思い出から0:京都市中京区

実家近くの二条城

【1959年~1982年】社会人になってから、いろんなところに住んだり勤めた場所を回想し、恋や仕事の思い出を綴ってきたがその原点。23歳大学卒業までは京都市中京区に生まれ育った。生家は三条商店街の化粧品店、二人兄弟の二男でした。
昭和40年代としては、まだ貧富の差のある中、高度経済成長で恵まれた小学生時代だったでしょうか。1964年に東京五輪、1970年には大阪の万博、万博には良く行きほとんどのパビリオンを見ました。
小学校時代も初恋はありましたが思いっきり片思いで終わりました。
中学になって共学の私学に進み、お金持ちや秀才がいて小学校時代の優等生感はへし折られました。でも中一でラブレターを出して夢にみたデートを実現しました。
なんとなく自分からめんどくさくなったように立ち消えて、それ以降高校まで彼女いな状態続きました。昔過ぎて思い出せない恋の原点。それでも京都の街をふらふらといろいろ回りました。
実家の三条会商店街、盛衰あったけの今またイベントやユニークな店でにぎわっています。

よく立ち読みした本屋は閉まったし、だいぶ代替わりもしてしまいましたが年末などで買い出しの賑わいが好きでした。全国いろんなところに転勤しましたがやはり里帰りで三条通りに入ると、旅から我が家京都に帰ったという感慨が湧いてきました。
鴨川は少し遠くて、あまり水の見えない堀川近くで、二条城南の三条通りから四条大宮までの町屋界隈が小学校の学区でした。
中学から大学で今出川あたりまで通うと、御所や出町、叡電沿線、市場とどんどん遊ぶエリアは広がりました。
年の瀬の三条会は今でもときおり訪れます。実家はもうないのですが懐かしいことが多いです。

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思い出から19:兵庫県姫路市

姫路は京都あたりからかなり西、播州の中心。兵庫県西部の中核。その西は中国地方岡山県です。【2018年1月~6月】最後の会社人生目前で、まさかの大阪を異動。ふるさとの京都でなく、近畿2府4県で和歌山とともに行っていなかった兵庫。神戸オフィスにも行くものの基本姫路出社で、赤穂や山崎、淡路島まで管轄エリア。
近畿の西の端、近畿2大国宝名城と日本三景を制しました。
結果的には半年間でしたが、完全にカネボウの営業が花王に組み込まれ花王の名刺を持って同じオフィス、同じチーム、花王の上司の下で働きました。仕事はカネボウと花王ソフィーナのGMS販売員の管理が主。この時期多くの仲間が洗剤などの花王の家庭品部門の販売にも回りました。
ひさびさに現場で美容部員の激励役、しかも2ブランド同時に回るので大変なようで言い訳もできる試行錯誤の体制、試金石でした。

花王ソフィーナという独自の風土、家庭品というハードな仕事も分かりました。通勤は新幹線で1時間弱。途中雪で一度遅れ、北大阪の地震にもあいました。元来鉄道大好きなので大して苦にはなりませんでした。むしろゆったり快適に座れる小一時間を楽しんでました。須磨からの海や明石海峡大橋を毎日見て、淡路島にも2週に一度くらい行きました。天気がいいと絶景でした。
ソフィーナのBCにも結構いじられ可愛がられました。大きなイベントのある流通うでしたが、結局それほど経験しないまま京都に半年後戻ります。2枚目の写真はオフィスのあった駅南側。じばさんビルという駐車場に社用車を停めました。半年ですが結構いろいろ充実した時期でした。

【庄八】

思い出から18:大阪市西区立売堀

【2014年~2017年】いたちぼり(立売堀)と読みます。
関西に戻った時小学生だったムスメがもう大学です。
商都大阪の中心部、ねじや工具などの製造卸も伝統的に多いところに、新しいビルや劇場、ホテルも立ち、京橋とは違った商都に事務所移転。白斑による自主回収問題の後、いよいよカネボウと花王の販売部門でのシナジーは進み、事実上の吸収合併に向かいます。
そんなカネボウの最後、蟷螂の斧のようにカネボウの関西程度の中でも、池井戸の小説のようにいろいろ浮き沈みありました。
この間、流通部門のトップで同期だった男は本社栄転後自殺。京橋の廊下で立ち話をしたのが最後で、厳しい本体の状況を垣間見ました。
私が仕えた上司も、ある権力の引っ張り合いで、セクハラなどで更迭されたはずの男の復権を許し、九州に去られました。

