公務員なら37年も続けられなかっただろう

 会社時代の上司が、年賀状に「前立腺がんで4カ月半入院した」と記されていました。電話をしてみると。大変感謝され懐かしがられました。
 しかし、まあ若くして切れ者の本社エリートから関西地区の総責任者となり社長候補の一人とまで言われた方でしたが、声や話の内容はさすがに老いた高齢者のものでした。
 10年ぐらいの先輩やそれ以上の方は、激務をこなしながらも60歳で定年で少し楽な延長をして優雅にリタイアされている方が多いです。この上司の場合は職階も上ですが、10年くらい上の世代になると、退職金や年金の額も違いますし、関連会社も含め、終身一企業でしか働いていない方が多いです。

 平均寿命も違いますが、先輩方も定年後優雅な年金生活と思われても、楽しむ期間は意外に短く、鬼籍に入られたとか、患われている方もよく聞きます。

 65歳にして、「裁判所でフルタイム事務官やってます」などと言うと、驚くあきれられる反応がよくあります。

 私の場合60歳で、再雇用は選ばす民間企業を定年で退職しました。同年代にも、そのまま勤め無い人もおれば、再雇用の道(役員や、定年なしの会社の人も含む)を選んだ人もいます。私は65歳の今の年度まで5年別の仕事で働いたことになります。
 アルバイト含め、こういう働き方の人もいます。もちろん、自営業など、まだまだ働いている人もいますが。大学を出て37年の60歳、42年の65歳区切りをつけた方は多いでしょう。
 42年同じ会社という方にも尊敬と驚きに値しますし、その方はそれが当たり前と卒業されたのでしょう。
 私が37年で定年でも、いい加減長い間という感じでした。プラス、5年の中で今は裁判所公務員の2年目です、年金事務所も公的機関なのでみなし公務員とも言えます。37年民間企業で5年公務員のようなものです。

 公務員的難しさ、楽さや良い面もありますが、大卒でそのまんま公務員だったら37年は勤まらなかったとは思います。今やってみて公務の新鮮さと面白さ、合っている面もありますが、やはり長くは無理です。飽きます。高校、大学時代からもっと勉強して官僚とか裁判官とか検事、公立施設の仕事とか目指すなどというのは、も生まれ変わっても間違っても選びはしないでしょう。

 民間企業だって、大手とは名ばかりでカネボウという会社はブラックで入社した時からもう経営は傾き破綻の道でバブル時代の恩恵もありません。公務員よりは賞与も給料も少ない時代が長かったですし、倒産しそうになり賞与が止まり、給料一律減額という時もありました。
 それでもやはり自分は企業で売上を伸ばすためとか、企業業績のために、いろいろブランドやマーケティングを身につけて、提案のスキルを磨き、仕事してきたのが一番性に合って、輝いていたとは自負しています。

 でも人生はいろいろです。この年になって公務を選んだ人と、出会い関わったことは本当に良い経験でした。
 今年は66歳を迎えます。健康寿命というといろいろ考えないといけないですが、これからも何が起こるのか楽しみです。

「逃亡」「争議」から「バレーボール」近代日本を担った産業とは

 年末年始、少し休みも長いので、多読乱読しようと、いくつか目を引いて手に取った本を買ったり、借りたりしました。

 なぜ、東京なのかというとあまり意味はないのですが、あえて薄い線でいうとべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜つながりの江戸でしょうか。
 実は、この本の第Ⅱ部第6章において40ページ弱も割いて「女工たちは語ることができるか」と題して、紡績工場とそこで働く女性労働者のことが書いてありました。

 退職直後なので5年ほど前に、カネボウの昔を調べ、創作をしようとして紡績工場の労働実態を調べようとしたことがあったのですが、現代文で書かれた物が少なく難解でお手上げでした。
 その時、あたった文献も含め、平たく、鐘紡も含めた紡績工場の女工とその労務管理について書いてあります。

 日本の近代化への道を支えた紡績、繊維産業がその成り立ちからより理解しやすくなっていますし、東京綿商社という鐘紡の前身が他の工場とともに墨田川べりに当時としては大規模な工業地帯を形成していた時代があったのです。

 当初、士族の娘が、女工についたのですが、工業化と社会の変化で女中奉公も減り、女性の働き口として人数も求められて、大規模化し組織化して、過酷な労務管理下におかれます。

