戦争に賛成も反対も所詮はエゴ

 ロシアの情勢がどこまで、私たちに正確に伝わっているかは定かではありません。今見える構図はプーチン大統領が、国家総動員令を発し、予備役の元軍人なども徴兵するということで、ロシアから出国する者や、ワザと骨折するノウハウが出て反逆罪が強化され、国が混乱してプーチンの支持が下がっているいるという事象です。
 西側のマスコミとしては、ロシアの非道さ、市民の人心との乖離、プーチン体制の危うさを訴える機会と喧伝するかのようです。
 間違いではありませんし、ロシア側を庇うことではないのですが、戦争とは良かれ悪かれそんなものです。
 何もプーチンのロシアにだけ、そういうことが起こっている、起こるわけではありません。いざ、自分や家族、愛する人が戦地に赴き、生命の危機となる。銃口や刃物を突き付けられば、誰でも国家への忠誠より自分が大事です。

 日本が敗戦したアジア太平洋戦争でも軍部におどらされ喜々と戦争を賛美した層と、密に戦争には反対していた人はいました。そして、明確に分かれるものではなく、自分がいざ招集され厳しい戦地で理不尽な扱いを受けたり、空襲や被爆の被害を直接見れば心変わりする人も当然いたでしょう。
 戦争なんて、当事者となる指導者も悪いですが、それをああだこうだ言う兵士も、予備役の市民、傍観者の市民の多くは身勝手なものです。国家が安泰に保たれているなら、戦争をしようが核を持とうがどっちでもいいはずです。私もそうです。エゴです。日本も歴史上、外国と何度か戦争を行い、内戦も幾多もありました。そしてほとんどが、市民は勝てば官軍、結果的に勝てば良い、自分や周りが傷つかないことが第一でした。世界の平和やまして相手国の人間などどうでもいいのです。エゴとエゴのぶつかり合いですから、戦争は白熱し、指導者は勝つためには市民を犠牲にしてでも勝たないといけないのです。
 

 市民側は負ける戦争はして欲しくない、これもエゴです。

戦争を放棄して、軍隊を持たないと言えば戦争を逃れられるかというと、これも疑問符はつきます。他人や他国人を信じ、無防備で戸締りもない、警察もいない社会が成り立つかというとそうではないからです。
 しかし、武器を持っていれば安心か、警察や軍がいれば大丈夫かというと、世界的にはそうではありません。抑止力というものはある一定効果はあっても、限られてしまいます。また軍隊を持ち、核を持つ上で、敵国とエゴがぶつかり合いと、好戦的になりやすくなるというジレンマが生まれます。
 まかり間違っても戦争は勝てそうだからするものではないのです。100%無傷で勝てる戦争はないのです。人の領土や命を取り合うのですから、相手も必死です。戦争が始まる大義名分など、ほとんど嘘っぱちで始まり、それに市民が騙され煽られ、自国が正しいと信じて犠牲を厭わないムードにハメられます。

 戦争はあくまで、不幸を招くので最大限の外交、和平努力が必要だということです。

速読、倍速でタイパを稼いでる人が増えた

 アンチョコやダイジェストで勉強や読書はいけないと言われていました。オンラインでのビデオの授業や映画さえ倍速で見て、バイトや遊びの時間を稼ぐのが今の学生のようです。
 映画を倍速で見るなどクリエーター側からしたら嘆かわしいことですが、私は読書は速読で楽しんでいました。本当に面白そうな作品はゆっくり味わうこともありますが、一カ所にゆっくりたたずむのがもったいないという性格なので、次のことを始めるのです。
私の好きなミステリの読書なども、パズラー小説のパズルが解け、TRICKも犯人も分かれば速度があがります。ホラー要素や、ご当地キャラなどは面白ければそこだけ楽しめば良いのです。それで年間100冊ほど速読すると、そのことが知識に繋がります。
 クリエーター側にとっても、作品の宣伝のため予告編やダイジェストがあるとすれば、倍速で見て面白ければ、有料でゆっくり見るという商売もありなのでしょう。

 そして、勉強や仕事はどうでもいいような時間はできるだけ、端折って1.5倍でも倍速で済まします。そして大事なところ、どうしてもやることをやり、集中してあとの時間に備え、楽しめる人は器用に人生生き抜けると思います。