大阪の最後の1年半は、その反動もあり、冷や飯で現場復帰。年下の上司の元まあのんびりしました。結局、私らに変わった能力や人格が不足の者は評判悪く、朽ち果てていくのでした。
大阪にはキレイな熟女系から、大卒の女子まで結構いましたが、私個人はずっと一人を思い続けていて、あまり浮気心はなかったです。とても美しい江藤さん(仮名)という方が、独身で興味を持っていただいていた話がありましたが、まったく分不相応で丁重に躱したというと自慢気ですが、好きな人にはもてないものです。

神戸にいたある女性にはストーカーのように追い回されたこともありました。
まあ若い連中と一番酒量が上った時期でした。会社時代で一番楽しく過ごせた5年ほどの大阪でした。



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思い出から17:東京都品川

勤めていた会社の東京の本社もいくつか変遷した。若手に頃は直接本社に行くことも少なかったせいで、昨日の横浜の教育センターの方あが馴染み深い。元々化粧品本部(旧総販社)はライバル会社に対抗して銀座にあり、その後海岸通、虎の門っ経て現在の親会社と同居しての茅場町。茅場町の会議も何度か行ったが、その後品川インターシティ14~15階に大規模な研修施設を構えた。
ここからの景色といい、駅からスーツケースを転がしながらデッキを歩いてエレベーターを昇る恰好といい、本当に大企業のビジネスマンになったと感慨深かった。
ニコンのショウルームも在り、多くの企業が入居している。東京は広いし、丸の内やベイエリア、六本木や新橋など拠点となる街も多いがこの品川の施設、最後の数年何度か行ききし、年甲斐もなくアカウンティングを学び直し5泊くらいしたのも含め、通算でも20泊程度行った。

宿泊は少ししょぼく離れた東横インが割り当てられバス異動だった。
企業担当仲間だったお酒の強い、よく仕事を頑張る四藤さん(仮名)とは毎年2回、3年6回ほど関西から行っていた。一度品川で酔い潰れてタクシーで帰ったもののホテルのカードキーはあるものの部屋番号がわからない。こちらも酔っていて早く部屋に押し込んで帰りたいのでかたっぱしからキーをドアにタッチしていった。ようやく見つけて部屋に入れたものの、酔っぱらい女と一つの部屋に入ってしまっていた。
酔ってて、バツイチ独身の彼女、お礼とともにどっちでもいいよとは言ってくれたが、究極の据え膳を、ご辞退して部屋を去りました。
彼女はプレゼンや発想で一目を置いてくれていたし、二人呑みに行くこともあった関係ですが、お互いそこは踏みとどまるところはしっかりしていた。あの晩はよほど呑みたい事情があったのかと思う。
まあ良く学び、呑んだ品川の街だった。

やんちゃだけど、探究心旺盛で負けず嫌い。それでいて私のことは発想の豊かさを評価してくれていたように聞く。男としてはもっと若いイケメン好きだったのだろうが。
美人でもあり、新しい体制の中でも評価され女性幹部登用の道を進んでいるそうです。東京で会社の中心を席巻していることを、新幹線で通るたびに思い出す。

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思い出から16:神奈川県横浜

1982年カネボウ(当時鐘紡)に大学を卒業して入社。37年後花王となった会社を退職した。入社当時は横浜の山手にある教育センターにカンヅメ研修となり、以後も会議や研修で何度も泊まった。横浜の海は今もとても思い出深い。
自分の社会人の原点がなぜかこのとき、同期の連中とサウナからみた横浜の海だ。
外国に繋がる海外に行けるような夢を抱かせ、それでも行先の見えないような不安とドキドキするような希望で見た海。不安なことが一杯だったのにその時は、漠然と希望のほうが多いように感じながら海を見た。
退社してから、横浜を訪れた時、入社当時最新の教育施設が廃墟となっているのを感慨深くみた。アクセスに問題のある山手とはいえ、緑もあり遠くに港も見える良いロケーションだった。
福知山にいた時代に、寝台特急出雲で横浜まで本社会議に参じたこともあった。

