人権の時代と言われながら枕の話は尽きない

 このところ、少し大人向けのアブナイ話が多いかもしれません。しかし世の中の裏側とは、そういうものなのかとも思います。
 女性の多い化粧品会社にいたということで、多くの美容部員さんや女性の営業さんと一緒にし、主に管理をやっていたわけで、いろいろと大人的な話はあります。

 最近は、コンプライアンスとかジェンダーとかもういろいろ発言に制限がかかる時代です。「枕営業」という慣習が、女性の人権が守られるはずの時代にと書きかけると、これも女性だけではないと叱られそうで、タイトルも変えました。
 一般的には女性の枕?セックスを条件として仕事を貰うとか、昇進やポストを得るため、あるいは男性が主導する場合もあります。男性が女性上司にという場合もあれば、男性同士女性同士という場合もあるのでしょうが、一応私が見聴きした範囲にはあまりありません。

 今でのそんな悪習が残っているのはヤクザな芸能界ぐらいだと言われそうですが、まあ人間は弱くその欲望と狡さのようなものはどこでもいつでも変わらない気がします。どのような組織にもそれに近い営業はあるようです。

 悲しい性というのかな、私もある地区の担当をしていた時、トップが変わるごとに取り入るタイプの女性がいました。ただ媚びるだけという範疇を超えて、他の女性からはいろいろ「部屋の出入りしていた」などの噂を聞きました。
 いつか、その人も年齢などもあり「こういうスタイルを止めたい」と呟くような相談を受けたことがあります。しかし、やはりそれはできずにずっと同じように年齢を重ね、外見を保つためにお金をかけ続けているような感じでした。

 男性、女性どちらがいい悪いというものではないのですが、そういうことなしに仕事をしているものにとっては、何とも一緒にされたくないというところでしょうか。かといって、そうやってのし上がった人もいい仕事をする場合もあります。
 私も魅力的なルックスの異性には第一印象で好感を持ちますが,他方コツコツと良い仕事をする地味な外見の人も多いので難しいというか、そういっても怒られるのが現代なのでしょうか。

 芸能界は違うというか、そういうものをあるのが、当たり前で分かって大金を稼ぎ、それを一般の人が見ているのだという考えもあります。
 不倫などのスキャンダルには厳しく、人権や倫理、道徳を報道する側の放送局が、ドラマの役を決める際にそういうことがまかり通っているのは、滑稽なものです。

電卓ワザに長けたB野君、借金まみれのA田氏ら同僚と過ごしたバブル期

1980年代後半、バブル期と言ってもパソコンはまだ、会社でも一人一台ともいかず、まだ電卓やワープロの時代でした。

 化粧品メーカーの現場で販売の部門にいましたので、売上の予想や集計には電卓をたたいていました。
 B野君は転職組で過年度の入社ながら、やり手で一気に当時のロートルメンバーを脅かし、陰の実力者と言われた後の経営幹部となるN課長に取り入り、管理職目前まで登り詰めていました。今ならパソコン、その当時より少し前なら珠算、算盤なのでしょうが、彼の電卓をたたく術はとにかく早かったでのです。コツや技術と手先の器用さもでそうが、パソコンならブラインドタッチ(タッチタイピング)のような鮮やかさでした。

 対照的にA田さんという人はもうそろそろ同期が経営幹部や支店長になるとかの話もチラチラ出る中で、まだ課長にもなれず、売上成績はドル箱を抱えてそこそこながら、その仕事ぶりや私生活は借金や女の問題などひどいものでした。

 この二人とは少し距離を置いた関係で、工場経験ありの変わり者S古氏と、ベテランP府氏、私の3人がN課長の派閥に入らず、反主流派で村さ来とか安いところでよく呑みに行きました。

