日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】8

カネボウとともに生きた人生8

【決算でまかり通った粉飾?】
前章から書いてきています。パワハラ系で昭和の営業でメンツ重視の企業でしたから、どうしてもいろいろな細かい営業的ごまかしから、大きな数字の捏造までありました。
やり方としては、数字が足りないから【鉄砲を撃つ】と言われ、店側が発注してない商品を勝手に起伝して納品をするやり方です。
後の時代、オンライン発注になるとやりにくくなりました。
売れ筋をいれてできるだけ返品にならないようにするやり方と、素直に返品を同額とるケースがありま。基本返品は月始め計上ですので3月末などは架空売り上げが増えました。
新商品や売れ筋、在庫の入れ替えなどで月末売上を得意先のキャッシュフロー、支払能力を遥かに超えるラインまで上げる。在庫があり普段そんなに返品を取らず在庫が増えているところはなかなか普通の注文がとれないので強引にやるしかない面もありました。結局在庫があり、販売力以上に押し込んでいること自体に苦しさがありました。
昭和の店は、大手メーカーの請求書を小まめに点検する間もない家内営業みたいなところも多くそこにつけいる返品をあげない。売り上げの商品をもっていかない誤魔化しもありました。これはさすがに犯罪に近い、いや犯罪でした。
そういう経験もありました。
結局はいわゆるカネボウ破綻前の2000年代に入ると、会社を上げてこの粉飾に加担しはじめました。伝票1枚は何万円まで同一商品は返品不可など、会計監査のルールは伝えられました。そこをギリギリ守りながら商品を入れ替える等、何の役にも立たない無駄な労力をしながら、イベント等日常の営業もやっていました。少々の期末の踏ん張りはどこでもやっていたでしょうが、身の丈以上の架空数字に毎期毎期追われるようになると終わりです。破滅は近づいていました。
補則すると当時、決算は損益計算書と貸借対照表のみで、決算期までにでっち上げ、キャッシュフロー計算書が重視される前だったのです。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ7】

カネボウと歩んだ人生7

営業の第一歩は大阪第一南販社。当時大阪は東西南北で8つの販売会社に分かれ一部尼崎の兵庫県も含め、細分化エリアで第一南は繁華街のミナミではなく、大阪府南東部、南河内、第二南が泉州でした。
ビジネスマナー以前の学生でしたが、販売会社の厳しさ、販売店との売上数字のギャップは大きく怒られてばっかりでした。バットニュースファースト、バットニュースコレクトと言いますが悪い癖で、あんまり悪い報告をするとネチネチ怒られる。長いこと捕まるので、解決できそうなことや誤魔化せることは報告しない。
少々の損は自腹でなんとかしないと、時間的に身体がもたないようなところもありました。
しかしまあ自分のためにも、会社のためにも報告しないことは良くない。当然上司も部下の話をうまく吸い上げる雰囲気を持たないといけないのは当たり前の論理なのですが、なかなかそうはいきませんでした。
うまく報告する人もいましたが、なかなかこの売上数字見込みの出し方は花王傘下になっても続いたカネボウの伝統でした。
そして最終5日の見込みが中間より大きく狂う時の出し方が最悪でした。最後までシラを切って最終日に狂わせる営業も課もありました。
悪い癖のついた先輩もいましたし、若手にも癖のある人がいました。
上位職について出世した輩でも、『お金。商品。オンナ』のトラブルは3悪と言われてました。
ハラスメントやコンプライアンスで気なものは余程でないとなんとかなる。
昭和の名だたる企業が実は追い込まれると似たような不祥事がぞくぞくでてきていました。まあ黒かろう白かろうがしっかり数字を上げる社員が重用される。昭和の大阪からはじまり平成が終わるころまでそんなペースでした。
具体的の粉飾まがいの手段については次で説明しましょう。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】6