 逃亡や脱走もあった中、「虐待」など過酷なものもあったようです。やがて労働争議という問題も出だします。鐘淵紡績は武藤山治社長の時代に、労使協調路線を先駆けて打ちだし、労働者の待遇改善、福利厚生に取り組み、民間企業では日本初の年金制度も取り入れました。
 大正中期には、各地の工場が、女学校の寄宿舎ぐらいの団欒とした集団生活で規範もでき、教育や娯楽も備えて、何年かすると嫁入り支度が整うか、監督や主任職に回るキャリアができていました。
 その娯楽のひとつに「バレーボール」もありました。当初は設備もコーチも整った裕福な子女の通う高等女学校の強かった競技が、やがて紡績工場の強豪チームが主役となります。戦後の高度経済成長期までをリードした繊維産業、紡績工場のチームが東京オリンピックも主力だったのはうなづけます。
 男性の過酷労働は、鉄鋼や化学工場や炭鉱労働などこれまたさらに体力を要し、危険なものが沢山あり、それらももちろん日本の近代化を支えました。鉱山労働の方の年金制度も早い段階で危険なものと認定され、手厚く進められました。

 戦後と簡単に括りがちですが、東京や大阪のビル群や洒落た街並みも50年ほどさかのぼると泥臭い工場だったのです。日本は、そういう汗と泥の中から、発展したのです。

高度経済成長の日本をリードした紡績会社 ユニチカも繊維から撤退

 昨日、大日本紡績→ニチボウ→ユニチカと名前を変えた会社が大幅な収支改善のため、経営陣の交替と、繊維事業からの撤退がニュースで流れました。 1964年東京オリンピック、女子バレーボールで金メダルをとったニチボウ貝塚の選手や、同様に2005年に繊維か撤退したナレとともに懐かしいカネボウ長浜工場に在りし日の映像も流れました。

 2005年当時、カネボウの解体を知る身には懐かしくも切ない感慨と、遡れば日本の時代の流れを感じます。

これは1962年の十代紡と言われた天然繊維、綿紡績会社の標章、看板か新聞公告のようなもののようです。三大紡が鐘紡、東洋紡、大日紡と言われることもあります。

 日本の近代化を支え、戦後間もない頃まで日本の復興を支えたのは綿紡績で、繊維産業がその工場の女子労働者の汗水たらした力によるものでした。

 103万円の壁や、在職老齢年金の問題、兵庫県知事選のSNSでの公選法違反疑惑など書きたい内容も多い中、テレビメディアもいつかは、完全にネットの下になり、こんな感じで、2024年のキー局とか懐かしまれる時代がくるかもしれまえん。

 栄華を極めて、各県にも次々に系列局を増やしたテレビ局も、もう広告料でネットに負けました。それだけ、誰もみていない儲からない業界になっているのです。そのベンチャーやIT企業も競争も変遷も激しく、早くも初期の勝ち組は衰退している場合が増えています、

 産業で見る時代の変化は面白いです。今の若い人は40年50年、勤め上げる業界を探すのは難しいでしょう、それは昔も今もそう変わりません。

社員を大切にする企業は価値がある

 いまだに、業界や業種、職種、企業によってブラックやグレーの待遇のところがあるようです。雇用のありかた、労働管理面でグレーゾーンの多い、営業や流通業は働らきかたとして厳しい業界ですし、感じようではブラックでしょう。
 店舗を構えるということは、土日祝日休みの週休二日とはそうそういきません。それだけをとってもなかなか辛い人がいるでしょうし、ライフイベントの多い子育てなども大変です。
 私もメーカーに勤めた転勤族で、営業畑も長く、GMSなどのスーパー、ドラッグストア、ホームセンターなどを取引相手にしていましたし、名だたる企業の幹部、バイヤーもお相手しました。

 それぞれの企業に特徴があり、ダイエーやマイカル、そごう、ヤオハンなどが消えたのも分かる気がします。逆に、ローカルだった平和堂、イズミが生き残って地域の雄となり、全国区に負けていません。これら残った企業も、決してホワイトではないところも見てきていますし、ジャスコなども公私とも知っている人が多いですが、本当に生き残るのが大変な企業だと思い見ていましたし、イオンリテールとか、イオンスタイルとこじゃれた名前にしても、グレーさは変わりません。それでも生き残る企業はどこか人をうまく働かせる魅力があるのでしょう。

