年金のルーツ 日本最初の企業年金は意外にも、私が勤めた会社

 国内で最も古い企業年金の給付記録が近江商人発祥の地の一つ、滋賀県蒲生郡日野町の商家から見つかっていたそうです。私の母方のルーツは近江で、そこから都に流れ明治期以降に小間物や薬の商いをしていたので、近江商人には興味がありました。
 見つかったのは、関東に十五店舗以上の造り酒屋を営んだ近江日野商人の鈴木忠右衛門が、明治三十三年(1900)に退職した勤続四十五年の従業員に渡したとみられる「慰労状」(写真)です。
 これによると、謹厚をねぎらった上で、亡くなるまで毎年百円(現在の十万円相当)を支給し続けるほか、本人亡き後も遺族に半額以内を終身支給することを約束したもので、「終身年金」の記載が見られるほか、「遺族年金」に当たる内容が記されています。
 さらに、別の商家からも「退職年金」に相当する幕末の史料が見つかり、「退職年金」の最古とされた昭和二十四年から百七年も逆上る制度に注目されました。
 現代の多くの商社やメーカーなどの企業に息づく近江商人の質実さと先進性がうかがえます。もちろん、庶民と言えば、土地に縛られた農民がほとんどの時代、縁の薄い遠方で商売をするには、従業員に大変な苦労をされる面もあったでしょうし、その苦労に見合う待遇を定め、人材を確保する面もあったでしょう。
 公的年金という意味合いでは、諸説があり、江戸幕府や各藩も『養老扶持」として支給をしたりしていますが、家族の扶養手当、介護手当的意味合いも強い感じです。現代の厚生年金制度につながるのは、近江商人から5年後の明治三十八年(1905)です。
 なんと、私が勤めていた会社の名前が出てきました。
 企業年金を国内で初めて導入したのは、明治三十八年(一九〇五)の「鐘淵紡績(後のカネボウ、クラシエブランドやカネボウ化粧品などの源流となる、後年カネボウとして知られた紡績会社)」とされています。日本初の企業年金は鐘淵紡績の経営者、武藤山治がドイツ鉄鋼メーカの従業員向け福利厚生の小冊子を1904年に入手し、研究後、翌年1905年に始めました。
 私は、この話を定年退職後、契約で勤めた年金事務所の研修で初めて知りました。40年前にも新入社員の長い導入研修で聞いているのかもしれませんが、当時はそんな歴史があってしかも【年金・共済・退職金】【社会保険・福利厚生】など、若い世代の自分に今関係ないし、まして企業の歴史などどうでも良かったのです。当時ですら、大企業の後塵に近く、戦前日本最大の民間会社で待遇も退職金も日本一素晴らしかったことには同期と愕然として悔しがったことだけ記憶しています。

 
【鐘淵紡績の共済組合制度】
 明治期という早い時期に,一種の企業年金制度を創設した事例です.
それは1905(明治38)年に鐘淵紡績で創設された鐘紡共済組合で,ドイツの鉄鋼会社クルッ
プ社の社内福祉制度を参考に,一般の従業員を対象とした企業年金制度が実施されていたとい
うものです.この制度を創設したのは,三井銀行から鐘紡に転じたのち議員にもなる、武藤山治であり,明治時代にこういう先進的な制度が存在したという事例は,日本では他に類例が全くなく,極めて先
進的でユニークなものであったそうです.
 具体的には以下のような規定を定め,傷病手当や退職年金の給付を行ないました。
「本組合は組合の人々が病気にかかり亦は負傷をなし若しくは死亡し又は老衰のために働くこ
とが出来ずして退社し又は既定の勤続年限に達したる時は夫々定まれる救済をなし又は年金を
給与します.」
 保険料は従業員が給料の3%,会社は拠出総額の二分の一以上の金額を補助するとされてお
り,退職年金の給付要件の部分を見ると,「男子は15年,女子は10年勤続して退社した場合に15年間年金を支給する」などと書かれていました.
 近代の民間企業でこのような相互共済制度が取り入れられるの初めてで、三井や三菱の財閥系企業などにも注目され、その実績が関係官庁や他の企業に出回り他の社も採用するようになりました。厚生省の健康保険法は鐘紡の共済組合制度を骨子に作られたのです。
 その評価は、当時の過酷な労働事情や国策で発展する企業事情でもあり、上意下達であり現代で評価されるほど民主的とは言えないとの評価する向きもあります。
 年金制度に関して,後の厚生官僚は以下のとおり述べている.
「いわゆる本格的な老齢を事故とする年金制度にはほど遠く,いわば一種の勤続年数に応じる
手当金的性格が強かったが,当時の民間企業における制度としては,十分評価にあたいするも
のであったといえる」
(参考)『鐘紡百年史』の121~126P第二編第十一章の二「鐘紡共済組合の創設」等