カネボウとともに歩んだ人生6

ランチェスター戦略が入社当時から伊藤淳二社長が掲げた重要な戦略でした。幹部挙って金科玉条のように唱えて進めていました。
元々は戦争における局地戦から集団戦への戦略法則でしたが、経営戦略としてフォルクスワーゲンのセールス戦略に応用されたとも言われ、自身の経営研究も踏まえて解説した経営コンサルタントを重用していました。(田岡信夫氏)
とくに弱者が強者を相手に勝つ方法というのは、後発で資生堂を追う2位メーカーで決して資金力も潤沢ではなかったカネボウの琴線に触れたのです。
マインドシェアや局地集中でナンバー1のエリアを作り、成功を広めるなどの戦略は一時的部分的には成功しました。
しかし資生堂とがっぷり四つに組むには、その後の資金力に差があり過ぎました。最近のキリンとアサヒの凌ぎ合い等はまさに拮抗したものがありますが、ランチェスター理論を相手も熟知したらもう負けでした。古典的な局地戦では勝てても、一時的に長野県でアドバルーンが上ったとか、どこぞの企業で一等地を取ったとかはあっても全体的には牙城を崩すには程遠いのです。逆に人材や資金力が枯渇すると一気に奪っていた陣地も失いました。
営業マンと美容部員の人的マインドに頼る部分が多いのですが、結局は中途半端な成功体験が逆に大きな改革も成長も止めてしまいました。この時期に限らずいろいろな提案が現場からなされましたがなかなか『資金がない。時期尚早』ということで、遅々として取り上げられることもなく改革は進みませんでした。
後に同族となる、花王ソフィーナや外資系がバブル時代に台頭する中、いつまでも沢口康子一辺倒のキャンペーンでは多様化した消費者にもついて行けてませんでした。大河ドラマ「秀吉」1996年(平成8年)では30歳でしたが晩年を演じてもいましたので、辛口のバイヤーからは百貨店等のトレンドからは1社だけ大きく感覚のズレまくってると叱責されました。古いセンスの営業や企画の人間しかいないメーカーと揶揄されました。
総合商社的にカリスマ販売を求める専門店への荷重が強い分、百貨店やコンビニ、ドラッグ、通販等への対応も遅れて、このことも延命でもあり命取りでもありました。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ5】

カネボウとともに歩んだ人生5

化粧品大手ライバル2社の昭和50年代以降のCM合戦は、今でも広告業界の当時を知る人には凄かったと語り草になっている。当時一般の女性にとって、トヨタと日産、キリンとサントリー(もしくは今ならアサヒ)、等以上に派手で面白い宣伝合戦だった。
今年の春は片方がレッドと言えばもう片方はピンクとか。
ただこれはマーケティング的には、カネボウの上手い戦略で資生堂を真似ることとけしかけることで同じようなイメージを抱かせました。
私は営業現場でも、友人や一般の方から、カネボウと資生堂はどちらが売れてるのかとよく聞かれました。しかし両者の売上はまだまだ開きがあり、トップ資生堂の半分前後のシェアを推移していたと思われます。マインドシェアで資生堂に並んでいたことはカネボウの石坂常務を中心とした戦略が上手かったといえます。
テレビのスポットCMの量は、実は資生堂には大きく劣りました。しかし効果的なプレス発表や、時間帯や時期を絞ったインパクトのあるCM、当時の広告宣伝としては画期的な戦略で、多くの人が資生堂とカネボウは同じ程度の宣伝をしているような印象をもたれていました。
それでも、もっと化粧品に力を入れる体力、資金力があればカネボウの運命も変わっていたかもしれません。
やがてその体力の差は繊維本体の赤字を支え、少ない広告宣伝費を増やせないことにより、モデルを含めた一つの文化を産んだとも言えます。
カネボウのモデルからは、夏目雅子、松原千秋、沢口康子、米倉涼子、北川景子とスターダムにのしあがったスターがまさに彗星のように周期的に現れました。ブルックシールズ、松田聖子、木村拓哉と有名どころをサプライズ登用させたのもカネボウです。
昭和の時代に比べると、化粧品のCMからスターが生まれるというよりは今はすでに売れている旬のタレントをモデルのするのが主流になりました。
資生堂も含めて制度品化粧品大手はインバウンドやらで売上全体は伸びても、日本人全体でのシェア、ましてやマインドシェアは大きく昭和より落ちていっています。
資生堂を追い、勝つことだけを目指した時期もありましたが、バブルがはじけ、徐々にその影は遠くになっていきます。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】3