 ギリギリの線ですが、イオンは従業員や、取引先に対しても違法ではないですが、冷たく厳しいと感じます。ビジネスだから当たり前なのです。しかしライバルのイトーヨーカドー、私はよきアイワイといっていたセブン&Iグループは人の部分に負荷をかけず、優しい面があります。
 よく比較されるBIG2で、今はコンビニ中心の収益のアイワイ(セブンアンドアイ)と、大型モールのデベロッパーのイオンで実は比べにくいのですが、収益力や企業価値としてはアイワイが倍ぐらい優れているのです。
 この差も何となくわかります。アイワイはコンビニ以外に、人や手間と場所を使った商売をもうしないのです。本質的にブラックでないのです。
 つまらないことですが、イトーヨーカドーの社食の美味しいことは定評がありました。それに比べて、ひどかったのはダイエーでした。中内氏を評価する声も一部は残りますが、まず人を人を思わない扱いで時代遅れでした。
 そのダイエー、マイカルを吸収したイオンはまだやはり、規模と売上に拘り、人には優しくないのです。それは商品やサービスの細かいところに現れています。
 それでも一方の雄として生き残る、その雑さや人間味が全く嫌いでもありません。何より多くの地域にモールを作り、地域の経済や雇用を支えている。そんな中で魅力的な人やサービスが生まれることもあるから不思議なものです。

イオンのこと 働く女性と結婚 – 天使の星座

営業の倫理 残念なスクープ

 政治やドラマ、10月での半期、季節の替わりなどいろいろ語りたかったのですが、ちょっと最新のニュースで気になったものです。

 共同通信系の新聞に掲載されたスクープですが、
【ドラッグストアを展開する「スギ薬局」が、不適切な免税販売があったとして、名古屋国税局から2023年2月期までの5年間で消費税計約7億円の申告漏れを指摘されていたことが28日、スギホールディングス(HD)への取材で分かった。追徴税額は重加算税を含め8億5千万円。既に修正申告を済ませたとしている。
 スギHDによると、消費税の免税要件を満たさない外国人への販売や、本人確認時の誓約書の管理が不十分なケースが確認された】

 修正申告をしたとは言え、8億5千万とは大金です。ぼろ儲けしているのかもしれませんが、メーカーのわりと大きなブランドの売上に匹敵する金額です。スギも化粧品メーカー勤務時代から、副社長はじめ良く知る企業で、化粧品の社員教育などにも熱心だっただけに、報道に接し複雑な思いです。

 メーカー時代にもあった葛藤ですが、営業などはどうしても売上の金額、コストを差し引いた利益の短期的近視眼で評価されます。
 メーカーにとっては返品さえされなければ、流通に商品が渡ればそこで実績が上がります。現場の販売員でも、目の前で商品がレジを通る金額が大きいほど、自分の評価は上がります。それが丁寧に接客した積み重ねの1万円であろうが、転売ヤーが上手く金額を小分けした10万円✖10であろうと、遠目にはわかりません。

 私がドン・キホーテという深夜早朝含む24時間営業の店を持つ企業を受け持っていた時も、大阪ミナミの道頓堀などで、当時シートマスクや酵素洗顔が外国人の爆買いが始まった時代でした。

 万引きさえされずに、混雑や人目の少ない深夜にうまく品物をバックから、顧客に渡せば売上は青天井に上がることを分かっていた者がいました。独身で夜の時間に融通が利き、それなりに自分や担当部署の営業数字を上げたい知恵なのですが、深夜出勤ということもひっかりました。それとやはり、転売の疑いというモラルの問題も大ありです。

 私はその者を許容し、評価する上司とは意見が真っ向から食い違いました。昼間一日、百貨店で丁寧に接客しようが、POPの工夫をしようが何日もかかっても作れない売上金額を一晩の2時間ぐらいで叩きだすのです。賛否が分かれるのも当然で、私の意見は当時やっかみのようにとらえられました。

 しかし、そんなものがいつまでも許される時代ではないです。それ以前からの取引先に在庫を抱えさせる押し込み商法と何ら変わらないモラルでは、長期的な営業の力も、ブランドの育成もできないのです。