 三方よしで日本初の年金の原型を作った近江商人を母方のルーツに持つ私が、年金制度を最初に制度化した会社に就職し、定年まで勤めると、その制度を引き継いだ厚労省の所管の年金機構に就職したのも奇しき縁かなと思います。今は少し年金とは別の勉強をする仕事に入っていますが、年金の仕組み、手続きの啓蒙、制度改革には地域の年金委員として興味を持って啓蒙に当たります。
 共済や保険の言葉も知れ渡らない時代から労働時間や環境、生涯の過ごし方も120年の間にどんどん変わり、直近の20年ぐらいでも大きく変わりました。
 社会保障、年金制度へ労働者や国民が受ける恩恵、期待もまた様変わりしています。複雑になりすぎて、人間の欲望とともに混迷の時代かもしれませんが、いつの時代もいろいろ保障や老後、障害などを考えてくれた人がいるのです。
 いろいろ言われますが、日本の社会保障制度はそれほど悪くないのも歴史を見ると良く学び直せます。
 

ホームセンター取引の思い出

カネボウの化粧品会社なので、化粧品専門店はじめ多くのチャネルの取引先を相手にしました。
 そんな中でも、やや異色なことにホームセンターを経験して、業界、独自の商売慣習、を学ばせてもらいました

 ホームセンターというDIYやグリーン、ペット用品などさまざまなイメージを持たれるでしょうが、ワンストップで買い物ができるよう、大型店では食料品や日用品、化粧品に至る間で幅広く商いをしています。
 日用品の扱い額では、花王グループでも関西でいうとコーナンなどが上位に来るぐらいで大きなポテンシャルがあるのです。
 それでも、専門店や百貨店など高級品を扱う、化粧品会社では、異色というより、異端や窓際的に見られた存在の係でした。
 そんな中で、北日本の大手ホームセンターでプチプラブランドのKATE什器を120店展開を決めたのは、同時期の導入としては空前絶後今も破られないディール記録でした。関西に戻ってもコーナンやアヤハにも50以上の展開を決めました。
 GMS,ドラッグストアやバラエティショップにも通用する、バイヤーとの駆け引きや、北海道のホームセンター、ホーマック(現DCM)のSさんやWさん、Nさんといった歴代バイヤー、ライバルであり戦友だったベンダーやメーカーたちとのやり取りで学びました。
 提案の資料や、テンプレなどが、まだまだ今ほど充実していない時代で、パソコンを学び直しながらの奮闘でした。
 机上、ネット上で思考するとともに、実際に買い物ついでや出かけるついでに、ホームセンターのチラシ、店構え、品ぞろえ、客の動線、購買動向を見に行きヒントを得ようと貪欲に動きました。
 それぞれの流通を担当していると、どうしてもその地区のその業種の店が気になりました。今も少し旅などで看板を見ると、「ああ、あの土地、あの企業」となります。

花王の思い出 吸収されたカネボウ

 カネボウの元同僚の後輩には「井上さんたちの世代は上手く逃げ切れた、残った僕らは大変です」と時々耳にする。給与体系はそのままで責任の無い仕事に回され、出世の道がないのは面白くないようなのです。化粧品を売るならいいが、洗剤を並べるのはイヤだという話を未だに聞きます。
 そういうものかと思う反面、化粧品だって重いものですし私なら「洗剤を並べるのもいいじゃないか」と思います。洗剤や家庭用品を学び、売る方を覚え、新しい世界を楽しめばと思います。
 私は定年がもっと先なら長く花王傘下にいたかたtのです。旧来のカネボウではなく、花王での会計責任者の道は狙っておりました。50歳を過ぎ、志願して「未来セッション」や「アカウンティング研修」という若手の会計責任者の教育を、最年長かつ外様のカネボウから選抜され受講しました。
 花王とカネボウは最初は対等合併のようなたすき掛け人事もありましたが、徐々に吸収され支配されたような扱いになっていきました。本社でも、販売現場でも中高年や若手も管理職への道は遠いものになりました。
 カネボウ人事もたすき掛けでだす人材が年功でもあり、まともな人間がいないのですからそんなものだと気付かれるのが遅いぐらいでした。
 もちろん、私も下っ端ですからいろんな流れを後で漏れ聞く噂です。
 しかし、残念ながら私の花王での会計への道は、カネボウにそっぽ向いたように花王の勉強ばかりしたので、最後は年齢で無理ではなく足元のカネボウ側の推薦が得られなかったので途切れました。
 かくて、花王のIFRS会計、EVA戦略、DX推進、マイクロソフトTEMSを使ったコミニュケーションなどまで学んだのはもったいない話ですが、無駄になりました。私個人よりも企業側、花王にもカネボウにも惜しい話だと、勝手に自負しています。私にとっては、口惜しくもなくいい経験、勉強をさせてもらいました。
 コロナ禍の対面販売縮小、テレワーク、ブランドの統合なども5年前にみていた未来です。
別に「不思議」が起ったのでも何でもないことに、あたふたする社会、驚いている同期や後輩が何だか哀れなほどに見えました。
 花王の戦略がいいとか好きとかではなく、そういうものなのです。給料もらうならそれに従うだけのものです。
 カネボウの人達にも私などより、もっと優秀で頑張れる人はいたのでしょうが、結局企業の病、宿痾のようなものに犯され、多くの中高年や無気力な若者と同じように、負けたと思った瞬間に努力することを諦めたのではと思います。
 だからこそ情けない、今妬みと嘆きで不平不満、文句ばかりいいながら居残る人は、元々「カネボウ」にだけいて化粧品を売るためだけの人生だったのか、慣れた仕事を続けたいだけならどこの大手企業も甘くはないのです。まして事実上倒産の会社、リストラされそうな人材は覚悟を決めて備えて努力しないと、仕事すらないのは当たり前です。この事実を受け容れられない受け容れたくないと思う時点で進歩が止まるのです。
 幸いに会社に不祥事もない会社だったとして、それで幸せかというと、結局そういうものでもないのです。