カネボウとともに歩んだ人生

化粧品専門店の組織の強さはカネボウが最後まで頼った流通です。私は入社したころ繊維部門で作ったインナーやパンスト等を専門店で売るようになりました。化粧品販売会社を総合商社にしたい向きもあったようです。
制度品と呼ばれるメーカーが直で販売店に卸す化粧品は、価格が決まっていておとり廉売等がされない安定した利益を産む商品でした。
原価率が15%前後ともいわれる商材ですが、ブランド力により市場を大手数社で寡占することと再販制度により価格も維持され販売店も儲かる時代が続き、化粧品事業は順風満帆でした。有力な販売店と優秀な美容部員のマインド、モチベーションを上げ、営業マンを炊きつけることが幹部の仕事になっていました。
高度経済成長期を迎え、バブルを迎えても繊維の構造不況は止まらず、カネボウの持っていた工場や土地のほとんどは売却されました。それでもこの会社の財政の厳しさは変わらず、化粧品の黒字を食いつぶし粉飾を重ねて100周年を終え110周年を迎えようとします。
従来の五角形の多角戦略を替え、情報先端技術等も加えて国内のトップで1兆円の売り上げを目指そうと110計画を中期計画として進めますが、内実は厳しいものでした。国内トップ社員の福利厚生、処遇も掲げましたが110計画はあさり挫折します。
再販制度が撤廃され、ドラッグストアや大手GMSがオフプライスを打ち出すと、長年カネボウを支えていた専門店のシェアも下がり、化粧品の販売はどんどんそれほど儲からない時代に入ります。それは販売する者も作る側もでした。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】2

京都高野にある工場跡の銘板
団地の集会所として残る工場の建物の一部(京都高野)

カネボウと歩んだ人生2

京都の洛北高野にイズミヤと阪急のグループのショッピングセンターがあります。
京都に生まれ育った私にはスケート場やホテルだった時代も思い出されます。そしてその横にある高野団地というステータスの高い集合住宅とともに、以前は鐘紡京都工場という京都最大であり東洋一とも言われた紡績工場がありました。
山科にも大きな工場を持ち、間違いなく京都市内で戦前戦後を通じ面積、人員等の規模で最大の工場を有する企業でした。それは全国におよび雇用、知名度の面でもステータスの高い企業だったことがわかります。高野工場だけでも戦前で3000人を超え、戦後でも2000人近い従業員がいて天皇陛下も行幸されたとあります。
私が子供の頃に、元慶應の野球選手で化粧品の地区販売会社のトップに来られた方が得意先を回っていました。
事業転換、本業喪失からの異動とはいえ、化粧品の他メーカーに比べ、慶應出のエリートが上に立つカネボウ化粧品は上品な会社に思われていました。
戦後何度も都市対抗を制した全鐘紡というアマ野球の最高峰のチームを抱えていました。それも繊維不況もあおりで手放すこととなります。
オール鐘紡の名前はオールド野球ファンには著名です。また全国には鐘紡工場の地名が通りや街に残っています。静岡のカネボウ通りや、防府の鐘紡町等は有名です。
ちなみに鐘紡では工場長、販社社長のトップを支配人という役職で呼びました。
高度経済成長と資生堂に食らいつくチェーン店戦略の勢いで化粧品は伸び、繊維の赤字を体よく誤魔化す状態が続きました。多くの工場が閉鎖され土地も売られていきました。
野球部のリストラでさえかなりの反発を食いながらの英断でした。繊維事業を元から手放すのはさすがに躊躇われました。そのまま100周年で世間はバブル期を迎えます。
私は社会人としての基本、営業マンとしての基本がまだまだの時代でした。バブルとはいえ厳しい前年比のノルマで楽をした覚えはありません。
カネボウと歩んだ人生等と大それたモノを書いてますが、今でこそ三十数年勤め上げたと褒められる時もありますが、歴史ある会社にとってはほんのミジンコのような存在でした。それまでも栄光ある大会社の諸先輩は綺羅星のごとく沢山おられました。
それでも当時の会社は勢いとしては化粧品業界として二番手ながら印象度を資生堂と同格に認知させるマーケティング戦略もあたり、すっかり総合的な美を売るメーカーとして新たな時代を迎えていました。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】1