 スギ薬局の報道を見て、ふとそんな少し昔の話を思い出しました。

 人間の運命とはそれなり不公平にもできていて、運不運で実力や努力が評価されないときの方が多いです。それでも自分が頑張ったのかズルいことをしたのかは自己評価できます。時間が経てば、案外不公平はないことがあります。

年金のルーツ 日本最初の企業年金は意外にも、私が勤めた会社

 国内で最も古い企業年金の給付記録が近江商人発祥の地の一つ、滋賀県蒲生郡日野町の商家から見つかっていたそうです。私の母方のルーツは近江で、そこから都に流れ明治期以降に小間物や薬の商いをしていたので、近江商人には興味がありました。
 見つかったのは、関東に十五店舗以上の造り酒屋を営んだ近江日野商人の鈴木忠右衛門が、明治三十三年(1900)に退職した勤続四十五年の従業員に渡したとみられる「慰労状」(写真)です。
 これによると、謹厚をねぎらった上で、亡くなるまで毎年百円(現在の十万円相当)を支給し続けるほか、本人亡き後も遺族に半額以内を終身支給することを約束したもので、「終身年金」の記載が見られるほか、「遺族年金」に当たる内容が記されています。
 さらに、別の商家からも「退職年金」に相当する幕末の史料が見つかり、「退職年金」の最古とされた昭和二十四年から百七年も逆上る制度に注目されました。
 現代の多くの商社やメーカーなどの企業に息づく近江商人の質実さと先進性がうかがえます。もちろん、庶民と言えば、土地に縛られた農民がほとんどの時代、縁の薄い遠方で商売をするには、従業員に大変な苦労をされる面もあったでしょうし、その苦労に見合う待遇を定め、人材を確保する面もあったでしょう。
 公的年金という意味合いでは、諸説があり、江戸幕府や各藩も『養老扶持」として支給をしたりしていますが、家族の扶養手当、介護手当的意味合いも強い感じです。現代の厚生年金制度につながるのは、近江商人から5年後の明治三十八年(1905)です。
 なんと、私が勤めていた会社の名前が出てきました。
 企業年金を国内で初めて導入したのは、明治三十八年(一九〇五)の「鐘淵紡績(後のカネボウ、クラシエブランドやカネボウ化粧品などの源流となる、後年カネボウとして知られた紡績会社)」とされています。日本初の企業年金は鐘淵紡績の経営者、武藤山治がドイツ鉄鋼メーカの従業員向け福利厚生の小冊子を1904年に入手し、研究後、翌年1905年に始めました。
 私は、この話を定年退職後、契約で勤めた年金事務所の研修で初めて知りました。40年前にも新入社員の長い導入研修で聞いているのかもしれませんが、当時はそんな歴史があってしかも【年金・共済・退職金】【社会保険・福利厚生】など、若い世代の自分に今関係ないし、まして企業の歴史などどうでも良かったのです。当時ですら、大企業の後塵に近く、戦前日本最大の民間会社で待遇も退職金も日本一素晴らしかったことには同期と愕然として悔しがったことだけ記憶しています。

 
【鐘淵紡績の共済組合制度】
 明治期という早い時期に,一種の企業年金制度を創設した事例です.
それは1905(明治38)年に鐘淵紡績で創設された鐘紡共済組合で,ドイツの鉄鋼会社クルッ
プ社の社内福祉制度を参考に,一般の従業員を対象とした企業年金制度が実施されていたとい
うものです.この制度を創設したのは,三井銀行から鐘紡に転じたのち議員にもなる、武藤山治であり,明治時代にこういう先進的な制度が存在したという事例は,日本では他に類例が全くなく,極めて先
進的でユニークなものであったそうです.
 具体的には以下のような規定を定め,傷病手当や退職年金の給付を行ないました。
「本組合は組合の人々が病気にかかり亦は負傷をなし若しくは死亡し又は老衰のために働くこ
とが出来ずして退社し又は既定の勤続年限に達したる時は夫々定まれる救済をなし又は年金を
給与します.」
 保険料は従業員が給料の3%,会社は拠出総額の二分の一以上の金額を補助するとされてお
り,退職年金の給付要件の部分を見ると,「男子は15年,女子は10年勤続して退社した場合に15年間年金を支給する」などと書かれていました.
 近代の民間企業でこのような相互共済制度が取り入れられるの初めてで、三井や三菱の財閥系企業などにも注目され、その実績が関係官庁や他の企業に出回り他の社も採用するようになりました。厚生省の健康保険法は鐘紡の共済組合制度を骨子に作られたのです。
 その評価は、当時の過酷な労働事情や国策で発展する企業事情でもあり、上意下達であり現代で評価されるほど民主的とは言えないとの評価する向きもあります。
 年金制度に関して,後の厚生官僚は以下のとおり述べている.
「いわゆる本格的な老齢を事故とする年金制度にはほど遠く,いわば一種の勤続年数に応じる
手当金的性格が強かったが,当時の民間企業における制度としては,十分評価にあたいするも
のであったといえる」
(参考)『鐘紡百年史』の121~126P第二編第十一章の二「鐘紡共済組合の創設」等

