ヰタ・セクスアリス3「月曜日のたわわ問題」 表現を不自由にする

「月曜日のたわわ」という「月曜日が憂鬱な社会人に向け、豊満な体型をした女子を中心に描かれるショート作品」が日経新聞に全面広告を出して、炎上してしまうというのが、少し前にありました。
 以下、たとえばジェンダー問題に詳しい識者などが、問題点を3つほどの主張をされています。内容をまとめると下記のようなものです。

 「見たくない表現」(たぶん痴漢を恐れて憂鬱な女子高生、OLなどにか)に日経新聞の朝刊で出合ってしまった読者が、購読の解約を表明する動きも出ているとのことです。「広告によって与えられた媒体のイメージはすぐには払拭できません。どのような広告を載せるかは、メディアにとってのリスクにもつながります」「異性愛者の男性が未成年の少女を性的な対象として搾取する」という「ステレオタイプ」(世間的固定概念)を肯定し、新聞社が「社会的なお墨付きを与えた」

「広告は女子高生のイラストをあえて用いることで、作品が発信しているメッセージを確信犯的に、大々的に伝えています。作品で起きているのは、女子高生への性的な虐待。男性による未成年の少女への性暴力や性加害そのものを日経新聞が肯定する構図です」

「メディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプを撤廃するための世界的な取り組み」を国際機関とともに展開してきた日経新聞が、自ら「ジェンダーのステレオタイプを強化する」という矛盾に陥ってしまったことだ。

日経新聞はUN Women 日本事務所と連携し、ジェンダー平等に貢献する広告を表彰する「日経ウーマンエンパワーメント広告賞」を主催するなど、広告のジェンダー平等化を推進する立場に立ってきた。同賞では、「3つのP」という審査項目を掲げている。

Presence 多様な人々が含まれているか

Perspective 男性と女性の視点を平等に取り上げているか

Personality 人格や主体性がある存在として描かれているか

この基準に照らすと、今回の全面広告は、『未成年の女性の肉体に欲望を抱く男性の視点』のみに偏っており、見られ、触られる側に立つ女子高生の『人格や主体性』は考慮されていません」と指摘

これまで大手メディアとしてジェンダーのステレオタイプを克服するために取り組んできたことは、全て偽善だったのでしょうか」「今年の新入社員が最初に迎える月曜日」に、「豊満な体型」の女子高生を通勤中に眺めて「元気になってもらう」。こうしたステレオタイプを強化する全面広告が注目を浴びる一方で、女子高生らは痴漢の増える不安な時期を迎えている。一般社団法人痴漢抑止活動センター(大阪市)は「4月は、電車通学に慣れていない新入生を狙う痴漢が増えます」とTwitter上で警告
 などというまあ随分強引な結論づけをして厳しい対応や忖度して自粛を迫るようなこと言う人達の非難が集中したわけです。

 マンガそのものは書くのは自由なのでしょうが、日経新聞の一面広告がダメということなのでしょうか。
 最近は、水着とか露出はなくとも、〇〇を連想させると言われている姿勢やポーズとかで噛みつく人もいます。実際たわわとされる胸が正面から書いているわけでもなく、単にキャラクターが月曜日に憂鬱なサラリーマンを愛らしく微笑んで激励している以上に見ることはないと思うのですが、どう感じとるかは自由なので否定はしきれません。しかし、新聞を広げなくとも多くのエッチな水着写真はもちろん、ヌード写真やAV動画、昔のポルノ映画だってそれこそ「痴漢電車どうのこうの」なんてのもスマホやタブレットで見て女高生に欲情を抱いている人も大勢いるかもしれません。
 日経新聞というところがいくらこういう取り組みをしていようが、権威か厳粛なところなのか、別にこの程度のことが問題になるのは正直、どうでもいいというのか、騒ぐ気持ちがわかりません。
 憂鬱な月曜日の朝、踏切の人身事故いわゆる飛び込み自殺も多い中、このマンガに癒されていた方もおられるのですが、確かにこういう容姿、スタイルを見るのが不快と言われれば何とも難しいところです。裸、水着とかレオタードでもダメ、やがてイスラム教のラマダン時期みたいに禁欲になっていく方向がジェンダーなのでしょうか。