鉄道150年です1

 鉄道が日本で開業して今年この10月14日で150年です。ちなみに私が13歳くらいの時が鉄道100年というのがあったのでしょうが、まったく覚えていません。その前に明治100年というのがあったのは覚えています。

 話はそれますが明治から日本で始まったことが多いため、小学校などの子供の頃は入った小学校も100年目という感じで100年周年というのが多かったようです。中学校も、入社した企業も100年目を迎えた経験があります。明治初期に始まって残っているものは紆余曲折があっても150年経つのです。10年20年でも大きく変わる世の中で、150年続いている会社や学校、事業や文化などがあることはスゴイことです。

 時代によってその盛衰はあるので、残念ながら今は鉄道は全盛とは言い難い時期です。確かに今年西九州新幹線が開業され、今後リニアや他の新幹線の延伸計画もあります。それでもそれよりも多くの路線が赤字により廃止や転換が囁かれています。もう交通機関の主役が鉄道の時代ではありません。

 私の趣味の一つ、廃線跡の探訪ウォーキングも、そういった遺産をしのび文化の盛衰を検証するものです。
 とはいえ、まだまだ鉄道に期待される可能性は大いにあります。

 

経過観察終了      健康不健康がほぼ以前の状態に

 6月後半から、7月8月と入院と自宅療養で、日常を離れていたのが、ほぼ1カ月たち、仕事や体調などいろんな点が元にもどりました。63歳という微妙な年齢であり、同年配をはじめご心配をしていただいた方には感謝いたします。

 当初は半年かもっと治療にかかるかと思いましたが、一昨日の診療でもうとりあえず経過の観察も終了しました。肺の状態もレントゲンには膿胞の瑕疵は残るものの、血中酸素濃度や運動後の脈拍、心拍数も以前と変わらず。入院以前なみの身体には戻ったということです。

 ただ、まあ根詰めて仕事したら肩は凝り歯が痛くなるとか、時折アトピーで皮膚が痒くなるとか、重病の陰で隠れていた小さな不健康も見事に復活してはいます。

 適度に運動をして、食べて寝るという日常が戻ることがまあ少し幸せなのでしょう。病院での生活というのは、誰彼不自由もありそれなりストレスですから、まあもうしばらく楽しく過ごせるということです。

コロナ騒ぎがいよいよ消えるか

 WHOのテドロス・アダノム事務局長がコロナのパンデミックは終わりが見えたと発言しました。その後、別の事務方は否定気味なことも言いましたが、世界的な流行や死者などはもはやパンデミックとは言えない状況でしょう。武漢ウイルスが不気味に急拡大した頃に比べ、もはや身の回りの誰かは感染し無事に回復して免疫を得ており、生命の危険な感染を直接ウイルスが広めるわけではなくなっています。

 世界的にもニュース映像を見て、マスクをしている街中の光景は皆無となり、日本だけが取り残されている感じです。
 来月から、ようやく水際対策が大きく緩和され、入国制限の上限が撤廃され、個人旅行も許されるようになります。国内旅行の推進策も打ち出されます。

 最初の厳しい対応が国内の内閣支持率につながったために、国際状況や実態とそぐわない厳しい水際対策を続け、運輸・観光業や留学などの機会損失で、国際的信用や国益を失って支持より非難が多くなってきて後手に回っての緩和ともいえます。
 まだまだ、一部の「コロナ怖い」の洗脳が解けず、マスクオフを咎めたり、子供を含めワクチンを強制したがるワクチン信者も存在しますが。そろそろよく理解して、日常社会を取り戻し経済を回さないとますます日本は取り残されます。円安で利益を蒙る企業よりも、苦しむところや人々の方が増えてきています。

 ワクチンは副反応やワクチンそのもの後遺症の可能性をはらんでおり、製薬メーカーとの契約で推奨は続くでしょうが、そのメリットデメリットの均衡がデメリットになる方、リスクを考えた方がいい方も増えています。

 まあワクチンは説明するととても長くなりますが、反論もあるでしょうが、インフルエンザのケースで考えるとパンデミックの状況でないなら、もはやそのメリットデメリットの議論は別として、打つ打たないは自由なのです。