 三方よしで日本初の年金の原型を作った近江商人を母方のルーツに持つ私が、年金制度を最初に制度化した会社に就職し、定年まで勤めると、その制度を引き継いだ厚労省の所管の年金機構に就職したのも奇しき縁かなと思います。今は少し年金とは別の勉強をする仕事に入っていますが、年金の仕組み、手続きの啓蒙、制度改革には地域の年金委員として興味を持って啓蒙に当たります。
 共済や保険の言葉も知れ渡らない時代から労働時間や環境、生涯の過ごし方も120年の間にどんどん変わり、直近の20年ぐらいでも大きく変わりました。
 社会保障、年金制度へ労働者や国民が受ける恩恵、期待もまた様変わりしています。複雑になりすぎて、人間の欲望とともに混迷の時代かもしれませんが、いつの時代もいろいろ保障や老後、障害などを考えてくれた人がいるのです。
 いろいろ言われますが、日本の社会保障制度はそれほど悪くないのも歴史を見ると良く学び直せます。
 

ホームセンター取引の思い出

カネボウの化粧品会社なので、化粧品専門店はじめ多くのチャネルの取引先を相手にしました。
 そんな中でも、やや異色なことにホームセンターを経験して、業界、独自の商売慣習、を学ばせてもらいました

 ホームセンターというDIYやグリーン、ペット用品などさまざまなイメージを持たれるでしょうが、ワンストップで買い物ができるよう、大型店では食料品や日用品、化粧品に至る間で幅広く商いをしています。
 日用品の扱い額では、花王グループでも関西でいうとコーナンなどが上位に来るぐらいで大きなポテンシャルがあるのです。
 それでも、専門店や百貨店など高級品を扱う、化粧品会社では、異色というより、異端や窓際的に見られた存在の係でした。
 そんな中で、北日本の大手ホームセンターでプチプラブランドのKATE什器を120店展開を決めたのは、同時期の導入としては空前絶後今も破られないディール記録でした。関西に戻ってもコーナンやアヤハにも50以上の展開を決めました。
 GMS,ドラッグストアやバラエティショップにも通用する、バイヤーとの駆け引きや、北海道のホームセンター、ホーマック(現DCM)のSさんやWさん、Nさんといった歴代バイヤー、ライバルであり戦友だったベンダーやメーカーたちとのやり取りで学びました。
 提案の資料や、テンプレなどが、まだまだ今ほど充実していない時代で、パソコンを学び直しながらの奮闘でした。
 机上、ネット上で思考するとともに、実際に買い物ついでや出かけるついでに、ホームセンターのチラシ、店構え、品ぞろえ、客の動線、購買動向を見に行きヒントを得ようと貪欲に動きました。
 それぞれの流通を担当していると、どうしてもその地区のその業種の店が気になりました。今も少し旅などで看板を見ると、「ああ、あの土地、あの企業」となります。