 まだつづくかな

ヰタ・セクスアリス2    誰もが童貞を捨てるのに焦り、青春の門の前でもじもじした

 東京の方の大学の方の本が続いてしまいますが、齢63になる私たちの世代の学生時代に人気があった小説で,映画化もされた作品に五木寛之さんの「青春の門」というのがありました。現在も進行中の大河小説で長く書き続けられ、私も含め全巻を読んでいる人は多くないでしょうが、筑豊編に始まる初期の話は、何度も映画やドラマになり、その概要を知る人は多いでしょう。
 時代なので、赤線、売春も出ますが、「誰もが1度は通りすぎる、そしてただ1度しか通ることの許されない青春の門」というのはいつの時代も変わらない気がします。
 男性目線と言われるかもしれませんが、男と女は表裏一体のものです。
 現代は、いろいろなモノや情報が私たちの若い頃よりも早く簡単に手に入る時代です。その反面昨日も書いたように、妙にお堅いこと、厳しい規律を掲げる窮屈な時代でもあるような気がします。
 昔はエロい写真や雑誌などがビニールをかぶって売られ入手するのが難しかったような時代でもありました。今はネットを探って、ポチればとんでもないほどいやらしい動画が入手できるような感じです。テレビなどの上っ面では裸や厭らしい言葉がなくなったのに、手に入れようとすればすぐわいせつなものが入手できる。
 ところが、昔の言葉で耳年増というのか、変な情報はあっても、いざ現実に異性と対話して体験、経験していくのとはわけが違うのです。
 かくいう私もそうでしたが、童貞をなくすのに結構な時間と苦労がありました。それはモテる、モテないとか、人間的にいい悪い、仕事や勉強ができるできないとは全然違う話です。若い男性も女性も性や恋に悩む年代であり、それを男性にとってはプロの女性が指南して経験を積ませたからうまく流れたとも言えます。そういう女性がいたことを表に出すのは、女性差別だと言われる向きもありますが。そういったプロと経験した男性が上手く素人、初めての女性を相手にして上手くコトが流れるのに寄与したというのはあると思います。
 ちなみに私の場合は、いわゆる性風俗に行ったことはあり、そこが初めての経験かもしれませんが、とても年齢のいった女性で全然まともな経験ではありませんでした。ですので趣旨とは違いまがプロは嫌いです。

 学生時代の体育会系や、劇団のグループの友人などの話によると、そういうプロで経験した者と、もちろん本物の恋人とに分かれるのと、あと中間ではないですが、けっこう誰とでも付き合ってくれる「サセコ」という感じの女性がいたのです。もちろん、誰彼と見境ないなくというのではなく、そこそこのつき合いで、短いインターバルですぐカラダの関係にいたってあと腐れがなく、別の人ともすぐつき合い、また付き合ってくれるみたいな感じだ、というお話です。
 基準がユルイといって、全てのモテない童貞やブサ男まで相手にしてくれるかというと、そこが難しいところです。ただイケメンの口利きとか、お金をかけた設定で一度だけならとかが何とかなるハードルのようです。

 集団での半強制性交というのが母校のアメフト部で、強姦犯罪のようにやり玉に挙がっています。どうもいろいろ確認にていると、報道がイメージづけているような、それほど凶悪な企図のある集団での常習的性犯罪者ではなく、情けない要領の悪い、ドジな童貞君たちのようです。
 1対2とか4ってプレイもありますが、基本的に同性と一緒になど恥かしいですし、それほど面白いものではないそうです。一人ずつ順番でも後でする方は、何となく不潔感を覚えますし、キレイに洗ったとしてその間が空きますし、私ならイヤです。これをいいと思う友達はほぼいなかったですね。鬼畜集団レイプなどというのはAVやエロビデオのウリです。