ハケンの思い出と今

 昔の会社は、大手の化粧品メーカーで販売会社という地区を預かる組織が大きく、各都道府県よりも多い数の拠点があり、それぞれに経営幹部がいて、多くの管理や販売部門と美容教育、派遣先で商品を販売する美容部員がいました。そのため、経理や総務も独立した課を持ち事務員を何人も抱えていました。
 それでも正直なところ、昭和の時代は大卒女性の就職がまだ少なく、事務職も美容部員さんも高卒か短大がやっとでした。戦前からの大きな会社で福利厚生もそれなりなので、事務員で勤めていても、美容部員も取引先に『派遣』はされますが、ほとんど正社員で派遣社員ではなく、自営をしているよりも福利厚生含めて待遇としては良かったかもしれません。
 確かに電話で受注を受けて、発伝するとか集金もするという今では考えられない事務や営業もしていました。しかし、平成も10年ぐらい過ぎると、ITというかデジタル化が進み、バックヤードでやることも変わり始めました。
 経理も地区本部や本社に統合され、拠点での事務はどんどん減り、それでもワープロを打てずExcelもでき無い幹部の書類作りなどをやっていました。
 取引先は爺さん婆さんの個人経営の店主流から、ドラッグストアなどの企業中心に移行して、相手のシステムについて行くなど、さまざまなITへの対応も求められました。
 社会はその頃から、産休、育休の代替要員も必要な時代に入り、事務や営業補助に「派遣会社」の人も契約され続けて2度ばかり地区営業の拠点に来られました。

 篠原涼子さん主演で「ハケンの品格」というドラマもありましたが、とても優秀で素早く仕事をこなし、休業中の前任社員の倍、いや数倍役立つスキルをもっておられました。残念ながらその差は誰の眼にもあきらかになりました。休業中の方はどちらかと言うと人は良いのですが、『どうやりましょうとかどうしたらいいのでしょうとか、Excelのやり方わかりません』と販売や先輩方の時間を食う存在でした。そのハケンの方は、1を聞けば完璧に10以上をこなし次の10は何か想像でき、かつ社員を立てながらも次をうまく効率よく提案する方でした。
 大変難しい問題ですが、事務職の方も、販売系の幹部に至っても、そもそも年功序列です。パソコンスキルはもちろん、トラブルへの対処など能力が無かろうが正社員の給与、待遇は良く、無期の雇用が決まっており、人員も限られていますから続け様にアクシデント的な休暇を取る人がでない限り、派遣契約が切れたらその人は職場を去ります。
 いろいろスキル、小技のような工夫、細かいノウハウを持っている方や、そもそも入力作業が早くて正確というレベル違いを見せつけられても、残念だなと思うだけで仕方なく、戻ってきたママチャリのような速度の人にF1の速さを求める術もありませんでした。ママチャリが降らついて倒れないのを見守るだけでした。もちろんママチャリの維持費、年俸は高く賞与も退職金もあるのです。
 多くの会社、役所でも似たようなことは起こっています。場合によっては、派遣会社のマージンが惜しくて、それすらできない会社もあります。社内研修や仕事の振り分けとそれに見合った報酬があればそれも良いのですが、多くは年功序列の旧態の場合が多いのです。逆に派遣を上手く使う会社は、仕事の本質や休暇制度、福利厚生が良く分かり、人材も成長し企業競争力も高いのです。
 今は正社員、とくに中高年が余り、AIがますます仕事を奪う時代です。とりあえず新卒を雇い長く勤めれば高給になるメンバーシップ型の雇用ではなく、能力やスキルに優れた派遣社員をピンポイントで雇うジョブ型雇用の方が経営効率はいいのです。しかし、日本ではまだ終身雇用的な就職も多く、正社員の年収が800万、派遣だと400万下手すると200万などということで、それほどのプロ級の契約型の社員も実際にはあまりいないのです。当面は正社員が派遣に負けずコツコツとスキルを磨き、貢献してもらうしかないのです。