花王の思い出 吸収されたカネボウ

 カネボウの元同僚の後輩には「井上さんたちの世代は上手く逃げ切れた、残った僕らは大変です」と時々耳にする。給与体系はそのままで責任の無い仕事に回され、出世の道がないのは面白くないようなのです。化粧品を売るならいいが、洗剤を並べるのはイヤだという話を未だに聞きます。
 そういうものかと思う反面、化粧品だって重いものですし私なら「洗剤を並べるのもいいじゃないか」と思います。洗剤や家庭用品を学び、売る方を覚え、新しい世界を楽しめばと思います。
 私は定年がもっと先なら長く花王傘下にいたかたtのです。旧来のカネボウではなく、花王での会計責任者の道は狙っておりました。50歳を過ぎ、志願して「未来セッション」や「アカウンティング研修」という若手の会計責任者の教育を、最年長かつ外様のカネボウから選抜され受講しました。
 花王とカネボウは最初は対等合併のようなたすき掛け人事もありましたが、徐々に吸収され支配されたような扱いになっていきました。本社でも、販売現場でも中高年や若手も管理職への道は遠いものになりました。
 カネボウ人事もたすき掛けでだす人材が年功でもあり、まともな人間がいないのですからそんなものだと気付かれるのが遅いぐらいでした。
 もちろん、私も下っ端ですからいろんな流れを後で漏れ聞く噂です。
 しかし、残念ながら私の花王での会計への道は、カネボウにそっぽ向いたように花王の勉強ばかりしたので、最後は年齢で無理ではなく足元のカネボウ側の推薦が得られなかったので途切れました。
 かくて、花王のIFRS会計、EVA戦略、DX推進、マイクロソフトTEMSを使ったコミニュケーションなどまで学んだのはもったいない話ですが、無駄になりました。私個人よりも企業側、花王にもカネボウにも惜しい話だと、勝手に自負しています。私にとっては、口惜しくもなくいい経験、勉強をさせてもらいました。
 コロナ禍の対面販売縮小、テレワーク、ブランドの統合なども5年前にみていた未来です。
別に「不思議」が起ったのでも何でもないことに、あたふたする社会、驚いている同期や後輩が何だか哀れなほどに見えました。
 花王の戦略がいいとか好きとかではなく、そういうものなのです。給料もらうならそれに従うだけのものです。
 カネボウの人達にも私などより、もっと優秀で頑張れる人はいたのでしょうが、結局企業の病、宿痾のようなものに犯され、多くの中高年や無気力な若者と同じように、負けたと思った瞬間に努力することを諦めたのではと思います。
 だからこそ情けない、今妬みと嘆きで不平不満、文句ばかりいいながら居残る人は、元々「カネボウ」にだけいて化粧品を売るためだけの人生だったのか、慣れた仕事を続けたいだけならどこの大手企業も甘くはないのです。まして事実上倒産の会社、リストラされそうな人材は覚悟を決めて備えて努力しないと、仕事すらないのは当たり前です。この事実を受け容れられない受け容れたくないと思う時点で進歩が止まるのです。
 幸いに会社に不祥事もない会社だったとして、それで幸せかというと、結局そういうものでもないのです。

ハケンの思い出と今

 昔の会社は、大手の化粧品メーカーで販売会社という地区を預かる組織が大きく、各都道府県よりも多い数の拠点があり、それぞれに経営幹部がいて、多くの管理や販売部門と美容教育、派遣先で商品を販売する美容部員がいました。そのため、経理や総務も独立した課を持ち事務員を何人も抱えていました。
 それでも正直なところ、昭和の時代は大卒女性の就職がまだ少なく、事務職も美容部員さんも高卒か短大がやっとでした。戦前からの大きな会社で福利厚生もそれなりなので、事務員で勤めていても、美容部員も取引先に『派遣』はされますが、ほとんど正社員で派遣社員ではなく、自営をしているよりも福利厚生含めて待遇としては良かったかもしれません。
 確かに電話で受注を受けて、発伝するとか集金もするという今では考えられない事務や営業もしていました。しかし、平成も10年ぐらい過ぎると、ITというかデジタル化が進み、バックヤードでやることも変わり始めました。
 経理も地区本部や本社に統合され、拠点での事務はどんどん減り、それでもワープロを打てずExcelもでき無い幹部の書類作りなどをやっていました。
 取引先は爺さん婆さんの個人経営の店主流から、ドラッグストアなどの企業中心に移行して、相手のシステムについて行くなど、さまざまなITへの対応も求められました。
 社会はその頃から、産休、育休の代替要員も必要な時代に入り、事務や営業補助に「派遣会社」の人も契約され続けて2度ばかり地区営業の拠点に来られました。