 まあ、愛のあるセックスとは基本1対1のパーソナルなものだと思います。報道で明らかになった1時間に4人かわるがわるというのは、その前の4時間以上お酒を呑んでというのから考えると「たった1時間、早ーっ」ではないでしょうか、本人たちにとっては一人がリードした、童貞喪失体験会みたいなものではなかったのかなと思います。相手が精神的肉体的に損害や被害を蒙ったと思い、不快に思う気持ちで訴えるといわれればそれまでなので、男性たちに非はもちろん全面的にあります。男性は女性を不快にしてはいけませんし、それで訴えられるのは本当にへたくそ、情けないドジ野郎であり、周りが深く反省して組織に自粛などがあれば、本当の迷惑野郎です。しかし、まあ本人たちはたった1時間、一人15分ほどのため、就職内定取り消しで、暴露雑誌に顔をさらされ、一生を棒に振りかねないとしたら、親御さんも含めてまあ忸怩たるものというか、それこそメンタルケアが必要な危険なレベルです。
 厳しすぎる青春の門みたいな話ですが、そういう何ともいえない理不尽なタイミングというのもありなのでしょう。

  また少し話がそれて「月曜日のたわわ」の話は明日へ(つづく)

 

ヰタ・セクスアリス  最近まじめすぎる禁欲主義のような人が増えた?

 性の問題、その情報というものはセンシティブで、書き込むのも作品化するとか報道するときも非常に難しい面があります。
 何だか最近は、自分は性欲も我慢したひどく高潔な、石部金吉みたいなことをレスする向きが多いようです。一つの性的な表現事象や性犯罪の事件をとらえ、著しく厳しい発言や妥協を許さない非難をし、擁護する者も攻撃する。「時代遅れ」とか我々の時代にはあり得なかったとか、歴史初めての暴挙のような表現までされます。性風俗の歴史などを考えれば、現在に近いモラルやらができたのはごくごく最近であり、愛人や不倫に罰則はなく、昔はもうやりたい放題のようなところがありました。
 ですから、男はオオカミに変わるからとか、夜道は女子供一人で歩くなというような戒めがあったわけです。
 逆にいうと、若い男の性欲、女の性欲など今も昔も量など変わりあるとは思えません。悪質な性犯罪は統計的には減っており、ある程度治安のよいいい時代になっています。ただいろんな人権が確立したり、不快を感じる微妙な心理までもセクハラという罪に問われるようになると、大きなメディアに出る表現や、有名な企業や大学などでは罪のハードルは低くなり摘発されやすくなっている気がします。表現は昔と比べ、ものすごく不自由になっているところに、ますます雁字搦めの不自由を叫ぶような人がいます。
 鴎外のヰタセクスアリスではないですが、私らも若い頃、間違いなく今なら捕まりそうなエッチなことはやってきました。それは友達や同僚も同じレベルでした。今も昔も、英雄色を好むでも、偉くなってるやつはもっと豪快な遊びや犯罪まがい(今なら犯罪)をやって逃れてのし上がっていました。

 レイプ、強制性交などの性犯罪を許すとか擁護するわけではないですが、そういう人が特殊な異常犯罪者かというと、そういうわけではなく、誰もがもっている性衝動ではないかと思います。そして、それがいい悪いに関わらず、我慢しきれない状況が偶発する場合もあるし、衝動を抑えきる理性がやや弱い人もいるということです。
 犯罪として、表に出るのは氷山の一角であり、和解や泣き寝入りの数も多いでしょう。性衝動を抑えきれない危ない人間というのは、ある一定の割合で、学業や仕事が優秀な人間の中にも潜伏しており、試験などで振り分けることなどまず不可能です。

 私の元同僚というか、部下、後輩にあたるYという男も国立大を出た優秀な男でしたが、新婚なのにとにかく女癖が悪いというか、遊びも不倫も強引な性交も何でもありのタイプでした。同年配のFという対照的なコツコツ真面目に積み上げるタイプの男がいたのですが、一般的な評価はもちろん、目立つのも上司に可愛がられ、女性陣からモテるのもなぜかYでした。
   