可愛いママさんがバリバリ働く時代 働き方の変化 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

朝ドラで描かれた検察の暴走「法」の正義、「共亜=帝人事件」鐘紡社長もウラに

 NHK連続テレビ小説「虎に翼」は、日本初の女性弁護士・三淵嘉子をモデルにその半生を描いた、登場人物やドラマ中で起こる出来事は史実に基づいているものもあります。

【共亜=帝人事件とは】 

 ヒロインの父が贈収賄容疑で逮捕され、「共亜事件」という政財界を揺るがす大汚職事件に巻き込まれます。この「共亜事件」のモデルは、1934年に実際にあった「帝人事件」です。台湾銀行が保有する帝国人造絹糸(現帝人)の株式が不正取引され、その売却益が政財界にばらまかれたとする贈収賄事件だったそうです。実際にはヒロインの父親が勤めていたとされる銀行には逮捕者はおらず、父親役のモデルはある程度政財界に関わる大物実業家の複数のようです。
 事件の逮捕者は1年近く勾留され、検察から過酷な取り調べを受け、裁判前の予審ではほぼ全員が自白していたが、1935年に始まった裁判ではいずれも罪状を否認し、1937年に確定した第一審判決では起訴された全員が無罪となりました。判決を言い渡したのは後に最高裁判所長官となる石田和外裁判官で、石田が判決文の中で用いた「水中に月影を掬(きく)するが如し」という劇中では松山ケンイチが表現した言葉が象徴する通り、水面に映った月を掬(すく)おうとするような虚構の事件だったということです。ほぼ全員が虚偽の自白をしてしまった背景にある拷問の内容や、留置場での異常心理についても、ドラマで描かれ父親役の岡部たかしさんが制約も多い地上波で好演していました。ソ連から輸入された「革手錠」なる拷問器具は、皇太子時代の昭和天皇の暗殺を企て、死刑となった極左テロリストに初めて使われ、2番目に使われたのは帝人の役員の永野護、公判部分ではヒロインの父のモデルとされる実業家の一人だったそうです。
 帝人事件は、「虎に翼」のテーマでもある「法」が正しく機能し、裁判所が公明正大な判断を下した事例として史実に刻まれています。
 法廷や、逮捕、報道も現代とはだいぶ違い、女性の弁護士がまだいあない時代で人権が制限されていたのも良く分かります。

新聞社を経営した鐘紡社長 武藤山治


 ドラマの中でもヒロインと関わる新聞記者が出てきますが、今では検察のでっち上げとされる帝人事件は、そもそも時事新報という新聞社が特集した記事の中で報じた帝人株を巡る贈収賄疑惑がきっかけでした。
 時事新報は福沢諭吉が1882年に発刊した由緒ある日刊新聞だが、「朝日新聞」や「毎日新聞」などに読者を奪われ、関東大震災以降、部数と業績は低迷していました。そこで1932年から経営を引き受けたのが、諭吉の弟子で鐘淵紡績(カネボウ化粧品、クラシエホールディングスの前身)の社長を務めた武藤山治でした。部数立て直しのために武藤が打ち出した目玉企画が、「番町会を暴く」という帝人事件をはじめとした政財界の不正や、知られざる黒幕の存在を糾弾する今でいう暴露型の連載記事でした。
 武藤は鐘紡という兵庫紡績工場の支配人から、日本一の会社に拡大した企業家であり、若い頃から言論や政治にも興味を抱いていた方です。経営者としても優秀で、次々と日本や上海の工場を傘下に収め、日本初の企業の「共済組合」(年金や健康保険)や「社内報」を作ったとされています。
 しかし鐘紡では成功した経営も、新聞の業界では経験もなく、正力松太郎の読売などが政財界に結びつくことへのやっかみと焦りもあったという話もあります。
 当時の斎藤内閣は犬養毅暗殺後所属した立憲政友会からも、対抗する立憲民政党からも閣僚を入れる「挙国一致内閣」を組織し、軍部との対立を避け、国内政治と経済の安定を第一の目標とする方針をとりました。ところが、立憲政友会の右派(対外強硬派・武闘派)や、陸軍や右翼グループらは、そんな斎藤内閣に不満を抱いており、倒閣を企てそこででっち上げられたのが帝人事件であり、それに乗っかってしまったのが時事新報だったという見方が現在では有力です。ちなみに武藤は「番町会を暴く」の連載開始から3カ月後、元外交員で失業者の福島新吉に銃撃され5発の弾丸を受け、翌日れ66歳で没しています。武藤を庇った秘書も即死、銃撃した福島も自殺し、背景は私怨なのか帝人事件なのかも闇です。ドラマではステレオタイプの悪役に描かれている事件の主任検事ですが、そのモデル?黒田越朗も公判中に殉職するなど、複雑怪奇な事件とされる官僚の闇の部分です。
「法」が正しく機能したと言われますが、斉藤内閣は倒閣されてしまい、中国とも事実上戦争に入り、日本は右翼、軍部が台頭する暗い時代へ進みだします。
 この時、文部大臣を辞任しているのは戦後総理大臣になる「明鏡止水」と明言を残した鳩山一郎、宇宙人鳩山由紀夫のおじいさんです。
 武藤山治の子供、武藤絲治も戦後乞われて鐘紡の社長を務め、最大の戦争被災の会社を多角化で引きあげますが、先日訃報のあった伊藤淳二のクーデター(城山三郎「役員室午後三時」のモデル事件)で社長を退きます。カネボウの社史を語る場では同じ読みの「むとうさんじ」なのでややこしく「やまじ」「いとじ」と呼びわけていました。
 歴史や社史では何が正しいのか、事実なのか良く分かりません。ダイヤモンド社の雑誌記事も参考にしていますが、wkiやカネボウの社史と比べても細部は違います。省略しながら書く故に誤解で伝わったりする悪意のないモノから、読売や朝日が伝えているものですから時事新報は「悪役」「泡沫」扱いで歪曲されている可能性があるとも思います。
 政治や官僚、当時の軍部やそこに裏で動いていた闇の世界に何があったのかはもう誰にも分らないでしょう。