 シャープで時に豪快でいい仕事をしていたB野君ですが、私の転勤後数年して、不倫相手の女性が自殺したということで、職を追われたと聞きました。当時N課長と対立するパワハラ気味のトップが君臨して、別部門の責任者M杉さんはノイローゼになり首を吊った。B野君は直接、自殺には関係してはいないのですが、自分には奥さんがいながら付き合っていたことは公然と知れていたので、スケープゴートになった感じです。
 私は当時独身でしたが、離婚経験はあるけどM杉さんは美しい方で憧れていました。一度二人で美術館に行ったことがありましたが、それ以上何もなしで転勤しました。当時からB野くんとは付き合っていたようで、まあ馬鹿な役回りでした。しかし死んでしまったとなると、ちょっと何かできることがあったのではないかとしばらく後悔していました。

 A田さんはその後、借金まみれで懲戒免職、離婚後、身投げしたそうです。P府さんは早期退職でリストラを受け容れ、仏壇屋の営業をしたあと、職を転々とされていたところしか聞いていません。S古さんはついに定年までも、役職にはつけず現場のままで、すでに管理職になっていた私の地区にも挨拶に来ましたが、あまり同席する気にもなりませんでした。

 私はどこかで、先に出世しそうだったB野君の電卓術にライバル心を覚え、パソコンが導入され、エクセルなどで表計算ができると意地でも電卓を一切使わない仕事を習得しました。後年パソコンの中に電卓ソフトやテンキーでも電卓替わりになるのが出ますが、何だか電卓には良い印象はないのです。
 M杉さんと行った美術館は「ダリ」だったとだけ覚えています。その後フレンチも食べたはずなのです。年上でバツイチではあってもそこは気にしないくらい美しい方でした。けれどどこかでほんの少し感性が合わないようなところがあり、負け惜しみですが、それがこちらも強引にならなかった点です。
 結局、あの当時の部署の5人で管理職、支社幹部になって生き残ったのは私だけだったのは、本当に偶然、運命はわかりません。
 若くして亡くなったM杉さん、A田さんともに北陸、福井県の出身で、カニなどを小さい頃は安くいっぱい食べたという話も妙に覚えています。

 

伊藤淳二と稲盛和夫 日航改革二人の明暗

 JALの改革と言えば先日亡くなった稲盛和夫元京セラ会長、創業者が想起されます。
 しかし日航機墜落事件を受け、昭和61年当時の中曽根政権の依頼を受けて、事故の原因究明からその構造を改革する役割を任されて、白羽の矢が立ったのは鐘紡会長の伊藤淳二でした。
 日航の経営破綻で稲盛さんが社長になる25年前です。鐘紡の労使調整や経営再建の実績を評価された伊藤淳二氏も、野心家の辣腕経営者で城山三郎の『役員室午後三時』のモデルとなった、戦後の若き改革型経営者の代表とみられていました。
 しかし、日航の労使問題は複雑怪奇で、さまざまな魑魅魍魎、百鬼夜行のような妨害にあい1年足らずで挫折、更迭されるハメになりました。山崎豊子の『沈まぬ太陽』にも、その経緯や伊藤のモデルのような人物はやや美化され描かれています。
 その後の鐘紡の迷走、破綻から、伊藤の評価は下がり、今やイトウジュンジで検索してもホラー漫画家が出てくるぐらいです。実は稲盛さんの10歳年上で、100歳でご存命なのですが、野心家で自社株も多く抑え、若い頃はCMモデルなどとも浮名があったギラギラした点は稲盛さんとは大違いでした。
 経営の評価は下っていますが、日航の課題を上げた点は大筋でその後の稲盛さんの方針と大きくは変わりません。経営者の明暗は時代なのか、どこかにあったのでしょう。

77年前の敗戦を繰りかえさない

 77年前の敗戦を繰りかえさない、というのは右でも左でも共通だと思います。
 敗戦を繰りかえさないためには、戦争をしないのか、戦争をしても負けないかです。
まあ、こんなことは議論してもしょうがないことです。
 戦争であれ、経済だとか、教育とかすべて政(まつりごと)が間違った方向に扇動されないことです。