 個人的なこと書いてたら「月曜日のたわわ」問題まで行かんかったので明日へ(続く)

55号のホームラン王の時代

 1964年(昭和39年)に王貞治が打った1シーズン55本という記録はその後長らく破られなかった伝説的な記録です。その後、55本に並びその後は2000年以降に、忖度の敬遠で超えることができなかったローズ、カブレラが現れ、バレンティンがついに60本に到達しますが、いずれも外国人選手でした。今回60年近くかかりついに日本人で55本ものホームランを打つ日本人の若者が現れました。
 1964年に記録された55本は、5歳当時の私の記憶にありません。その後の王選手が円熟して、1977年に856号の世界記録と騒がれた頃がリアタイの中学生でした。この記録からネーミングされた芸名、コント55号という二人はお笑いの世界で時代を席捲しました。

コント55号という名前も現代にも通じる斬新なイメージがあります。主に平凡な坂上二郎がエキセントリックな変人萩本欽一に振り回されるような設定のコントも、今キングオブコントでもいけそうですし、東京03がやってもいいようなシュールな面白さや激しい動きがありました。バラエティで野球拳という今では放送できないような破廉恥な内容でブレイクしたため、一時期低迷で二人のコンビは減り、坂上は俳優を中心に活動し、萩本は単独の冠番組で再び一世風靡しました。新しい漫才ブームで浅草からツービートなどの出るだいぶ前の時代で、コントやバラエティー番組の基礎を築いたとも言えます。

 スポーツとしては野球しかない時代なので、55号といえば王選手のホームラン55本を誰もが連想した時代。現代は村上宗隆、大谷翔平といえどもここまで記録は上回っても日本中を席捲して誰もが知っている時代ではなくなって、多様化した時代です。
 

仕事が早い、仕事ができるの勘違い

 私も昔、自分だけがパソコンができ、エクセルも早く、パワポも上手いと思って自惚れていた時期があります。
 自分だけがその時たまたま身に付けたスキルや、知っていた情報があったからエライということはないのです。
 自分だけがF1を走っていて、部下は原付やママチャリで走っているように見える。でも、部下はそんな上司を意外と冷静に鋭く見ているのです。信頼されていないと思った部下は心から協力はしないし、目に見えないところで足をひっぱります。指示されたこと以外には積極的に動きません。上司は自分が全ての現場に行くわけでも、全ての書類を一から作りチエックする訳にもいかないのです。

 どんなに未熟な人間でも個性の強い人間でも、コミニュケーションを取りしっかり活動してもらわないとチームは成り立ちません。
 自分が自分がとマウントし、自分の価値観を押し付けるのは、上に立つ者としてはNGです。

99.9%の恐怖 冤罪だと誰が責任とるのか

 残念なことに、母校の大学のアメフト部の学生が酒で酩酊した女性を暴行した容疑で逮捕され、リーグ戦辞退、活動停止となりました。
 昨日現在、逮捕された4人が犯行を認めているかどうかも含め、犯罪の性質上詳細までは報道されませんが、4人は実名と顔写真までさらされています。事実上さらし首です。

 チラ見する母校の関連サイトでは、「恥さらし」とか「即刻除籍」とか厳しい書き込みと個人情報の特定を拡散する正義感旺盛の方々がおられます。

 この種の事件は、事実関係の確認と捜査、裁判の結果を見守るべきで、OBや大学関係者があれこれ推察して断罪、拡散してさわぐべきではありません。出場できなくなった4回生の無念もだし、名前をさらされた学生の家族の心情を慮ります。

 事実なら女性の尊厳を冒瀆する唾棄すべき犯罪であり、庇う気持ちはありません。逮捕に至ったということは被害者側が訴え、ある程度の事実を捜査側が掴んでのことでしょうが、99.9%有罪のにおいが濃いとしても、冤罪ではないとも言い切れません。痴漢などのケースはむしろかなり冤罪の割合が多い上、名誉を取り戻すことは難しいのが厄介なところです。