 

コイバナ? DV離婚?大阪で酔いつぶれた可愛い人 

 化粧品メーカー時代の大阪での最後に近いコイバナ 都会であることは変わりないのですが大阪の街と京都の街の違いは何なのかと思うと、大阪は関西のおばちゃん含め人が多く、海が近いので川幅の広いこと、あちこちの地下鉄と高架の都市高速が走っていることでしょうか。
 大阪時代に一番美しくスタイルも良かったのは前に書いた伊東美咲似スーパーモデル級のIさんだったとは思いますが、同時期に一緒にお仕事させてもらったOさんは高くとまる感じの無い母性的で可愛い人でした。
 Oさんははじめて仕事で一緒になったのは、応援で行った滋賀県の事務所でしたが、その時の新しい配属で戸惑うとても優しい声で私の名前を呼んで、満面の笑顔で迎えてくれました。色白の童顔で優しい表情なのですが、スレンダーというよりはグラマーという言葉が合うような体系の人でした。男性目線で恐縮なぐらいですが、大きな胸をされていて、歩くと胸も揺れますし、タイトでやや短めなスカートでよく柄のあるタイツを穿かれ引き締まった脚でモンローウォークのように歩く後ろ姿もコケティッシュさがありました。
 仕事ぶりも真面目で献身的で、美容教育のスタッフとして企業相手の企画や商談に現場目線でさまざまな情報を集め、勉強をして考察してくれていました。その相談や提案を持ってくるときの声と表情の愛苦しさには癒されました。
 Oさんの仕事である美容の情報に関して、メーカー主導のヨイショ系雑誌ではなく、私は自分でLDKなどのメーカー忖度のない雑誌やネット記事を共有して密に協力していました。彼女の主宰するセミナーや社内外の教育は好評を得ていたはずです。

 それでも教育スタッフの上司は厳しいパワハラ系の女性、セクハラ系の幹部、取引先もあって大変な面もあったようです。
 ある時は、肝心のその優しい声が全くでなくなり、筆談で過ごしておられるときもありました。その体調の変化は1~2週間は続きました。
 また、ある時な声をかけるにはややためらうのですが、タイツのおみ足に痣のようなものが見えることがあり、「ケガをしたのか」と聞くと、「いろいろな病気と付き合っているんです。気にしないでください」とやんわりと優しい声のままでも毅然と返されました。なぜそれならスカートでなくパンツを穿かないかとも思うのですが、足が太く短いのでパンツスタイルはとても嫌なのだそうです。このあたりの女性のこだわりはわからないものです。
 後で噂のように聞きましたが、OさんもIさん同様に、子供がありながらも離婚されていて、原因は配偶者の暴力いわゆるDVだそうです。
 Oさんの体調不良や脚の痣が何が原因かは訊いていないのでわからないままです。
 ある夏の夜だったと思います。大阪の街で同僚とお酒を飲んでいて店から出てあるいている時、別の女性グループの飲み会の帰り道に遭遇して、大きな声でOさんに声をかけられました。足元もふらつくほど心地よく酔っぱらっていて、私に寄りかかってきました。
 Oさんは他の面々には、私に送ってもらうように告げて、ほとんど抱きついてくるような感じで私に支えられました。
 普段社内では清楚でコツコツと仕事をするイメージなのが酔って豹変した感じで「ダイジョウブ、大丈夫、まだ飲める」とも言いながら呂律もまわらないぐらいですが、しかたなく他の連中とは「お持ち帰り」のような印象で見送られて、もう一軒二人でハシゴ。
 さんざんそこでも飲んで、しばらく中央大通りの高架から、空を見上げながら歩きました。こちらも酔っていますし「大阪で生まれた女」「悲しい色やね」的歌詞で、酔いしれるフォークソングか演歌のような世界です。
 聞いていた法円坂のマンションは御堂筋の本町から地下鉄で終電までは時間もあり、たった2駅です。タクシーには半端な距離ですが地下の駅までの上り下りが面倒です。歩けない距離ではないのですがここまで酔っぱらってる女性をつれて大阪の深夜を2駅間も歩くのもまた何とも微妙です。やはりタクシーかと思いましたが、案の定近場NGで3台拒否、あきらめて地下鉄の駅に戻りふらふらの彼女を引っ張ってエレベーターを探して歩き、何とか肩抱いて改札をのけて電車まで行き座らせると寝そうになるので話しかける。駅につくと立たせて下ろすのが大変で火事場のクソ力よろしくお姫様だっこで抱えながら電車をおりてエレベーターから改札を目指し、ようやく少し歩けるようになったのでマンションまでの部屋まで何とか送り届ける。
 そこでさすがにこちらも酔いも回り、体力もつき、京都まで帰る方法もホテルを取る思いつかないほどで、彼女をとりあえずはベッドに寝かせると、ソファーなのか絨毯なのかにばったりでした。