 マスクも同様です。つけるつけない、つけていないは他人に強制するものではないのです。皮膚の過敏などの疾患で元々マスクがしづらい人も多くいますし、マスクをつけることがマナーとか感染予防になるという認識はもう捨てるべき時です。
 多くの人が、直近で感染して回復しているため他人に感染されるウイルスを放出していなくなります。集団免疫状態にほぼ近い、大流行の末期です。
 そして、元々マスクの効果が多いに疑問ということです。部屋でも乗り物などでも、空気から感染するわけですから、換気が効果が高いのであって、息を止め続けるわけではないため、出す人は息からウイルスを止められません。不敷布マスクが一定のフィルター効果があるといっても空気そのものがウイルスに満ちていれば、完全には止められないので換気に比べると、息苦しい割には効果が低く、食事をするときには外すというなら、前後でマスクをつけるというのは滑稽な気休めに過ぎないことです。これを真面目な奇矯と思わず、平然と圧力をかけ強制し続ける。多くの市民目線が「日本の不気味」になっていることに早く気付かないといけないです。

アスリートの引退試合

 日本のスポーツの主流は秋口にシーズンオフを迎えるので、この時期に移籍や引退の話が出ます。
 NPBでは、すでに西武の内海哲也投手、阪神の糸井嘉男選手がシーズン中に引退試合を終え、中日福留選手、オリックス能美投手も引退を表明しています。引退を自ら宣言でき、引退試合までやってもらえるのはほんの一握りの名選手です。

 今クールで終了したドラマ「オールドルーキー」は、いきなりチームが消滅し現役引退を余儀なくされたサッカーの元日本代表選手が、スポーツマネジメントの会社に勤めます。アスリートのマネジメントを務める裏方に回るセカンドキャリアに悪戦苦闘する話でした。

 華やかなスポットライトを浴び、常に自分が主役であり、体調と体力維持で持ってきたアスリートの現役引退は、指導者や評論家などへの狭い道、別の世界に入る道、いずれにせよ現役のプライドと看板は下ろす、人生の転回点であり多くは厳しいものがあります。

 サラリーマンの定年は、同じような悲哀の部分もありますが、アスリートは概ね若いためこれからの生きる道を探らねばなりません。

 そんな中、稀有な例でしょうが、55歳で現役にこだわり続ける男がいます。サッカー界をかるつて牽引した「キングカズ」三浦知良はボロボロになり、海外、J2もわたり歩き、Jリーグの下部組織JFLで未だに現役でプレイしています。晩節を汚すとか、客寄せパンダとの非難も半ばありますが、猛練習をして現役を保っている姿にが多くの中高年も心打たれます。

 それにしてもかつてはNPBのベテラン、老獪な技術とか言われる選手は私にとって年上だったのですが、もはや自分の子供でもおかしくないような年齢でベテランと言われ引退試合をしていくとは、見てる私がいかに年齢を重ねたのか、時代を感じます。

ヰタ・セクスアリス4 特撮ヒロインやアイドルに憧れた少年時代

 まあだらだらと4日も続きましたが、今日は昨日のたわわ以上に炎上しそうな最近の画像でサムネ攻めます。
 性とか恋愛とかはやはりね、人それぞれ秘めたもの、歪んだような個人差があります。
 教科書やバイブルもちゃんとしたアンチョコもないのが、性の難しいところ。それを時代が妙にギスギスしたものに押し込めて。変におかしいものになっています。
 なかなか、恋愛って好きな人には伝わらず、うまくいかないものです。
アイドルや、特撮ヒロインにその欲望の代替をお願いして、自慰行為にふけったりという恥ずかしさ、後ろめたさみたいなものがありました。当時は今のようなネットでの同胞のつながりもなく、みんな同じような輩やもっと徹底したつわものもいて、世の中同じようなもんじゃんと思えたのは随分年取ってからです。
 コイバナに関しては以前もこのカテゴリで書いていますので、比較的いいとこまでつき合えたけど、結婚に足らなかった話は多少美化しながらありました。
 しかし、その以外の期間は、まあホンマに厭らしく言えば、恋愛したいけど相手いない寂しい期間の長きにわたる暗黒時代です。そのうっぷんを仕事にぶつけるわけでもなく、大金を出してプロと遊ぶでもなしでしたから、犯罪に行かずによかったとも思います。まあ、ミステリとkいろいろの読書、鉄道趣味、旅行趣味などが意外と発散していたのでしょうか。
 