 アメリカとの戦争も、いろいろな歴史書で語られますが。戦争を始めたことと、途中で講和などの機会がなかったか、よく言われるロジスティックや戦術の柔軟性で悲惨な特攻や玉砕以外に粘る方法はなかったのかという問題はあります。
 アメリカはでかく軍事力も絶大と思われますが、その後の局地的な戦争では勝ててはいません。しかし戦争をするということは勝つ国と負ける国があるのと痛み分けも含めて、兵士や市民に多かれ少なかれ犠牲が出るということです。常に勝つ国であればとか勝っていればと思うのも人情ですが、相手も勝ちたいと思っているのです。
 もちろん、政府やリーダーは自分の選んだ政策、道が正しいと、国民をリードし世論を煽ります。ナショナリズムはおよそどこの国民ももっているはずです。それをうまく擽れば大きなモーブが生まれます。問題はそれが間違った方向だったり、効率の悪いやり方だったとき、勢いがあるすぎて、誰も修正や停止ができないことです。

 私が大卒で入った鐘紡というかつて日本最大の民間企業だった会社は粉飾で事実上倒産し、別の企業の傘下に入りました。私は化粧品の担当でしたが、元は繊維の会社でしたし、薬品、食品、日用品、ファッション、電子部品や、住宅関連などさまざまな部門がありますが、ものの見事に粉飾漬けでした。そこそこ一流の大学を出てた全員、そしてそれを指導する幹部教育を受けた人間が、追い込まれたら何だってしてしまいます。「こんなこと無駄な上、不正であり犯罪の方棒を部下に担がせる」そんなことすら罪悪とも感じず、全員が間違った方向に走る異様さを経験しました。
 人間とは弱い、周りがみんな走っていたらなかなか異を唱えられない生き物です。日本人はとくに従順なところがあり、それがいい面もあり悪い面もあります。

 戦後77年、語れる人は減り、方向を間違わないことが望まれます。

組織にカリスマは必要か

 カリスマシェフとかカリスマ美容師などの言葉が一時流行りました。個人経営ならどんどん他をよせつけない個性を磨き、至高の自分をアピールすることが尊ばれ、自分の利益につながりました。
 カリスマ営業やカリスマバイヤーとかいう感じのビジネスマンもいました。たたき上げの営業から社長に上り詰めた今太閤のような人も元勤めていた会社にいました。しかしシステム禍が進み、コンプライアンスやサステナビリティが重視される時代になり、その会社も別の大手に資本が移り、カリスマよりもマニュアルや普遍性の仕事が評価されるようになりました。
 販売や営業でカリスマ的努力は必要な面もあるのですが、ともすれば過剰なサービスやルール違反に陥りがちです。
 その人が担当しているうちはいいが、転勤などすると後はぺんぺん草も生えない前年比お幅ダウンなどで均して考えればカリスマの貢献は一時的なもので評価は下がる訳です。
 持続可能な営業努力なら認めるけれども、それ以上は個人の範疇での無理は認めないということでしょう。これがなかなか営業成績などがあると難しいも問題です。実際にまだ多く存在するノルマ営業のブラックな部分は個人のがむしゃらでも非合法でなければ売り上げを上げれるカリスマ的な人を評価するしかないのでしょう。
 それでも普遍的なことをルーティンで誰でもできるようにして、サービスなどの業務効率を一定レベルにして、個性を活かしながら社員が意欲をもって働けるような仕組みは必要です。