 翌朝は気まずい「やってしまった」状態で、あんまり何も覚えてない彼女ですが、さっぱりした爽やかな対応でシャワーを用意してくれて、朝食を準備してくれました。
 簡単な朝食をとって、別々に出勤でした。
 それ以降は、Oさんとは少し距離おいて深酒やめていました。
 Oさんは当時のパワハラ上司は更迭されて、その後のポストに就かれ、管理職の道に進まれましたが、その後は知りません。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

阪急電車10分間のコイバナ – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

追悼:伊藤淳二元カネボウ会長  書評『天命』

 

 先日99歳で亡くなられていたという報道があった伊藤淳二(いとう じゅんじ)氏は、私が入社した時の鐘紡の社長でした。1922年(大正12年)中国青島生まれで、戦後すぐの1947(昭和23)年、慶應大学卒業後に鐘淵紡績(カネボウ)に入社され当時のオーナー社長・武藤絲治(むとう いとじ / 1903〜1970)の後継者指名を受け、1968(昭和43)年、45歳の若さで大逆転、クーデター人事で社長となった人物です。カネボウは経営多角化を推し進め、1984(昭和59)年、会長に就任、社長就任のストーリーは城山三郎のビジネス小説『役員室午後三時』 主人公藤堂のモデルとなりました。
 

 1985(昭和60)年の御巣鷹山の日航機事故後、政府(中曽根康弘首相)からの強い要請で日本航空副会長(翌年に会長)に招聘される。わずか1年で辞任しました。この経緯が山崎豊子『沈まぬ太陽』- 登場人物の国見会長のモデルとなりました。だいぶ美化されて、映画では石坂浩二が演じ繊維工場でを自ら糸を扱い差配している場面がありましたが、この当時すでに現場にいるような人ではなく、随分とデフォルメというか男前に描かれ映像化されていました。

 伊藤氏も今ではすっかり過去の経営者扱いですが、著名な作家の小説のモデルに二度もなった人物はそういないでしょう。 屈辱的失敗で日航会長を解任され、カネボウ専任に戻られるのですが、その後も会長として院政をはり、過去の成功にとらわれ傀儡的社長がコロコロ変わるだけで改革が進まぬまま、坂道を転がるように、事実上の経営破綻に落ちます。

「天命」は論語をはじめ彼が出会った様々な含蓄ある言葉を中心に生き方を著しています。多く方の書評や最近のコメントではその中身は古臭いという、褒めていても古き良き時代的なものです。時代としては少しあとになる稲盛和夫の著作に比べても、難解で衒学、知的顕示欲の強さが垣間見れます。
 ちなみに伊藤淳二は、社内で「知命教室」という幹部勉強会のようなもの、論語プラス経営という頭の痛くなるようなのをやっていて、それも社内で冊子が出回ってきて、ヨイショ的な内容が多いのですが、やはり博学であり衒学趣味でした。


「美しい人生とは美しい晩年を送り得る人、人生の一瞬一瞬をかみしめ「今」に燃え、毎日毎日を精いっぱい送る人であろう」という言葉には、大いに共感する部分もあります。

 しかし彼の晩年はどうだったのでしょう。博学でもありますが、稲盛和夫のフィロソフィーに比べると点が線につながらないような少し現実と合わなくなって、経営者としての評価は随分下がりました。
 自己顕示欲が強すぎ、後輩などの意見を受け容れての修正が難しいところがやがて綻びにつながったのではと思います。
 現実の社会は論語に心酔する一流大学出の向学心溢れた人間ばかりではなく、礼節や忠誠よりも私欲が優先するのが通例です。伊藤の思い、考えは本当の意味で浸透するわけではなく、権力者への盲従に支えられていたのかもしれません。