 篠原涼子さん主演で「ハケンの品格」というドラマもありましたが、とても優秀で素早く仕事をこなし、休業中の前任社員の倍、いや数倍役立つスキルをもっておられました。残念ながらその差は誰の眼にもあきらかになりました。休業中の方はどちらかと言うと人は良いのですが、『どうやりましょうとかどうしたらいいのでしょうとか、Excelのやり方わかりません』と販売や先輩方の時間を食う存在でした。そのハケンの方は、1を聞けば完璧に10以上をこなし次の10は何か想像でき、かつ社員を立てながらも次をうまく効率よく提案する方でした。
 大変難しい問題ですが、事務職の方も、販売系の幹部に至っても、そもそも年功序列です。パソコンスキルはもちろん、トラブルへの対処など能力が無かろうが正社員の給与、待遇は良く、無期の雇用が決まっており、人員も限られていますから続け様にアクシデント的な休暇を取る人がでない限り、派遣契約が切れたらその人は職場を去ります。
 いろいろスキル、小技のような工夫、細かいノウハウを持っている方や、そもそも入力作業が早くて正確というレベル違いを見せつけられても、残念だなと思うだけで仕方なく、戻ってきたママチャリのような速度の人にF1の速さを求める術もありませんでした。ママチャリが降らついて倒れないのを見守るだけでした。もちろんママチャリの維持費、年俸は高く賞与も退職金もあるのです。
 多くの会社、役所でも似たようなことは起こっています。場合によっては、派遣会社のマージンが惜しくて、それすらできない会社もあります。社内研修や仕事の振り分けとそれに見合った報酬があればそれも良いのですが、多くは年功序列の旧態の場合が多いのです。逆に派遣を上手く使う会社は、仕事の本質や休暇制度、福利厚生が良く分かり、人材も成長し企業競争力も高いのです。
 今は正社員、とくに中高年が余り、AIがますます仕事を奪う時代です。とりあえず新卒を雇い長く勤めれば高給になるメンバーシップ型の雇用ではなく、能力やスキルに優れた派遣社員をピンポイントで雇うジョブ型雇用の方が経営効率はいいのです。しかし、日本ではまだ終身雇用的な就職も多く、正社員の年収が800万、派遣だと400万下手すると200万などということで、それほどのプロ級の契約型の社員も実際にはあまりいないのです。当面は正社員が派遣に負けずコツコツとスキルを磨き、貢献してもらうしかないのです。

可愛いママさんがバリバリ働く時代 働き方の変化 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

朝ドラで描かれた検察の暴走「法」の正義、「共亜=帝人事件」鐘紡社長もウラに

 NHK連続テレビ小説「虎に翼」は、日本初の女性弁護士・三淵嘉子をモデルにその半生を描いた、登場人物やドラマ中で起こる出来事は史実に基づいているものもあります。

【共亜=帝人事件とは】 

 ヒロインの父が贈収賄容疑で逮捕され、「共亜事件」という政財界を揺るがす大汚職事件に巻き込まれます。この「共亜事件」のモデルは、1934年に実際にあった「帝人事件」です。台湾銀行が保有する帝国人造絹糸(現帝人)の株式が不正取引され、その売却益が政財界にばらまかれたとする贈収賄事件だったそうです。実際にはヒロインの父親が勤めていたとされる銀行には逮捕者はおらず、父親役のモデルはある程度政財界に関わる大物実業家の複数のようです。
 事件の逮捕者は1年近く勾留され、検察から過酷な取り調べを受け、裁判前の予審ではほぼ全員が自白していたが、1935年に始まった裁判ではいずれも罪状を否認し、1937年に確定した第一審判決では起訴された全員が無罪となりました。判決を言い渡したのは後に最高裁判所長官となる石田和外裁判官で、石田が判決文の中で用いた「水中に月影を掬(きく)するが如し」という劇中では松山ケンイチが表現した言葉が象徴する通り、水面に映った月を掬(すく)おうとするような虚構の事件だったということです。ほぼ全員が虚偽の自白をしてしまった背景にある拷問の内容や、留置場での異常心理についても、ドラマで描かれ父親役の岡部たかしさんが制約も多い地上波で好演していました。ソ連から輸入された「革手錠」なる拷問器具は、皇太子時代の昭和天皇の暗殺を企て、死刑となった極左テロリストに初めて使われ、2番目に使われたのは帝人の役員の永野護、公判部分ではヒロインの父のモデルとされる実業家の一人だったそうです。
 帝人事件は、「虎に翼」のテーマでもある「法」が正しく機能し、裁判所が公明正大な判断を下した事例として史実に刻まれています。
 法廷や、逮捕、報道も現代とはだいぶ違い、女性の弁護士がまだいあない時代で人権が制限されていたのも良く分かります。