インバウンドの売上より国内での売上が大切だった

2017年の秋頃だけど、その後定年で化粧品会社をやめたからもうずいぶんと前に感じる。その後カネボウ化粧品の営業体制も変わり、コロナの波も来て今はもうまったく変わったように聞いていますので、こんな人間的なメイクアップのイベントをしたり営業が品出しに深夜まで行ったりなどはあり得ないでしょう。
当時としてもセルフメイクのイベントに外部からプロのメイクアーティストを起用する機会などそうは考えにくい僥倖のようなタイミングだったのでしょう。
女性アーティストだった彼女との話についてとか、以前にたぶん書いたのでここではビジネス的な部分のみです。この時激しく火花?を散らしたのか(自分で思うだけ)インバウンドでのミナミでの売り方に対して、自分のスタンスとして日本人にハロウインのメイクアップ技術を提供してフォロワー、ヘビーユーザーを増やすマンツーマンのイベントで意地を見せたものです。
まあ、ミナミを担当していた彼とも、最終的には営業スタンスの違いで比べるものでもなく、勝負が決まるものでもありません。
ただコロナでインバウンドがなくなってしまい、国内需要を掘り起こさないといけないというのは今の観光や旅行、飲食業にも通じるものがあります。
ミナミの彼には深夜に動くことで、インバウンドの動きを絶妙に察知して、インバウンドに強い酵素洗顔料をそこで品揃え、品出し、前出しをすることだけで巨大な売上を確保することができるというスゴイ算段を持っていましたし、自分が自ら動いて他の社内事務やクレームや雑魚店の処置をいなしながら、全集中で売り上げを上げてました。
私の担当のキタの店のイベント等。アーティストの費用やら、呼び込みの人員や自分自身休日に出た1日やら、仕込んだグッズも計算すると、非効率なものです。
しかし、私にとって化粧品会社にいたなかで最も楽しかったイベントで、黄金の2日間として刻んでいます。
化粧品会社の営業としては化粧品会社らしい活動ができたと自負できました。インバウンドのバイヤー等は自分の店に並んでいなければ隣のドラッグで買うだけかもしれません。営業成績に関しては自分で動いて自分の店で買ってもらい売上が上がるのはそれでいい。しかし深夜とか過剰なサービスでは持続性は疑問で危なっかしい。
私はどれが正解とも言えませんが、その時自分の仕掛けたもののためには、休日出勤でフル稼働もいとわなかったですが、まあこれも持続性があるとも言えません。あの時のハロウインメイクを教わった女性たちはどうしているでしょうか。
SNS等もっと簡単なカウンセリングやメイク情報の時代が進んで、もうどちらもどうでもいいような過去にはなっています。
1枚看板だった酵素洗顔料も次々他社の類似品もでて、メイクアップも神通力なるセルフブランドではなくなりつつあるのが何とも時代の経過を感じて寂しいです。いろんな個性ある営業マンが凌ぎあった大阪も懐かしいです。

日本最大の企業の栄光と崩壊 【カネボウ18】#カネボウ破綻 #カネボウ高砂工場跡

白砂に寄せる小波や  若き想いの高砂に

希望の星を見つめつつ  明日の技術を究むなり

ああ、若き我等の  鐘紡技術学校

日本最大の民間企業だった鐘紡(カネボウ)は全国に工場を持ち、街の中心の産業となって雇用を支え、雇用を生み、鉄道を誘致したり地名にもなっていたりします。
兵庫県中部の瀬戸内寄りの街にある高砂工場は私が入社する5年前の昭和52年に閉鎖されているので、名のみ知るだけです。
昭和11年に人絹工場として建設され、戦後は鐘ヶ淵化学(カネカ)と分離されて縮小し、技術学校等が残っていたようです。ここには当時ファッションや化粧品の経営や営業のノウハウを学ばせるための幹部教育の施設もあったようです。
私が入社した時は、横浜に研修センター、小田原工場に幹部教育のマネジメントスクール、神戸須磨に関西教育センターという体制になっていました。幹部や管理職の経歴の中に高砂セールスマンスクールという文言があり、マネジメントスクールをセールスマンスクールと言い間違える方が多かったので私の入社前の5年に教育の体系も施設も変わったのだと思います。
鉄道廃線跡をたどると、高砂という街の湾岸部が全て工場となり、名だたる企業が引き込み線を持って輸送をしていたのが分かります。播磨臨海工業地帯の一角です。
高砂という名前からは白砂青松の海岸がイメージされますが、この市の全ての海岸が埋め立てられ、工場に占められています。

