昭和は遠く2 #昭和のプロレス 書評#猪木と馬場 #1976年のアントニオ猪木

 平成が終わり、昭和がますます遠くなった感がある今年、昭和を代表するプロレスラーアントニオ猪木が亡くなり、すでにだいぶ体調は悪かったようですが、我々の年代の多く特に男性ファンが訃報に接し、呆然と時代の流れを痛感しました。
 プロレスに全く興味の無い方は、晩年の猪木はエキセントリックな政治家としてや、バラエティのビンタなどで、変なおじいさんとしか認識されていないかもしれません。
 今回、今年書かれた「猪木と馬場」(斎藤 文彦著)で改めてその生涯とライバル、ジャイアント馬場との長い因縁を振り返ると、まさに猪木の輝いていた昭和しかプロレスをあまり見ていないことを悟らされます。本当に昭和の子供から学生、若手の社会人だったころ、猪木と馬場の競り合いに一喜一憂していたことと、やはりプロレスは真剣勝負というより「ギリギリの興行で、その境目に面白さがあったということです。
 馬場も、その弟子鶴田も亡くなりましたが、その以前から平成に入ってからのプロレス、全日本はとくに見ていないし、どちらかというと戦後すぐからの長い歴史を淡々と綴るこの本で初めて知ったことが多いぐらいです。昭和の最後の頃は、猪木も欠場が増えだし、馬場よりも体調が悪い時期が多かったとかいうのも気づきませんでしたし意外でした。


 もう一冊、2009年の上梓で「1976年のアントニオ猪木」は柳澤健氏の著作。同世代の著者のデビュー作でかなりプロレスのガチ、深層に迫った玄人というか、ドラマとしても面白い問題作です。格闘技戦の柔道王ルスカ戦、ボクシング王者モハメド・アリ戦、完全に切れたファイトとなった韓国の実力者パク・ソンナン戦、パキスタンでのセメントマッチとなったアクラム・ペールワン戦。それら前後の背景も含め、よく書かれています。
 今は暴露系の動画サイトや、昭和プロレスの詳細記録のブログなども見られます。反社的な事件も多く、猪木も何度か監禁やらリング上でのピンチを逃れてきています。


 馬場、全日本との競争で言えば、ついに実現しなかったのが二人の対決であり、これは昭和のファンはみんなが思い込みもあり、対決して欲しかったけれど、無理だった事情も分かります。

 この前年、1975年には全日本が年末にオープン選手権という豪華選手を集めたリーグを開催して猪木の新日本にも参加を呼び掛けました。シリーズ中の力道山十三回忌興行にも、力道山の弟子として百田(力道山)家も巻き込んで、ふだんは馬場への挑戦を叫びながら、参加できないのかと、猪木を不義理、弱腰と追い込む作戦で攻めました。
 猪木が、リーグ戦に参加すれば、シューティング(真剣勝負)に強い外人レスラーを次々ぶつけ、馬場戦前につぶしにかかる計略というのは、当時からも囁かれていた通りで、全日派の解説者、マスコミも企みを暴露しています。
 ヤクザや道場やぶりの世界ですが、この時、猪木が全日本の興行で戦っていたらどのような結果になったのか、興味深いところでもあります。また、その4年後、一度だけ夢のオールスター戦でタッグを組んだ二人は対決を誓いますがやはり実現がしません。
 これが、引き分け的な筋書きの決着や、1勝1敗などで引っ張れば、興行的に大盛り上がりだったのではと思われそうですが、そうはいかないところがプロレスです。引き分けとかの筋が決まっていても、本番では喧嘩になり真剣勝負になって相手を潰すこともある、これは力道山の木村正彦との頂上決戦や、前記のパクソンナン戦などにも、その傾向はありました。ですので、引き分けの筋書きと安心して試合を受けるなど、とても難しいのです。