 そして、「未完の如くして完結して居る。果たされない様で果たされて居る。大切なことは、その時、自分の可能性の全てを尽くしたか否かであるように思う」という言葉で『天命』の最後を締めくくっています。
 日航会長時代でミゾをつけ、結局は鐘紡の栄華さえ砂上の楼閣のように崩れ去り、最後は大株主として元経営者として情けないような泥仕合も見せてしまいました。それでも未完と言っている以上矛盾ではないのかもしれません。
 未完であるが一時代を築き、実はそれなりの完結をしている。99歳まで永らえ、目的を果たし得なかったそういう生涯がありかもしれないです。

伊藤淳二と稲盛和夫 日航改革二人の明暗 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

西武大津店の思い出

 西武グループの創業者・故堤康次郎氏の出身地である滋賀県に、県下初の百貨店として1976年にオープン。開業初日は約13万もの人が詰めかけたことからも、県民からの期待がいかに大きかったかがうかがえます。
 先日びわこ博が小学校3年生の時、大阪万博1970年が小学校の5年生でしたから、私はオープン当時は高校生だったのです。
 当時は京都の大丸、高島屋、藤井大丸、丸物といったデパートしか知らず、多層建ての繁華街にある形態ではない西武は新鮮でした。
 高島屋や大丸といった老舗が高級品も扱いながらも、子供向けの玩具売り場や食堂、遊具が充実していたためか、売り場としての西武百貨店はやや物足りない感じもありました。その後トレンディとか言われるブランドが席捲する少し前の話です。
 その後、会社に入り滋賀県で営業にも周り、30歳てま頃、平和堂や当時でき始めたダイエーや西友なども担当した後西武百貨店も担当することになりました。
 今思うと、バンカラな野暮ったい独身でしたが、滋賀で最も垢抜けた商業施設を背伸びして担当させていただきました。
 当時、カネボウ化粧品としても初めてHF(アシェフ)という百貨店ブランドを作りようやくチャネル別流通に力を入れだした時でした。全国的にも百貨店ではそこにしかない外資が強く、そこら中の店にあるカネボウや資生堂は差別化に苦戦していたのです。今では考えられない強引な販売方法のアプローチデモというのが頻繁に行われ、普段は2名体制の派遣でしたが、デモやイベントだと各課の美容部員が動員され、ノルマがかかり大変いキツイ仕事でした。会場の設営、撤去、毎日の朝夕礼もあり休日フル出勤となり、当時会社の拠点は彦根になったため彦根と大津を何度も往復しました。実家が京都なので実家に戻って通えばといわれましたが、大津~京都もハンパな距離で携帯もパソコンもない当時は家に帰ると連絡などが厄介でうまくいかないものです。
 それで実家の電話で長話して、また返信があると取り次いだ母が、「彼女」かと期待した子もいますが、それは全くの誤解でした。

コイバナ? 仕事のパートナーはスーパーモデル 大阪時代

 本人も日本人離れした体格の大谷翔平選手、奥さんも元アスリートで高身長の美人でした。
あそこまでの体格のお相手だとさすがに150㎝ぐらいの女性だと釣り合わないように思います。
 もちろん、身長差のカップルも世の中にはあります。女性の方が背が高い場合もあります。
 私自身の好みとか言っても始まりませんが、170㎝ちょっとなので、横に並ぶのは160ぐらいまでがやはりいいように思います。今までお付き合いした女性も全て150センチ前半で、まあ平均的な日本人女性か、少し低いぐらいでしょうか。
 時代が移るにしたがい、同じ身長でも足が長くスタイルの良い方が増えだしました。
 初恋をしたような時代、同年代の女性たち昭和の女子は、みんな当たり前に小さく丸っこい感じでしたが、今の女優さんやアナウンサーの人や、大卒の子らは本当に細くてスタイルもいい。
 私はあんまり背が高くてスタイルの良い美人系は苦手で、化粧品会社でもそういう人は「ああキレイだな」ぐらいで全くつき合えるとか思いいたらず、かえって落ち着いてそっけない態度になってしまうようでした。その態度が結構、冷静で安心感を与えて好感を持たれた時があります。
 ある時、大阪で勤務しているとき、当時でいうと伊東美咲さんや武井咲さん、今はキャスターになられた膳場貴子さんのような本当に女優さんやモデルさんのような女性Iさんという方がおられました。私が少しお茶ら気を淹れながら毎月企業対策のプレゼンをするのをとても熱心に聞いておられ、上司を通じてその伊東美咲さん(仮)が「とても楽しみにしている。井上課長(当時)が大好き」と伝わってきました。
 確かに、当時企業としても自主回収白斑の対応もあり厳しい仕事が続いていて、私のプレゼンは一服の癒しだったようです。それでも、男女の「好き」である年齢ではありませんし、お互いに結婚もして子供もいるのでそういう意識は全くありませんでした。
 顧客や部下の対応に北大阪地区を同行して回る機会もあったのですが、気楽に打ち合わせがてら食事にも行き、送って帰るような時もありました。
 しかし、どうも社内では変な噂が立ちました。困ったことに伊東美咲さんは、ビジネスネームこそ変えていないのですが。中学生のお子さんはいらっしゃるものの離婚されて、バツイチのシングルマザーだという話なのです。
 確かにスタイルも良く美しい人ですし、あざとい裏の顔があるとも思えないタイプなのですが、このまま沼に落ちてしまうのは悩むところでした。
 結構多くの男性はこっそりと不倫に入るような会社でしたが、そこはもうちょっと私には無理でした。身長は私と釣り合わないくらい高くはなくて160㎝ぐらいまでですが、やはり私には150㎝ちょっとの平凡なスタイルと容姿のお相手が分相応なのです。
 