ここから巣立った幹部は多くのカネボウの拠点で中枢を担ったのでしょうが、残念ながら粉飾まみれとなった企業を支え切るまでには至らなかったようです。

私が入社した時、最新の研修体制の施設も、今は残っていません。
神戸の須磨センターは阪神大震災で倒壊後再建されませんでした。
最新鋭の建物だった横浜の山の手にあった研修センターも早い段階で土地は売却、東日本大震災の避難には使われましたが、その後完全に閉鎖され廃墟になっています。
小田原工場内は花王主導での化粧品研究施設として解体、リニュアルされています。
高砂、須磨、横浜、小田原どの施設からも海は見えましたが、希望の星は見えたのでしょうか。当時の全ての若き社員を呑み込んで運命は激しい波に揉まれていったのでしょう。

吉田 登さんはじめ何人かの鐘紡、高砂市関係、廃線ブログ引用、参照させていただきました。

不祥事で退職に追い込まれた同期のエース  #カネボウ

友人と麺類を食べていて季節は違うのですが不意に思い出した話題です。
カネボウ化粧品時代で最も早く課長から販社支配人に出世したAの件です。
当時権勢を振りまいた今太閤帆足隆社長になぞらえ、ミニ帆足とも言われる押しの強い馬力でした。
当時何年かに実施されていた一度若手鼓舞、組織活性のための抜擢人事の一環で40前での異例の昇進でした。
しかし任された支社エリアの数字は伸びませんでした。
前任者も相当なやり手だったため、人物的にもだいぶ遜色があったのです。
一つのエピソードとして年末の納会の前に、挨拶をした際、内容は別として大変長い話をして聴衆は目の前に年越し蕎麦が置いてあったのに、延々と訓話されたのでした。
それを評したベテランの女性社員は蕎麦のような食べ物の前で長口上するなど論外「Aは育ちが悪い」と一刀両断したのだそうです。
その評価は当たっていたのか結局、彼は金の問題でトラブルというか社内規定違反で退職に追い込まれました。
品性とでもいう感じのところに問題があったのでしょうか。その後、皮肉にも本家の帆足社長も結局は粉飾、金の問題で辞めざるを得なくなり逮捕もされました。

醜女?でも性格の良い相手を選んだA君   カネボウで出会った人2 #カネボウ

写真は本人と関係ありません。

化粧品の会社でしたのですごく社内結婚された方々が多かったのです。私自身は違いますが、同期や同年代の8割がたが社内、美容部員さんもしくは事務の方が大卒男子とというパターンでした。
昭和50年代ですので、大卒女子というのがほぼ皆無の真っ黒な入社式の時代です。
そんな中でい学年下のA君。仕事もできる好感でしたが、部下のチームリーダーだった結婚相手大変ぽっちゃりしたというか太ったお世辞にもつり合いのとれた美人ではなかったです。
二人とも一緒にお仕事したことはありますが、周りはなぜあのA君がもうちょっとマシなん選ばんのかという声が多く、立候補する女性も多かったようです。
彼は笑いながら、暗いとこになったら女の顔などわからないと言いました。
正確や仕事等、若い時だけの美貌で選ばなかったのでしょうか。しかしこのお相手ますます太られてドスコイと呼ばれてました。仕事がら単身赴任も多く、子宝にも恵まれないで、二人別べつに独身のように気楽にやってました。
奥様は太り過ぎが原因かどうか、脳卒中を患い介護の亡くなられたようです。
A君自身も幹部登用手前で不祥事等もあり、長い単身赴任の後も介護等でシンドイ生活のようでした。
子供もなく妻もない、それでもクルマ好きでアウトドアが好きなので気楽な一人暮らしのようです。会社の体制にも無理に合わせず早期退職でがっぽり退職金貰って、すでに家もあるので悠々自適のようです。
多くの人が捻出に苦しむ、子供の教育、マイホームのローンには全く所得を回していないので全然ゆとりの生活です。
それはあえて選んだ運命ではないでしょう。奥様もよく美容講習の帰りに、ファミレスのランチバイキングに行くのを楽しみにされてました。食べるのが大好きで笑顔は可愛いものに映ったものです。
お二人それぞれ幸福だったのかどうか、本当のところは分かりません。出世した人しなかった人もそうですが、自分とは違ういくつも交錯していった人生がありました。