 1970年代、世界的にはプロレスというのは、ショーというのがばれて、スポーツとしての地位な完全に凋落していました。日本ではNWAが権威とか言われ、他のスポーツのWBCとか、FIFAやIOCみたいな厳粛な権威ある大組織のように伝わっていますが、それはほぼデタラメです。猪木の新日本プロレスが管理していたNWFや、全日のPWF、国際のIWAなどが外国にそれぞれ本部があるように宣伝しても、国内だけのお手盛り架空団体、創作のチャンピオンベルトだったのと、そう変わらないはったりがNWAでした。それが通るのが、昭和のプロレス界です。
 海外からの報道、インタビューなどもモリモリの嘘が多い古き良き時代です。そんな八百長や嘘ばっかりみたいなプロレスに昭和の夢を、抱かせてくれたのがアントニオ猪木であり、そのライバルジャイアント馬場だったのです。
 

 サッカーのワールドカップでさえ、新聞の報道も少なく、何か月もあとに映像を見ていた時代です。海外プロレスの珍しい技をかけている写真など、どういう技か無理に解釈していた古き良き時代ですね。

平成は霞み、昭和はもっと遠くなりにけり

昭和生まれで当然平成の30年を丸々過ごした人間には、昭和は4月に、平成では12月には天皇誕生日があるのが当たり前でした。令和も4年度がもうすぐ終わり、5年に差し掛かり、令和も一つの勢力、塊になりかけています。幼稚園に令和に生まれが入園しだし、「令和の怪物」とか「令和の歌姫」など「令和〇〇」が創造されています。

 そんな中で、今年は「シン・ウルトラマン」も作成され、その前のゴジラに続き、昭和からのリメイクというか、懐かしい作品を良く分析して再構築さた創作がなされています。

 初代のウルトラマンなどSFや特撮の黎明期で、今では考えられない稚拙なところもあれば、大変な苦労をしてしあげた部分もあり、それらをポジティブに現代的に解釈されています。それとともに、当時活躍された方々がどんどん鬼籍に入っていかれる中、魁となったものを後世に伝える意味もあるのでしょう。

 ウルトラマンの初代は、1966年(昭和41年)開始ですから、カラーテレビの普及時期で50年以上も前の制作です。怪獣も宇宙や宇宙人も子供にとっても大人にとっても新しい概念だったのです。後付けに苦労するような、当時の設定も数多くありました。とにかく最高視聴率は42,8%ほとんどの回が30%後半という、誰もが同じテレビを見ていて翌日の話題にしていた時代でした。

 55年も経っても動画配信などもされ、テレビでも同シリーズの新作が作られる、東映の仮面ライダー、戦隊ヒーローシリーズと並んで日本最長のシリーズです。この間、幾度も長短の中断期間を挟んでいて、ウルトラ兄弟や宇宙全体の警備隊という組織も後付けされた中でのワールドというのが通念になってきています。

 さしずめ、今放映されているのは「令和ウルトラマン」、東映は「令和仮面ライダー」のシリーズになるのでしょうか。その前に中断時期を経て、平成に復活した「平成ウルトラマンシリーズ」というのが、大きな設定はウルトラマンながらも従来のウルトラ兄弟の概念からは、別ワールドとされ、CGも巧妙になりSF的にも良く仕上がっていました。放映時間帯や、核家族化、テレビ離れで視聴率は昭和に遠く及びませんでしたが、「ウルトラマンティガ」「ウルトラマンダイナ」「ウルトラマンガイア」平成3部作と言われ、とくにガイアはよくできていた好きな作品です。ちなみに私の家では子供が物心つき始めたのがこのあたりで、次の『ウルトラマンコスモス』がリアタイで観出した時期になり、仮面ライダーだとまさに平成ライダーの走り「仮面ライダークウガ」からです。

 平成のシリーズ世代が20歳を超え出し、早い方はもう子育てが始まって、新しいウルトラマンを観る、昭和や平成、シンのシリーズを動画配信、アマプラとかでも見る3世代から4世代めにはいるのでしょうか。

 そんな中でもアニソン、特撮ソング歌い続けた水木一郎さんが先日亡くなられていました。マジンガーZも昭和47年ですから、50年以上唄い叫び続けておられたのでしょう。またそれより下の世代の、先ほど好きと書いた「ウルトラマンガイア」で隊長役石室コマンダーを演じられた渡辺浩之さんも今年若くして亡くなられています。