カネボウと歩んだ人生1

明治20年(1887)年から平成19年(2007)年まで120年間存在した大企業、カネボウに私は昭和57年(1982)年から解散の日まで在籍しました。
戦前の日本を支えた戦後復興の中核だった栄光の繊維産業の時代はほとんど知らないわけですが、この恐竜のような大きな企業の断末魔を見ることができました。
何章かに分けて、先達、同僚からお聞きした話を含め、この企業の盛衰が現代にも語り継がれるべきもの警鐘とされるものを紡いでいきたいと思います。
昭和51年に横浜の山手ワシン坂に偉容を誇る教育センターを開設していました。伊藤淳二社長の人材教育の肝入りで、化粧品で採用された私ですが入社時は統一採用となり本体の繊維と同じ待遇で入社式を行いました。
都島工場や小田原工場、関西の須磨の教育センター等、横浜に比べると食事も施設も劣るところを入社導入教育ということで2週間か3週間回りました。
最後の社長となった帆足隆氏が、当時チェーン店部長という幹部でした。激を飛ばすパワフルな個性のまま、会食の同じテーブルでした。粘り強い営業スタイルの逸話が多い方で、美容畑の女性幹部古島町子氏の「シャツは綺麗にしておかないといけない」の言を語った同期に「そんなものどうでもいい」と一喝していました。夜討ち朝駆けで、毎朝毎朝、早朝に攻略する薬店のシャッターの前に立ち開店の準備を手伝って信頼を得た人たらしで粘着的な気質の方で、このDNAは長きに渡りカネボウ化粧品の幹部に受け継がれました。
慶應出、本社総務人事出身が歴代社長、重役のコースだったのを最後の帆足隆氏だけが異例ともいえる地方大学の、子会社出という経歴でした。化粧品戦略を中心に据えその恩恵を受けた伊藤淳二氏が帆足を評価し、またいかに帆足が伊藤に取り入ったかを示しているといえます。
関西の私大から入った私は、「慶應閥の会社で、本社に行って企業の中枢に行けるのですか?」という質問を教育担当の講師にしたところ「帆足さんの例があるじゃないか」と言われました。
晩年、粉飾に手を染め汚名をかぶり獄窓に入った帆足氏ですが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったのです。
そして高度成長期でカネボウもシーズンのキャンペーンを資生堂と競い合い次々と話題を提供する。戦前とはいかないまでも、テレビでの露出は一流企業であり、食品や漢方薬の薬品、ハウジング等も手広く発展しているように傍目には見えました。
しかし四季報等で良く見ると株価やその内容は決して良くはありません。もはや日本の中心輸出産業は繊維から家電や自動車に以降していく時代でした。繊維から脱却を図っているようでうまくはできず化粧品という孝行息子の働きを食いつぶす不良老人。
戦前は退職金で都内に3軒も家が買えたという、超一等の会社が、日本はおろか業界トップの資生堂に比べても給与賞与で大きく差をつけられていました。
同期の「戦前に入ってたら良かった」という嘆きは分かるほど、一流とは呼べない待遇と、泥臭い現場の営業でした。
入社して見習いを終え、8月1日が正式配属ですがその日に私の同期2名、なんとなくウマがあったNとKという二人は、先輩方の情けない営業や向上心の無さにあきれ辞表を叩きつけました。Nはその後国家公務員上級試験に合格したという便りがきました。外務省で日本を支える立場になっているようです。私は当時、そこまでの選択をするアタマも度量も無かったです。その後何度も後悔もしましたが、この企業を看取ることができたことは今ではいい経験ができて幸運だったと思っています。