 ただ個人的には、飽きっぽいところがありますので、いくつか失敗ばかり経験して焦りもありましたが、三十代半ばでようやく結婚出来たタイミングはまあ別に良かったかなと思っています。友達の中には独身をとおした人もいれば、すごく、すんなり初恋のような高校時代のつき合いから、判で押したような美男美女が恋愛成就して結婚して子供もでき長~く同じ屋根に暮らしているひともおられます。結婚生活の心得みたいなのがしっかりしているのでしょうか、適度に不倫とか遊びも恋があったのかはわかりません。倫理に反しな息抜きがあるとは思います。

 政治とか、大学、会社の中とかいろんなルールを厳しくするのか、自由、自治、自主がいいのかは、難しい議論です。議論するK都ができるのが、自由の証なのでしょうが。国だとか組織の名誉とか威厳とかのために、厳しくしたところで抜け穴はできるでしょうし、本当に抜け穴も何の隙も無いルールなら行きが詰まりそうで、私ならそんな学校、会社、国にはいたくありません。そして今さら厳しいルールを設けても、組織の過去の緩みや罪(があったとして)消えるわけでもないでしょう。世の中の裏側上の方に、いっぱい枕営業みたいな闇もあって、それでお互いも訴訟もなく連帯責任もなく成り立っているのに、キレイごとだけがまかり通るのは何だかと思います。

ヰタ・セクスアリス3「月曜日のたわわ問題」 表現を不自由にする

「月曜日のたわわ」という「月曜日が憂鬱な社会人に向け、豊満な体型をした女子を中心に描かれるショート作品」が日経新聞に全面広告を出して、炎上してしまうというのが、少し前にありました。
 以下、たとえばジェンダー問題に詳しい識者などが、問題点を3つほどの主張をされています。内容をまとめると下記のようなものです。

 「見たくない表現」(たぶん痴漢を恐れて憂鬱な女子高生、OLなどにか)に日経新聞の朝刊で出合ってしまった読者が、購読の解約を表明する動きも出ているとのことです。「広告によって与えられた媒体のイメージはすぐには払拭できません。どのような広告を載せるかは、メディアにとってのリスクにもつながります」「異性愛者の男性が未成年の少女を性的な対象として搾取する」という「ステレオタイプ」(世間的固定概念)を肯定し、新聞社が「社会的なお墨付きを与えた」

「広告は女子高生のイラストをあえて用いることで、作品が発信しているメッセージを確信犯的に、大々的に伝えています。作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのものを日経新聞が肯定する構図です」

「メディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプを撤廃するための世界的な取り組み」を国際機関とともに展開してきた日経新聞が、自ら「ジェンダーのステレオタイプを強化する」という矛盾に陥ってしまったことだ。

日経新聞はUN Women 日本事務所と連携し、ジェンダー平等に貢献する広告を表彰する「日経ウーマンエンパワーメント広告賞」を主催するなど、広告のジェンダー平等化を推進する立場に立ってきた。同賞では、「3つのP」という審査項目を掲げている。

Presence 多様な人々が含まれているか

Perspective 男性と女性の視点を平等に取り上げているか

Personality 人格や主体性がある存在として描かれているか

この基準に照らすと、今回の全面広告は、『未成年の女性の肉体に欲望を抱く男性の視点』のみに偏っており、見られ、触られる側に立つ女子高生の『人格や主体性』は考慮されていません」と指摘

これまで大手メディアとしてジェンダーのステレオタイプを克服するために取り組んできたことは、全て偽善だったのでしょうか」「今年の新入社員が最初に迎える月曜日」に、「豊満な体型」の女子高生を通勤中に眺めて「元気になってもらう」。こうしたステレオタイプを強化する全面広告が注目を浴びる一方で、女子高生らは痴漢の増える不安な時期を迎えている。一般社団法人痴漢抑止活動センター(大阪市)は「4月は、電車通学に慣れていない新入生を狙う痴漢が増えます」とTwitter上で警告
 などというまあ随分強引な結論づけをして厳しい対応や忖度して自粛を迫るようなこと言う人達の非難が集中したわけです。