 訃報を重く受け止め、昭和が遠く感じるというのは、もう年寄り、年のせい過ぎて顰蹙かいそうです。

 平成でいろいろ流行したものの、すでに死語、廃版、無くなっていることが多く、60代ぐらで令和を謳歌することなく、亡くなる方もおられます。

 今の令和の時代を築いたのが、昭和であり、引き継いだ平成であるのは間違いはないところです。

炎上しそうな「人種、人権?の話」

BBC

 サッカーのワールドカップはフランスを破ったアルゼンチンが優勝し幕を閉じました。

 同じ地で日本代表が強豪を破り活躍したことで、かつて1993年ドーハの悲劇でW杯アメリカ予選最終戦で引き分けたことが払拭されたといわれます。ロスタイム(現アディショナルタイム)で失点し、呆然自失で倒れこむ日本代表のカズや、森保一現監督、ラモス瑠偉らの姿が積年の映像として想起されました。

 この頃、出場はのがしたものの、ラモスは帰化選手として、代表の主力でリーダーであり伝道師であり精神的主柱でもありました。サッカー日本代表は最近まで帰化選手やハーフの選手が何人か代表で、させてきてくれましたが、今回の代表ではGKの控えだったシュミット・ダニエルがアメリカ出身以外は「純」日本人で固められていました。

 日本人にはないブラジル人やラテン系の生まれ持ったような俊敏な足技や、サッカーへのプロとしてのあきらめない執着心とかを植え付けるために不可欠だった時代がありました。

 この当時は日本代表は彼らに助けてもらっても、どこかひ弱で常に隣国の韓国には公平に見てリードされていました。ちなみに韓国ではこの帰化した外国人の代表登用的な政策が一切行われていません。

 協会が意図的にJリーガーなどから帰化を促した場合と、ブラジルなどではそもそも代表になりにくい日系人が日本での代表入りを熱望してのケースに分かれました。

 田中マルクス闘莉王がつい最近まではそういった例で最後の代表主力でした。ところが世界では移民の大活躍が中心になっています。イングランド、イタリア、ドイツ、スペインらには一歩劣っていたフランスはジダンを中心に強豪にのし上がり、前回大会を制し今大会もエムパべ中心にオールアフリカ+フランスとまで揶揄されるほどになりました。前回2位のベルギーも、日韓大会では地味に予選リーグで日本より下の2位で同格程度でしたが、前回大会では圧倒的に日本をねじ伏せ一気に世界ランクも上位の強豪国となり、これは明らかに移民政策の方針によるものです。

 日本のサッカーはずーっと2000年代から4年ごとにいろいろ成長しているとか、欧州勢が増えてとか確かに内容や、いわゆる足技や戦術も走力も向上しています。しかし、ベルギーなどは実は日韓大会の予選グループでのチームとは、ロシア大会では別のチームのように日本を一気に引き離す急躍進をしています。本当に日本が4年後ベスト8以上というなら、半分をアフリカ系帰化にすればと思いますが、誰もそうは言いません。今の状態では4年後もベスト16あたりの行き来が続くでしょう。

 ガリア人だけのフランスチーム、アングロサクソンだけのイングランドなら想像してもそう強くは感じず、体格の良くなった日本も十分勝負になりそうです。そうなるとやはりブラジルやアルゼンチンの足技はまだまだ真似できないのと、アフリカの民族の身体の図抜けた能力からくる高さやスピード、驚異的な俊敏性は、大和民族とは差があります。

 他のスポーツも多かれ少なかれ、外国人の帰化問題はありますし、国内のチームなどは以前から国際化しています。国技の相撲も上位力士は何年もモンゴル人が占めています。

 陸上100メートル男子がほぼ黒人で占められているのを見ると、やや複雑な思いはあります。

 究極的な選択としては、帰化や移民、優秀なアスリートを国が援助して自国の代表にすることに純粋な競争、ゲームが成り立つのかとも思います。陸上100メートルのメダリスト3人が同じアフリカの同じムラで育った3兄弟になり、支援しる企業やそれぞれ国籍は変わり、メダルの獲得の国は別計算で、それを各国が競い合い一喜一憂することに意味があるのでしょうか。

 しかし、ここで「純粋な日本民族だけで」とか、政治家や著名人が言い出すと当然問題にもなります。
 ただ多くの日本人の中に、今回のサッカー代表や、野球の大谷翔平や村神様は素直に喝采しても、テニスの某女子選手の場合、勝っているうちは賞賛もあっても、勝てなくなり態度や発言も問題は出ると「手のひら返し」でバッシングする傾向があります。