資生堂帝国の崩壊【枯れ行く椿】

コロナ不況は運輸等とともに化粧品メーカーも直撃しました。外出も減り、マスクの着用でメイクアップの機会も減り対面販売の大手(美容部員が売る制度品化粧品)の国内売り上げは相当な落ち込みで、業界最大手資生堂は2020年度118億円の赤字と発表しました。
1982年にカネボウに入社した私にとって、資生堂という化粧品会社は強敵でありライバル会社切磋琢磨する長年の好敵手でした。
カネボウ化粧品の幹部教育には「椿を折れ」と叫ぶ特訓をするような、今では考えられないようなカリキュラムがありました。
当時の資生堂とカネボウは毎シーズン華やかなCMやモデルを使い大きなキャンペーンでトップを競い合っていることは消費者からも著名でした。それは現在のトヨタと日産、キリンとアサヒ、巨人と阪神、ドコモとソフトバンク等よりも華やかで厳しい盟主、覇権を争うライバル関係でした。
常に2位メーカーという悲哀もあり、キリンが嫌いトヨタよりも日産が好きという人がカネボウにも多かったです。
潤沢な資金でCMを投入する資生堂に比べると、カネボウは派手なキャンペーンでピンポイントを抑え資生堂と同一認識を消費者に与えるものの、内実はスポットの量等全体の広告料は少なかったのです。後は人海戦術でいかに目立つところにポスターを貼るか、資生堂にオンリー店になんとか取引を拡充するのか営業の泥臭い努力と強引な押し込み販売が現場の肝でした。「資生堂の知名度と宣伝があればなあ」というのはカネボウの社員や得意先ですらたまに愚痴りたくなる思いでした。
ドラックストアもネット販売もない時代、街の有力な化粧品店薬局が主体で、大手メーカーと取引できれば、再販制度という価格維持で利益は守られていました。そんな温床の上で資生堂は長年、王者に君臨してカネボウは青息吐息ながら2位を維持して追いかけました。
カネボウが繊維本体の赤字で、超優良な化粧品に販促費を投入できない構造は、それでも化粧品事業単体で見ると、資生堂に比べ優良な利益構造の事業になっていました。これが後々花王に事業だけ買い取られ生き残る要因となりました。
カネボウはその後の本体の粉飾で泥をかぶりました。
しかし外から見てうらやましい反面、資生堂が完全独走とまでいかない大企業病、宣伝費がかかり過ぎ、いざ不況になると儲かりにくい構造になっているのは巷間でも囁かれていました。
その後、中国市場拡大グローバル化の波、カネボウも花王傘下となり、ドラックやネットで流通の一大変化も起こり、化粧品業界は寡占というより乱立の時代に入ります。
カネボウが美白問題でも凋落する中、資生堂にもかつて業界を席捲した神通力はなくなっていました。多くのモデルを抱え、莫大な宣伝投下しても化粧品は大手だけでトレンドを作れない時代に入りました。外資や薬系、かつての弱小一般メーカーもそん色なくドラックの棚に並び、ネット情報で消費者が好きなものを買うのが主流になりました。
今回のコロナ禍は、伝統的な制度に胡坐をかいていた体質の業界、企業を一気に加速して財政的危機に直面させます。テレワークが増えやリアル店舗が減少するなどは予測されていた未來です。
中国市場に強い資生堂は盛り返す機会もありますし、ブランドや人材もまだまだ強いはずです。伝統的な対面販売の在り方の未来をどこがしっかり掴み提案していけるかが、これから楽しみでもあります。

改装されたGMSの中のドラックの化粧品対面コーナー。GMSとの共同の新しい業態らしいいがこの時期にチャレンジングではあるけれど、占いコーナーみたいでした。占いがなくならないのなら化粧品に対面販売もなくなりはしないかとも感じました。