 マンガそのものは書くのは自由なのでしょうが、日経新聞の一面広告がダメということなのでしょうか。
 最近は、水着とか露出はなくとも、〇〇を連想させると言われている姿勢やポーズとかで噛みつく人もいます。実際たわわとされる胸が正面から書いているわけでもなく、単にキャラクターが月曜日に憂鬱なサラリーマンを愛らしく微笑んで激励している以上に見ることはないと思うのですが、どう感じとるかは自由なので否定はしきれません。しかし、新聞を広げなくとも多くのエッチな水着写真はもちろん、ヌード写真やAV動画、昔のポルノ映画だってそれこそ「痴漢電車どうのこうの」なんてのもスマホやタブレットで見て女高生に欲情を抱いている人も大勢いるかもしれません。
 日経新聞というところがいくらこういう取り組みをしていようが、権威か厳粛なところなのか、別にこの程度のことが問題になるのは正直、どうでもいいというのか、騒ぐ気持ちがわかりません。
 憂鬱な月曜日の朝、踏切の人身事故いわゆる飛び込み自殺も多い中、このマンガに癒されていた方もおられるのですが、確かにこういう容姿、スタイルを見るのが不快と言われれば何とも難しいところです。裸、水着とかレオタードでもダメ、やがてイスラム教のラマダン時期みたいに禁欲になっていく方向がジェンダーなのでしょうか。

 まだつづくかな

ヰタ・セクスアリス2    誰もが童貞を捨てるのに焦り、青春の門の前でもじもじした

 東京の方の大学の方の本が続いてしまいますが、齢63になる私たちの世代の学生時代に人気があった小説で,映画化もされた作品に五木寛之さんの「青春の門」というのがありました。現在も進行中の大河小説で長く書き続けられ、私も含め全巻を読んでいる人は多くないでしょうが、筑豊編に始まる初期の話は、何度も映画やドラマになり、その概要を知る人は多いでしょう。
 時代なので、赤線、売春も出ますが、「誰もが1度は通りすぎる、そしてただ1度しか通ることの許されない青春の門」というのはいつの時代も変わらない気がします。
 男性目線と言われるかもしれませんが、男と女は表裏一体のものです。
 現代は、いろいろなモノや情報が私たちの若い頃よりも早く簡単に手に入る時代です。その反面昨日も書いたように、妙にお堅いこと、厳しい規律を掲げる窮屈な時代でもあるような気がします。
 昔はエロい写真や雑誌などがビニールをかぶって売られ入手するのが難しかったような時代でもありました。今はネットを探って、ポチればとんでもないほどいやらしい動画が入手できるような感じです。テレビなどの上っ面では裸や厭らしい言葉がなくなったのに、手に入れようとすればすぐわいせつなものが入手できる。
 ところが、昔の言葉で耳年増というのか、変な情報はあっても、いざ現実に異性と対話して体験、経験していくのとはわけが違うのです。
 かくいう私もそうでしたが、童貞をなくすのに結構な時間と苦労がありました。それはモテる、モテないとか、人間的にいい悪い、仕事や勉強ができるできないとは全然違う話です。若い男性も女性も性や恋に悩む年代であり、それを男性にとってはプロの女性が指南して経験を積ませたからうまく流れたとも言えます。そういう女性がいたことを表に出すのは、女性差別だと言われる向きもありますが。そういったプロと経験した男性が上手く素人、初めての女性を相手にして上手くコトが流れるのに寄与したというのはあると思います。
 ちなみに私の場合は、いわゆる性風俗に行ったことはあり、そこが初めての経験かもしれませんが、とても年齢のいった女性で全然まともな経験ではありませんでした。ですので趣旨とは違いまがプロは嫌いです。

 学生時代の体育会系や、劇団のグループの友人などの話によると、そういうプロで経験した者と、もちろん本物の恋人とに分かれるのと、あと中間ではないですが、けっこう誰とでも付き合ってくれる「サセコ」という感じの女性がいたのです。もちろん、誰彼と見境ないなくというのではなく、そこそこのつき合いで、短いインターバルですぐカラダの関係にいたってあと腐れがなく、別の人ともすぐつき合い、また付き合ってくれるみたいな感じだ、というお話です。
 基準がユルイといって、全てのモテない童貞やブサ男まで相手にしてくれるかというと、そこが難しいところです。ただイケメンの口利きとか、お金をかけた設定で一度だけならとかが何とかなるハードルのようです。

 集団での半強制性交というのが母校のアメフト部で、強姦犯罪のようにやり玉に挙がっています。どうもいろいろ確認にていると、報道がイメージづけているような、それほど凶悪な企図のある集団での常習的性犯罪者ではなく、情けない要領の悪い、ドジな童貞君たちのようです。
 1対2とか4ってプレイもありますが、基本的に同性と一緒になど恥かしいですし、それほど面白いものではないそうです。一人ずつ順番でも後でする方は、何となく不潔感を覚えますし、キレイに洗ったとしてその間が空きますし、私ならイヤです。これをいいと思う友達はほぼいなかったですね。鬼畜集団レイプなどというのはAVやエロビデオのウリです。