 これはフランスの場合でも勝てば問題なく賞賛して、負ければ「あの黒人のせい」という、やはり差別的な世論はあるようです。

 人種のるつぼのアメリカやイギリスもこういう問題は絶えず、世間は慣れているのか、諦めているのかですが、日本はなかなかすぐ社会が受け入れがたい要素はあるでしょう。
 これはトップのスポーツだけの話ではなく、インフラなど社会の根底を支える若い労働力が減り、やがて日本では移民に頼らないと成り立たないという問題があるのです。

 ダイバーシティなど声高には叫ばれますが、日本的に国際的なそういう声は聞きながらも、暗黙の裡に排除や差別を続けるのか、門戸を完全に開くのかこれからの進路は難しい選択です。

 

冬至、寒波そしてクリスマス

 今年も残すところ10日を切りました。ワールドカップの熱狂が終わったと思ったら、本当に年の瀬です。最近は1年続く長いドラマがNHKの大河ぐらいで、それも今週最終回を迎え、10月からのクールの民放ドラマも続々と今週最終回で、何だか一挙にロスを迎えます。動画などいくらでも見れる時代ですが、地上波はつまらない特集番組、だだ長いバラエティが続き、正月休み体制に入ります。 

 冬至は1年で太陽の出ている時間が一番短くなります。夜の一番長い、寒い頃が続きます。
 寒波で今年は新潟や北日本に大きな被害、死者も出ています。
 初めて、青森の地吹雪を見た、先輩の会社幹部は、たまに旅行で訪れるとか、テレビで見るだけでは分からない生活している人の寒冷地での苦労をナマで見て、心底驚いていました・

 黄道12星座は12月22日からやぎ座、磨羯宮へと入ります。勤勉と努力で年末年始を乗り切る勢いが得られる、1年としては最後の星座へと移ります。

 人間のリズムも太陽や月の引力や光の影響をよく受けています。気温や雪などだけでなく、冬に合わせていかないとうまく活動はできません。
 もちろん、日本人は子供の頃から四季を感じ、身体に記憶もしてきていますが、やはり老化やストレスなどで自律神経が弱っていると、対応が遅れます。
 晴れた日は太陽をよく浴びて、消化の良い、暖かいものを食べ、防寒対策も怠りなくして、冬に慣れていってください。コロナは弱体化したとはいえ、流行はしていますし、風邪はそこらじゅうにいます。

 今年は私も夏に病気になり入院し、その後コロナにも罹患して、偉そうなことも言えませんが、無事に残暑と秋は乗り切り年末を迎えることはできました。病気の種は、現代ではしょっちゅうそこらに転がっており、身体はもちろんですが、それにつながるメンタル面も大きいです。
 若いから自分はまだ無理できるからと、ものすごく仕事したり、遊んだり、夜更かしや徹夜などをする人もいますが、年齢に関わらず、無理は正直に身体に反応します。少し体調が悪いのは身体や精神がサインを出しているので、そこを感じ取ることでしょう。休めないとか拘って、結局身体を壊すと元も子のないのです。

 コロナというと大層に、ワクチンやマスクとか密がとか言いますが、要するに風邪なんぞに負けないという気持ちがまず大切です。精神論ではなく、手洗い、うがいや適度な運動というのは、習慣づいてない人はまずそこから気合を入れてすることです。自分の体調の変化を敏感に悟り、整えることです。
 

スポーツと政治

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 日本もドイツやスペインを倒し大いに沸き、決勝戦も大激闘となって、サッカーワールドカップ(W杯)終わりました。
 CNNテレビが16日、、W杯カタール大会決勝戦のキックオフの前に、ゼレンスキーウクライナ大統領が演説したいとの要請に国際サッカー連盟(FIFA)は拒否したと報じています。

 大会前から、ヨーロッパのチームがキャプテンマークの政治的文言を入れようとして拒否したFIFAです。今回のこの判断も当然です。

 この人を批判すると、ロシア寄りみたいに取られていやですが、W杯サッカーの決勝を利用してまで自分をアピールできると考え、「否定的な反応に驚いている」というゼレンスキー大統領の感覚は普通ではないように思います。ダメ元とは思っていたのかしれませんがが、とんでもない奴です。