新聞社を経営した鐘紡社長 武藤山治


 ドラマの中でもヒロインと関わる新聞記者が出てきますが、今では検察のでっち上げとされる帝人事件は、そもそも時事新報という新聞社が特集した記事の中で報じた帝人株を巡る贈収賄疑惑がきっかけでした。
 時事新報は福沢諭吉が1882年に発刊した由緒ある日刊新聞だが、「朝日新聞」や「毎日新聞」などに読者を奪われ、関東大震災以降、部数と業績は低迷していました。そこで1932年から経営を引き受けたのが、諭吉の弟子で鐘淵紡績(カネボウ化粧品、クラシエホールディングスの前身)の社長を務めた武藤山治でした。部数立て直しのために武藤が打ち出した目玉企画が、「番町会を暴く」という帝人事件をはじめとした政財界の不正や、知られざる黒幕の存在を糾弾する今でいう暴露型の連載記事でした。
 武藤は鐘紡という兵庫紡績工場の支配人から、日本一の会社に拡大した企業家であり、若い頃から言論や政治にも興味を抱いていた方です。経営者としても優秀で、次々と日本や上海の工場を傘下に収め、日本初の企業の「共済組合」(年金や健康保険)や「社内報」を作ったとされています。
 しかし鐘紡では成功した経営も、新聞の業界では経験もなく、正力松太郎の読売などが政財界に結びつくことへのやっかみと焦りもあったという話もあります。
 当時の斎藤内閣は犬養毅暗殺後所属した立憲政友会からも、対抗する立憲民政党からも閣僚を入れる「挙国一致内閣」を組織し、軍部との対立を避け、国内政治と経済の安定を第一の目標とする方針をとりました。ところが、立憲政友会の右派(対外強硬派・武闘派)や、陸軍や右翼グループらは、そんな斎藤内閣に不満を抱いており、倒閣を企てそこででっち上げられたのが帝人事件であり、それに乗っかってしまったのが時事新報だったという見方が現在では有力です。ちなみに武藤は「番町会を暴く」の連載開始から3カ月後、元外交員で失業者の福島新吉に銃撃され5発の弾丸を受け、翌日れ66歳で没しています。武藤を庇った秘書も即死、銃撃した福島も自殺し、背景は私怨なのか帝人事件なのかも闇です。ドラマではステレオタイプの悪役に描かれている事件の主任検事ですが、そのモデル?黒田越朗も公判中に殉職するなど、複雑怪奇な事件とされる官僚の闇の部分です。
「法」が正しく機能したと言われますが、斉藤内閣は倒閣されてしまい、中国とも事実上戦争に入り、日本は右翼、軍部が台頭する暗い時代へ進みだします。
 この時、文部大臣を辞任しているのは戦後総理大臣になる「明鏡止水」と明言を残した鳩山一郎、宇宙人鳩山由紀夫のおじいさんです。
 武藤山治の子供、武藤絲治も戦後乞われて鐘紡の社長を務め、最大の戦争被災の会社を多角化で引きあげますが、先日訃報のあった伊藤淳二のクーデター(城山三郎「役員室午後三時」のモデル事件)で社長を退きます。カネボウの社史を語る場では同じ読みの「むとうさんじ」なのでややこしく「やまじ」「いとじ」と呼びわけていました。
 歴史や社史では何が正しいのか、事実なのか良く分かりません。ダイヤモンド社の雑誌記事も参考にしていますが、wkiやカネボウの社史と比べても細部は違います。省略しながら書く故に誤解で伝わったりする悪意のないモノから、読売や朝日が伝えているものですから時事新報は「悪役」「泡沫」扱いで歪曲されている可能性があるとも思います。
 政治や官僚、当時の軍部やそこに裏で動いていた闇の世界に何があったのかはもう誰にも分らないでしょう。