 まあ、愛のあるセックスとは基本1対1のパーソナルなものだと思います。報道で明らかになった1時間に4人かわるがわるというのは、その前の4時間以上お酒を呑んでというのから考えると「たった1時間、早ーっ」ではないでしょうか、本人たちにとっては一人がリードした、童貞喪失体験会みたいなものではなかったのかなと思います。相手が精神的肉体的に損害や被害を蒙ったと思い、不快に思う気持ちで訴えるといわれればそれまでなので、男性たちに非はもちろん全面的にあります。男性は女性を不快にしてはいけませんし、それで訴えられるのは本当にへたくそ、情けないドジ野郎であり、周りが深く反省して組織に自粛などがあれば、本当の迷惑野郎です。しかし、まあ本人たちはたった1時間、一人15分ほどのため、就職内定取り消しで、暴露雑誌に顔をさらされ、一生を棒に振りかねないとしたら、親御さんも含めてまあ忸怩たるものというか、それこそメンタルケアが必要な危険なレベルです。
 厳しすぎる青春の門みたいな話ですが、そういう何ともいえない理不尽なタイミングというのもありなのでしょう。

  また少し話がそれて「月曜日のたわわ」の話は明日へ(つづく)

 

ヰタ・セクスアリス  最近まじめすぎる禁欲主義のような人が増えた?

 性の問題、その情報というものはセンシティブで、書き込むのも作品化するとか報道するときも非常に難しい面があります。
 何だか最近は、自分は性欲も我慢したひどく高潔な、石部金吉みたいなことをレスする向きが多いようです。一つの性的な表現事象や性犯罪の事件をとらえ、著しく厳しい発言や妥協を許さない非難をし、擁護する者も攻撃する。「時代遅れ」とか我々の時代にはあり得なかったとか、歴史初めての暴挙のような表現までされます。性風俗の歴史などを考えれば、現在に近いモラルやらができたのはごくごく最近であり、愛人や不倫に罰則はなく、昔はもうやりたい放題のようなところがありました。
 ですから、男はオオカミに変わるからとか、夜道は女子供一人で歩くなというような戒めがあったわけです。
 逆にいうと、若い男の性欲、女の性欲など今も昔も量など変わりあるとは思えません。悪質な性犯罪は統計的には減っており、ある程度治安のよいいい時代になっています。ただいろんな人権が確立したり、不快を感じる微妙な心理までもセクハラという罪に問われるようになると、大きなメディアに出る表現や、有名な企業や大学などでは罪のハードルは低くなり摘発されやすくなっている気がします。表現は昔と比べ、ものすごく不自由になっているところに、ますます雁字搦めの不自由を叫ぶような人がいます。
 鴎外のヰタセクスアリスではないですが、私らも若い頃、間違いなく今なら捕まりそうなエッチなことはやってきました。それは友達や同僚も同じレベルでした。今も昔も、英雄色を好むでも、偉くなってるやつはもっと豪快な遊びや犯罪まがい(今なら犯罪)をやって逃れてのし上がっていました。

 レイプ、強制性交などの性犯罪を許すとか擁護するわけではないですが、そういう人が特殊な異常犯罪者かというと、そういうわけではなく、誰もがもっている性衝動ではないかと思います。そして、それがいい悪いに関わらず、我慢しきれない状況が偶発する場合もあるし、衝動を抑えきる理性がやや弱い人もいるということです。
 犯罪として、表に出るのは氷山の一角であり、和解や泣き寝入りの数も多いでしょう。性衝動を抑えきれない危ない人間というのは、ある一定の割合で、学業や仕事が優秀な人間の中にも潜伏しており、試験などで振り分けることなどまず不可能です。

 私の元同僚というか、部下、後輩にあたるYという男も国立大を出た優秀な男でしたが、新婚なのにとにかく女癖が悪いというか、遊びも不倫も強引な性交も何でもありのタイプでした。同年配のFという対照的なコツコツ真面目に積み上げるタイプの男がいたのですが、一般的な評価はもちろん、目立つのも上司に可愛がられ、女性陣からモテるのもなぜかYでした。
   

 個人的なこと書いてたら「月曜日のたわわ」問題まで行かんかったので明日へ(続く)