 サッカーは西側諸国だけではなく、世界中の人々の祭典です。予選にはウクライナもロシアも参加していました。ウクライナはウェールズとのプレイオフで涙を呑みました。今も状況を考えると出なかった方が良かったと思います。
 国同士はもちろん意地をぶつけます。国と国は過去に戦争があったり、宗主国と植民地だった関係の遺恨もある対戦はありますが、サッカーは戦術とワザ、力を競うスポーツです。戦争ではありませんし、政治的主張をゲームに持ち込みことはやはりNGです。

 FIFAは戦争や政治問題がめんどくさくただ金儲けができれば良いのかもしれませんが、政治問題を見せないスタンスはそれなり評価できます。金まみれの開催で、金満な会場や、工事や放映権料の莫大なお金に対しては、日本の庶民目線では疑問もでるでしょう。東京オリンピックの最終決算が1兆円も超え、不正な業者とのカネの問題も次々と出ている時節です。しかし、じゃあ大会を開催せずに、1兆円は戦争の防衛費に使えばということではないでしょう。たとえ、ゼネコンや広告代理店、スポンサーが不正に儲けても、平和の祭典の範疇で、そこの企業からまわりまわって多少は市民も潤います。

 あくまでもサッカーやスポーツは究極的に平和の祭典なのです。そこにお金をつぎ込んでみんなが楽しめることは、とても良いではありませんか。

 南米などで多少のずるさのあるマリーシアとかがいいかのように言われますが、勝つために手段を択ばないような危険なプレイやガチガチのサッカーは面白くなりません。

 今回参加していない優勝経験のあるサッカー大国イタリアのファンやメディアは、自国の参加しない大会を純粋に見てサッカーを楽しんだ呟きをしていました。日本のファンやメディアは相変わらず、ベスト16へのガチガチの応援を続けるでしょうが、ある意味それが後進国の証拠です。

家業を継ぐかどうか

 私は商店街の化粧品店の次男として、高度経済成長期に生まれました。平成の初めに改装をした両親の店、商店街や個人商店というものもその辺のバブル期が最後のピークでした。
 商店というのは、ある程度知識やら技能もいりますが、個人で経営していくのではやはり大手が有利になっていく時代になっていきました。再販の撤廃、大店法緩和など新自由主義が結果としては小さい商店を追い込み、少子化の後継者不足で止めを刺されました。

 化粧品、本、電気屋、レコード店、八百屋、豆腐屋、私の知る実家の商店街もどんどん廃業する店が増え、こじゃれた雑貨やスイーツ、カフェなどが残る感じになっています。

 兄も私も、業界に近い就職をして、家業を継ぐか思案する間に、お互い老いていきました。両親も後継者の状況ふまえ、この商売がこの立地で到底無理であり、跡を継ぐことは考えず、自分の時代で店を閉めました。

 小学校、中高、大学とそれぞれ友人たちも、家業を継ぐか、就職するか、就職しても途中で家業を継ぐなど、いろいろな選択し、いろんな人生を歩んでいます。順風満帆な人もいれば、波乱万丈な人もいます。

 センチメンタルな小説や映像作品などに、理髪店がたまに出てきて、会話術や人間関係力が重要な職業として描かれています。技術の必要な職人という感じですが、跡継ぎのいないケースの話もあれば、紆余曲折で後継を得る場合もあります。この業界も時代や時節で、激安の量販型のチェーンのカットハウスも出てきて、昔ながらの床屋さんは減ってきています。
 休みも少なく、当然土日なども休みではないため、他の業界の人と友達付き合いが難しくなったりする上、混んだらそれはそれでハードな仕事で、今の若者がやりたがるとは思えない職業にも思えます。

 それでも、ちょっとしたこだわりの男性は理髪店を変えず、同じ店に高くても通う場合もあり、ある地方では政治家が秘書の運転する高級車で乗り付けて、順番をぬかしてカットをしてもらう光景も見ました。