コフレドール生産中止 ブランドメイクの盛衰

 私のいたカネボウ化粧品は4月1日、メイクアップブランド「コフレドール(COFFRET D’OR)」の終了を発表した。朝のニュース番組で大きくコーナーで取り上げられ、それを受け街頭インタビューやSNSでは終了を惜しむ声が多数寄せられ、Xでは発表から半日経ってもブランド名がトレンドにランクインし続けていました。
 すでにシーズンキャンペーンでの宣伝広告は減り、新商品も細々でフェイドアウトの傾向だったので個人的にはこれほど騒がれることに驚きます。
 若い方はさまざまなプチプラなど使っていて、ここで惜別の声を上げるのは少し年代高めかと思います。Xでは「下地が優秀で何本リピートしたかわからない。先週も購入したばかり」「下地で使っていたから今後どうしよう」「チークはずっと“スマイクアップチークス”だったのに」「“スキンシンクロルージュ”の代わりになるものが見つからないよ〜」と、愛用者による嘆きと戸惑いの声が。ドラッグストアのカウンセリングブランドはメイクアップの入り口になることが多く、「高校卒業して親元を離れる時に、母と一緒に選んで最初に買った初めての化粧品が『コフレドール』でした。ありがとう」「社会人になるにあたって母がへ商品一式買ってくれた」など、人生の節目を振り返るユーザーも相次いだと報道もされています。
 マスコミの分析では、
『消費者の低価格志向が顕著になり、1000円前後の商品が売り上げを伸ばす一方、ドラッグストアのボリュームゾーンである2000〜3000円台の中価格帯コスメは苦戦を強いられてきた。そこに韓国コスメやD2Cブランドが台頭し競争は激化。一方、コロナ禍の影響でリベンジ消費や高級志向が高まり、化粧品市場は低価格帯の“プチプラコスメ”と高価格帯の“デパコス”への二極化が進み、中価格帯コスメの存在感は希薄化していた』などとされています。

「コフレドール」は2007年に資生堂「マキアージュ」に対抗して誕生しました。
 今回、花王グループのブランド統廃合と言われていますが、20年ほど前この時も大手化粧品メーカーはブランド乱立で、煩雑になり新規客はとってもブランドは伸びず在庫過剰を招いたため統廃合をはかったのが2メーカーのメガブランドができた背景です。「マキアージュ」は2005年にベースメイクの「プラウディア」とポイントメイクの「ピエヌ」を一気に統合した感じでした。この英断と過去最大級の宣伝費を投じ,モデルには女優の篠原涼子、伊東美咲、蛯原友里、栗山千明の4人を競演させ強力なインパクトで市場を席捲した。この攻勢を食らったライバルメーカーのカネボウ化粧品も、相手を分析し逆襲をかけたのが2年後の「コフレドール」だったのです。
 落ちない口紅でヒットしたポイントメイク「テスティモ」と、ベースメイクの「レビュー」を統合した形で、CMには人数では上回る5人の旬のモデルの競演で対抗したのです。沢尻エリカ、 中谷美紀、常盤貴子、 柴咲コウ、 北川景子と今考えにくいでメンバーでした。
 当時の価格帯が現在よりも1000~1500円程度高いのによく売れていたのが平成半ばなので、そんなに時が経っていないのにここでも時代を感じます。
 個性的な良い商品も出しましたが結局、あくまで資生堂の後追いで、在庫問題なども解決できずカネボウは衰退の時代に向かいました。
 そして、カネボウ化粧品自体がその後、花王に吸収され一つのブランド会社になってしまうわけです。

 現在はリップやチークなどのポイントメイクと、ファンデーションや化粧下地などのベースメイクを取り扱っている。ブランドによると6月から順次生産終了となり、12月末を目処に販売も終了する。