大理石の大きな浴場があり、最新のホテル並みと言われた。しかしトイレの排水も今一つとか、所詮大部屋に布団を引くのでとくに若手の頃や入社導入教育等スパルタだったのでいい思い出ではなく、やはり破綻につながる綻びを垣間見た。
東北時代は充実してきていい経験をし始めた。
東日本大震災でも横浜研修センターは被災者を受け入れたが、一部壊れてしまって売却取り壊しに近づいた。
花王グループになり茨城県にある広大な研修施設に行ったときは、これこそ一流ホテルだと感心した。相部屋でなくシングル。滞在者用に洗剤はもちろん無料。
しかしその後できた花王の最新、品川の施設にはさらに度胆抜かれる。

【横浜FC】

美悪女との危険な関係(思い出から14):滋賀大津市

画像はフリー素材です

【2011年~13年】おそらく彼女石山さん(仮名)にとっては、元の夫を含めかなり多くの通り過ぎた男性の一人に過ぎなかったでしょう。
自分の地位のためには、トップに媚びを売り、そのスタンスが同性の一部にはひどく嫌われて、あることないことひどい中傷を受けていました。
少し、自分より理知的で利用しがいがあって、周りの女性より自分に興味を持ってくれない。だから彼女は変に私にモーションをかけてきたきらいがあります。
一度、社内検定の勉強に自宅に来ないかと誘われましたが、さすがに人妻、しかも別居中ではこちらはリスキーと判断して、近くのマックになりました。
滋賀を出る時、二人きりで呑みましたが、それ以上はありませんでした。
カラオケにも良く行きましたし、仲間の間では弄り合うような関係でした。このときのモーションを拒んだ件はプライドから根にもってはいたようです。

年上だけどライバル的な女性に明らかに自分と勝負して勝ちたいタイプでした。
もうひとつ、別のある女性に大しての評価で、私がセクハラ?的微妙な発言をしたこと。『若い頃は可愛かった感じの人』石山さんにとっては、自分もやがてそう言われるという想像が、すごく不安で不満だったようです。彼女はいつも、時間をかけてとびきり綺麗に決めて勝負に来ます。
SNSも軽く返すよりは時間をかけて意味深に返す方でした。
2019年、三度めの滋賀最後の別れでも綺麗に決めてきて、私が家庭を大切にしたことを少しやっかみ気味につぶやきました。
悠々とした琵琶湖、恋をするような湖畔のお寺。悲しい性の女性。中島みゆきさんの歌詞にでてきそうな方でした。

思い出から15:大阪市中央区城見2丁目

思い出から14は滋賀でもう一つ書きたいのですが後日にします。2013年大阪京橋、ビジネスビルツインタワーの真横。ホテルモントレと同じビル、まさにオフィスというところで、奈良や滋賀の東北の田舎しか知らないのがお上りさんで仕事に行きました。
家はすでに京都市右京区太秦に永住なので、これからは仕事場の思い出です。とにかく大きな組織で、近畿を統括する企業担当なので気合と緊張のスタートでした。
外回り中心から中が主で、結構孤独なスタートでした。それでも女性が多いのでキレイな方、優しいかた、気のきつい方、魅力的な方がいっぱいです。
ただ関西に戻って初めて奈良から見た関西の偉容、その実態、虚像というか負の部分も良く見えました。


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新入社員で3年いた大阪は天王寺以南堺市松原市のエリアでしたので、道頓堀、戎橋心斎橋などザ・オオサカは初めてのようなもの。若い男子ともワイワイ元気を貰いながら仕事をしました。
ここへ来て初めて、大人の仕事というか、仙台での企業提案経験が苦労を重ねながらも花開きかけます。カネボウは完全に花王傘下となり、ブランドは順調に見えたのですが、また不祥事が起こります。
心の中ではフラフラしながらも、滋賀の人へのほのかな想いは消えずです。それは別れ際の言葉に対して意地になって、忘れないでいるようでした。
2013年7月カネボウは美白化粧品の肌トラブル白斑問題の自主回収で大きな痛手を被ります。プレスリリースが出るたびにお得意先への説明電話。お客様への謝罪説明。直接はお客様対応係には回りはしませんでしたが、再び事業はかなりのダメージを受けました。