 与党の参議院の上のクラスまでいった世襲政治家ですが、その後継は現在途絶えたようです。
 政治家も世襲は大半を占めますが、上手な後継はそれなり難しいのでしょう。安倍さんもそういう面ではサラリーマンから切り替えて長く続け、命まで捧げて大変なものです。散髪で順番をぬかすような政治屋ではあんなに長くは無理でしょう。

 バブルを挟んで、家業を継いで商才もあったのか、大きく伸ばして儲けた人も、バブル崩壊、不況の影響で老舗や業界ごと苦戦を強いられた人もそれぞれ知っています。

 何代目とか、名門、老舗、お寺さんなど、好きか嫌いかとか合う合わないに関係なく、男子一人ということで子供の頃から、跡継ぎを選らばないといけない人生がどういうものだったのか、次男で自由に職業を選べた自分には想像もつきません。

 もちろん、ご両親が全て健在な人ばかりではありませんが、多くの人はやはり親の職業を見て、DNAなのか、それとも何かを感じ受け継ぎ、そこに近い選択をしている場合もしているのではないかと思います。
 ただ儲かるとか、羨ましく見える職業でも、外から見るよりも業界に入り、上になったり多くの人と交わりポジションになればなるほど、責任が重くなり大変な場合が多いものです。

 親が死んで、私自身も、円熟というのか老境、自分も親の晩年にやがて近づいてきました。だんだん親の気持ちは良く分かるとも言います。産み、育ててもらった恩に感謝するとともに、報いるためにも、それ以上頑張っていきたいとも思います。

 

ダイヤモンドサッカー世代、衝撃だったPK戦

 サッカーのワールドカップ劇的な決勝戦で終わりました。熱烈なファンは現地との時差もあり、しばらく寝不足とロス状態かもしれません。
 サッカーW杯に関してポジティブとネガティブに最近2回ブログにアップしています。またラグビーとの比較は、私のブログの中で通算で最多を争うほど閲覧されています。下記、ご参照ください。

 1970年代、当時野球などと比べ希少なサッカー少年は、三菱ダイヤモンドサッカーという番組で世界のサッカーを知った人が多いです。リアタイで全試合、BSやネットで見たり、少し遅れて配信をみたりできる時代で、多くの人がW杯の好カードを全部見て話題にしている今と比べると本当に隔世の想いです。

 当時、東京12チャンネル(現テレビ東京)は全国ネットがなく、私のところも地方UHF局(死語)でさらに遅れてしか見れませんでした。1年以上前の1970年のメキシコW杯や、プレミアと名のつく前のイングランドリーグを前後半45分を1週ずつ見て、喜んでいたのでしたからマニアックなものです。

 1968年、釜本や杉山を擁してメキシコ五輪で銅メダルを獲得した衝撃から、サッカーに着目し、当時アマ主体だった五輪の上に、世界最大のイベントワールドカップがあるということを知り驚き魅了されたのです。

 今年の大会で決勝含め、5度のPK戦は過去最多になるそうですがPK戦の導入は1970年代で、W杯では実際には1978年規定化されて、実際には1982年の準決勝が初実施だったそうです。
 国際大会では70年代から順次実施され、1971年の東京で開催されたアジアユースサッカーの準決勝で日本と韓国の激戦が中継され衝撃的なPK戦を見たのが、私の初めてのテレビPK観戦で、ここからサッカーに本当に取りつかれました。
 その意味では批判もしていますが、PK戦はやはり面白いのでしょう。

 長いサッカーの歴史と観戦歴から言うと、さまざまな戦術のトレンドがあり、ルールもレギュレーションも変わりました。やはり実力の下のチームが故意に引き分けPK戦勝ち狙いで勝ち進むということが、繰り返されるのもどこかで止めないといけないでしう。その変化、動きも今後出るかもしれません。PK戦の面白さスリリングと、理不尽はもろ刃の刀です。


 日本のサッカーも4年に一度、今回は奇跡的に4試合までできましたが、代表にJリーグの選手がほとんどいません。かつては代表で活躍した〇〇を観るために日本の国内リーグが潤った時代もあったのが皆無です。これは代表の連携強化や、興行としてもいびつな構造で、サッカーの裾野を今以上に広げるのには問題ではあります。Jと欧州の半々くらい、野球のNPBとメジャーの関係くらいが理想ではと思います。

