となっています。一番若い昭和生まれが33歳なのですから、時の移ろいとともに日本の人口を占める高齢の割合に改めて愕然とします。
 第一次ベビーブームから最大の第二次ブーム、団塊の世代を経て、出生はその後激減します。昭和の終わりの手前までは正三角形に近かった人口ピラミッドは、縦長で上の方に太いいびつなバランスの悪い形になります。

 日本では戦争は遠いもの、語り継がれる昔になってしまいました。戦後生まれの私でさえ、直接の体験はなく60歳を過ぎているのですから、その下さらにその下の世代にとっては伝言の伝言です。もはや正確というよりは画一的なもの、恣意的だったり情緒的なものに左右されやすい話になっています。

 間違いなく戦中、戦後すぐの日本は最も不衛生で貧しく食べ物にも困っていた時代でした。そのなかで何とか高度経済成長を成し遂げて平成、令和へ今の飽食とまで言われる豊かな時代がきました。
 戦争の時代に生まれ兵隊として戦地で帰らぬ人となった人や空襲で亡くなった人たちがたくさんいて、身体にも心にも傷を負いながら残された人たちはその分を生き抜きました。
昭和のくすんだ服の子供たちがやがて日本を伸ばし、支え、今の日本の課題も生んだ。昭和とはそんな時代です。今日はそんな日本の今に至る大事な歴史のページを想起する一日です。

宮城県北部大崎市のお酒を呑む #宮寒梅

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 京都も底冷えで本当に寒い日々でお酒が恋しい時期です。
 宮城県北部米どころ大崎平野、古川の寒梅酒造という蔵元の「宮寒梅」を取り寄せて飲み切りました。
 平成23年(2011)に東日本大震災で仕込み蔵が全壊したものの、小さな蔵元ですが同年12月に蔵を再建され、新しいイメージのお酒にトライされたそうです。
 大吟醸ですが重みはなく、フルーティでかつ甘ったるさのないキリっとした味です。
 この1杯だけで嬉しくなるような、ほのかな香りと見事な味わいでした。
 日本酒はそんなに呑んでいるわけではないのですが、こんなに美味しいドラマが味わえるようなお酒があるのに驚きました。東北の人の長い厳しい冬から春を待つ気持ちが伝わります。
 ワインよりも飲みやすく、720mlしばらくの日々で2本空けてしまいました。