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思い出から13:滋賀県草津市

住んではいないのですが2度目の滋賀赴任。宇治大久保とその後購入、転居した京都市右京区の新築マンションから通いました。山科を経由して奈良お同じく国境を越えての通勤。仕事はドラッグ、ホームセンター、ディスカウント相手にハードな毎日でした。
妻も一度乳がん再発して、大変な時期もありましたが同じ内陸の県でも滋賀と奈良では滋賀が好きでした。また5年ほどいたのかな。いいとこも悪いともも出しきれました。
その後また6年くらいして、2018年定年前に姫路から最後に京滋エリアに戻りました。近江大橋が無料になり、その時天気が凄くよくて琵琶湖がきれいで感動しました。

いかにも鄙びた田舎だった彦根に比べ、草津は宿場町とはいえ、近年大学やベットタウンとしても人口が増えていた。超大型の商業施設を横目に、オフィスに通いました。
ここで、ファザコンのような国立大学出の女性の悩みを聞き、どちらかというとメガネかけた化粧品会社ではブサイクといわれてたKさんと妙な関係に落ちました。同じ京都方向からで帰りなどが一緒になりました。
営業が苦手で本社法務に行きたい願望が叶わず転勤先の大阪でも営業、企画とやや不本意なまま、今は二人の子を儲けられました。少し考えに極端で甘いところ自己中心なところがあったかなと思います。
才能は豊かですが、大卒女子のキャリアをうまく生かす風土がまだなかった時代でした。

出会った人、思い出も多い滋賀編また続きます。

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思い出から12:京都府宇治市

住みつくのかと思った東北ですが、妻と子の病気入院は重くのしかかり、実家に近い関西で義母らの応援を受けないと難しい状況で、奈良への転勤となりました。【2005年~2008年】奈良と京都の真ん中あたり宇治市大久保に社宅を借りてもらい、子供二人は小学校。妻と長男は京都の病院でそれぞれ治療を探りました。
妻は乳がん全摘の予後。長男は難病ながら、仙台の先生ほどキツイことは言われませんでした。
元気なのは私とムスメなのですが、精神的にはだいぶまいってました。ムスメは愚痴は言わないものの転校もきつかったでしょうし、よく試練を乗り越えました。ワタシもうつ病になるか思いました。
正直、潰れかけたメーカーの、販促がどうのDMの内容がどうの、御用聞きのような仕事を期待する得意先に、付き合うことをいやがりひどい関係でした。上司もまた初の女性ですがどうしようもないパワハラ気質。最近のスポーツ界によくある女帝タイプ。女性幹部登用の典型的な失敗例みたいなケースでした。

近鉄の急行停車駅なので京都駅にも奈良駅にも20分前後で行け、太陽ヶ丘公園。宇治の平等院、田辺の一休寺、学研都市等、あまいなじみの少なかった府南部山城地方をそれなりに楽しみました。
奈良の仕事は思い出したくないほどひどく、1年足らずで滋賀に異動。奈良、滋賀に関しては思い出は別章に書きます。
関西に戻る時、新大阪あたりで新御堂のクルマの列、高層ビル、離着陸する飛行機を見て、田舎に育った子供らは大丈夫かなと心配したのも覚えています。後になって毎日大阪に通うころは何でもない光景が強烈な圧迫感で迫りました。
仙台の人への淡い思い出等完全に掻き消えました。

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思い出から11:東北の自然に愛を誓う

東北の川は並々と水を湛え美しかった。
石巻市を流れる旧北上川の風景は美しかったです。
三陸海岸あたりの海のそばを桜の季節に通りましたが、これも絶景でした。
相馬の海も穏やかでした。
東日本大震災の後、どうなったかは詳しくは知りません。
私がいたころも宮城で食器が割れ、エレベーターが止まる震度4くらいの地震は2度ありました。
自然の猛威も美しさも常に共存しているのかと思いました。

大学を卒業する前の2月、カネボウの入社前研修を横浜で受けたその足で東北仙台山形と回りました。雪の中、かなりハードに山寺に行き風邪引きました。
仙台であった年配の女性達が、あの頃出会ってれば若く美しかったと想像して笑いました。
部下に熟女ながら可愛い人がいました。最初すごくキツイ物言いで我儘に映りました。しかし頑張って打ち解ける間に、お互い結婚しているのに好意を持ちだしてしまい、それも仲間の嫉妬の感情を産みました。彼女と独身の時に出会っていれば、そんな思いを抱いた仙台駅。
そんな東北への人生の旅は、終着駅ではなく都合7年半で終わり関西へと戻ります。
一度だけボランティアで東北奥松島を再訪できました。とても懐かしかったです。

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