 いろいろ政治的な話、ウラの話はまた次回。

サッカーを心から楽しむ – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

カタールW杯の暗部は日本の未来?     大阪万博の後、札幌冬季五輪、愛知、長野、日本W杯と繰り返されるのか – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

紳士がやる野蛮なスポーツ:ラグビーW杯 – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

ドスコイと呼ばれたOさんの思い出

写真は関係ありません

 ドスコイというと日本プロ野球西武ライオンズの主力打者で体格の良い山川穂高選手が、ホームラン後のパフォーマンスが有名で、彼の愛称でもあります。
 今日紹介するのは、山川選手でもなく、力士でもない、化粧品会社の女性です。(時々、若干はプライバシーもあるのでぼかし、修正しながらその人との軌跡を紡ぎます) 

 いろいろな人に出会った会社時代、個性あふれる人、いやな人物もいれば、尊敬できる人もいました。紹介したくなる偉い人も、反面教師もたくさんいます。

 別の小説やドラマや映画の創作を見ていて、奇跡とか奇矯な現実離れした話、それでも運命の気まぐれにほろっとくるような物語はありました。
 現実の出会いも平凡な市井の人だけど、こういう人生もあるのかと思いました。
 

 ある県で、結構イケメンで仕事もそつなくこなす男性社員がいまして、その妻となったのが彼の配下のチームにいたまとめ役的なリーダー、「ドスコイ」ことOさんでした。
  私が夫君の方と先に、彼が転勤後に同じ支店のエリア、部課で仕事をしてました。イケメンの彼がなぜ、ドスコイさんを選んだのか、周りの女性からも不思議がる感じを伝わっていました。私は一体どういう相手なのかと思っていると、しばらくして逆に私が彼女が残っていた県の支店に配属され、彼女の上司となる縁となりました。

 初めて歓送迎の宴で現れた彼女は、歩いて来て座るのに「ドスコイ!」の声がかかるほどのまさに恰幅の良い、女相撲みたいな丸い体形の女性でした。

 いったいイケメンのO君が何でこんな女性をと正直私も思いました。当時まだ私は独身でしたが、どうしても女性の外見へやら学歴などの思い込みが強く婚期が遅れていました。

 いざ、彼女と仕事をしていると、パソコンなどは全く苦手で不器用ではありましたが、人間味はあり、とにかく食べるのは大好きで、当時多かったチェーンのファミレスの安いバイキングへ行くときは本当に嬉しそうにルンルンしてました。

 だからと言って笑顔が可愛いほどではなかったですが、無邪気で素直な人間なのはよくわかりました。

 旦那のO君曰く、「女の顔や外見なんか、夜、真っ暗になったらわからへんし一緒や、まして10年も20年も経てばオバハンや」でした。
 美人は三日で飽きるとも言われますが、化粧品の会社でので美しい女性は沢山いて美貌を武器にさまざまな権謀術策を練る人ばかりでした。そんな中では癒しのような、ほっこりさせるような人でした。

 全国転勤の多い会社なので、その後Oはずっと単身赴任で、母点の支店を離れられない奥さんのドスコイさんとは離れての結婚生活が続いたようです。離婚になるケースも多いパターンながら、子供はできないまでも、連れ合ったまま熟年を迎えました。

 晩年はドスコイさんは脳梗塞を患い、Oは介護もあり早期退職制度で退職金を多く貰う方に決め、私より一足先に会社を離れました。単身赴任の別居が終わると、苦しいような介護の夫婦生活だったようにも聞きます。子供がいない分、お金も貯めて、Oだって単身赴任時代にイケメンだから、女遊びくらいはしたでしょうし、悠々自適にアウトドアや愛車に注ぎ込んで楽しくやっているとの話もあり、詳しいことはわかりません。

 退職してからOの同期から聞くと、やはり奥さんは亡くなったとのことでした。何か悲しい運命のような夫婦に思えます。何だか若くして命を亡くしたドスコイのことは切なく可哀そうにも思いました。今はそのファミリーレストランのチェーンもすっかり閉まってしまい、安いバイキングは無くなりました。

 ルッキズムの時代で、映像にもイケメンと美人ばかりで、それでも世の中にいろいろそうでなくとも運命を受け容れて、歩んでいる人はいるでしょう。

 楽しく人一倍ご飯を食べたドスコイさんが短くともいい人生だったと思いたいです。

幼稚園も介護施設もストレスフルで危険な場所

 年末はクリスマス、お正月前に高揚できる人もいれば、何とも世知辛い世相の1年だったなと嘆く人も多いでしょう。年の瀬に来ても、訃報や増税、事故やら政治家の不祥事などの話が続きます。

 昔から、そんなものあったよと言われます。確かに軍隊もあり、学校も家庭も町内も厳しく生活も厳しかった時代もあります。しかし、子供や老人を家族は養い労わるのものでした。イジメやハラスメントも保育や高齢者、介護が施設で肉親以外の職業の人があるのが当たり前の時代です。人間的な愛情や奉仕は、あくまでビジネスでお金であり、コロナ禍で制限が増え仕事が増え、シフトが難しくなったりで看護や保育、介護などサービス側のストレスは倍増したようです。ミスが増えて、危険が発生するとともに、意図的な暴力、イジメなども常態化していたことが表に出たりしています。

 幼児がバスに置き去りにされて、その悪意のない危険も初めてわかるものです。

 異常者とまでは言えない普通の人間が陰惨な事件を起こしてもいます。幼児や老人など、弱者であり、また言うことを聞かないと厄介者ということで、暴力的になる人や陰湿なことをする人も現れるものです。

 コロナのせいだけにはできない。核家族化して、現役引退した高齢者が家で老後を過ごすのはかなりの金持ちか、逆に貧乏な孤独老人かになっています。

 何だか、年をとって衰え弱くなるのは罪なのかとも思えるような、世知辛い世の中です。いろんな先輩のお話を聞くと、余計に残念なのが共通して「お金を持ってないといけない家族にも軽く見られ、バカにされる」といわれることです。

 子供を育てる頃から、恵まれた環境、豊かな環境というとやはりお金になってしまうのでしょうか。

 検証とかデータではなく、何だか悲しいなあと思ってしまいます。誰が絶対悪いとかではなく、これだけ多くの保育から介護まで多くの人がサービスしていると一定の割合で発生する課題だとは思います。

 自分に置き換えるとストレスがたまると、やはり失敗はしますし、機嫌も悪くなりキレる感じの時はありました。やはり全体的な環境は大事ですし、何とかほっこりとした気分転換ができるような逃げ道がないとみんなが救われないのではと感じます。仕事なんだから、楽なものはないのですが、自分が弱いものイジメして不当に楽しめばどこかで破綻が来ます。ただ、健全に少しでも楽しめる環境は必要だと切に思います。

年齢を気にせず新しいことにチャレンジできるか

私は大学を卒業して、60歳の定年まで社名は変ったが基本同じ会社に37年間勤めました。同年代には、転職を経験した人もいれば、家業を継いだ方もおられます。

 公務員の方なども、地方自治体など転勤もなくずっと同じ職場でほぼ同じ仕事という方もかなりおられるでしょう。反面、不安定ながらいろいろ経験された方がおられ、どちらがいいとか悪いでは言えません。

 私は60の定年が迫る頃、現役引退的寂しさもありながらも、何か新しいことができそうなワクワク感はしました。

 もちろん、大きな会社の看板を背負っていたバイアスはあり、自分が60歳で新たに雇ってもらえるほど世間は甘くはないことは改めて思い知らされました。60歳に限らず、まだまだ日本の労働市場でキャリアチェンジ、転職は難しいものだとよく分かりました。

 安定した待遇と老後を考えると、公務員や大企業、自営でもしっかりした財務体質の跡取りとかが人生として良いのは分かります。

 そう思いつつ、半生はラッキーだったと感じながらもやはりどこかで大きな冒険もしたかったという思いは尽きません。

 若いときでさえ、体力はあっても実力があったわけではないので、アスリートにも俳優にも起業家にもなれたとは思えないです。それでも選択できなかった職業に就いてみたかったという思いは、体力のなくなった今でもふと心をよぎります。

 実際には、なかなか新たな大きなチャレンジは難しく、世間も相手にはしてくれないでしょうが、心に中にはいつもそういう心構えを持ち続けたいとは思います。