 お酒の勢いだといって許されるものではありませんが、女性が一人だったのか、計画性があったり常習的な集団だったのか、一過性のものなのか、4人全員が共通の罪状に匹敵するのかも今の段階ではわかりません。

 別の大学の前例の事件でも、女性側にも緩みがあったのではないかと監督が庇った際に集中砲火を受けました。しかし、ハニートラップ的なものとはいかなくても、20歳を超えた女性側が薬物を飲まされたわけではないようです。そうなると、被害者がただお酒を呑んで泥酔までになったのに、どこまで容疑者側が企図して関与していたのかも争点となるかもしれません。
女性の容姿や服装も気になるところですが、そういったことは想像をしていてもしょうがありませんし、それこそ怒られそうです。

 冤罪を恐れていては悪い奴を捕まえられません。しかし犯罪の立証と罪の償いは、マスコミやOBや素人が想像してやることではありません。冤罪だったとき、拡散した全てのマスコミやネット民が同じ情報量で謝罪するかというとそんなことはあり得ないのです。
 捜査権力を持つ者とマスコミが、横暴や選り好みをしてきた例は多いのです。こういうセンセーショナルな記事でも冷静に読むことが必要です。

夏の暑さが終わる         少しだけアンニュイ

 暑い時は暑いことに文句を言って、ヒーヒー言ってたのですが、いざ涼しくなって長い夏の暑さが陰り出し、朝晩が涼しくなりだすと、ちょっと寂しくなります。
 子供の頃の長い夏休みが終わる寂しさのトラウマなのでしょうか。京都では地蔵盆あたりからが夏休みの終盤です。当時の記録だと50年前は毎日猛暑日、真夏などにはならず、京都で30度を超えない日も多かったようです。
 まあ最近の夏は前後からとんでもなく暑いです。7月の初め梅雨が明けた頃、本当にギラギラだった太陽が、9月にもなると真昼はまだ暑いですが夕方は早く日が沈むようになり、何だか夕陽が寂しげです。

 小さい頃、もう亡くなった父親に夏休みの終わり間際にクルマでどこかへ連れてもらい、沈みそうな夕陽を見て帰る道はなんとなく寂しかったのを未だによく覚えています。イチジクを頬張って美味しかったのも思い出です。

 今年は、社会人になって以降初めて、入院をして6月の後半からずっと療養の欠勤、その後も1週間の出勤を挟んでコロナ陽性で欠勤、都合1カ月半という長い学生のような夏休みでした。もちろん子供の夏休みのように、海や山に出かけることもできない悶々としたものでしたが、本やネット、テレビなど今思うと時間の贅沢の限りでした。窓際の部屋で、夏空や京都の瓦屋根、夏の青空と入道雲、夕立も毎日見られました。個室ではなく4人部屋で苦労もしましたが、窓の外が望めるのは良かったです。

 ゆっくり昔を振り返ったわけでもなく、ごく断片的に子供の頃、学生の頃、若手社会人だった頃、新婚の頃、子育ての時期、熟年となっていく時期、いつも夏の終わりはこんなアンニュイを味わっていたのです。

 少しだけ感傷的になり、また何事もなかったように、動きやすい心地よい秋の季節を頑張り、楽しむのですが、やはり夏の終わりの夕陽はアンニュイです。

実はどちらを選んでも正解のことは多い

 人生に迷うことは多いし,後悔することも多いです。また些細なことから、国家や企業全体を揺るがすような議論で大げんかになることはあります。
 しかし、世の中の全ての選択に、どちらが絶対正解で片方は明らかな間違いということは実はあまりありません。
 考え方であり、議論の余地があり、どちらを選ぶのも今の立場にいるからである場合だからであり、相手の立場になれば真逆になるケースが多いのです。

 スポーツの世界でも、野球やサッカーなどで選手起用や戦術の選択でものすごく評論家やファンが熱くなって議論したりします。
 負けたチームのファンはやけ酒煽りながら、監督批判や選手批判をして、まるで自分がプロの監督より優れた知識があり、的確な起用ができ見事な采配を振るえるような酔っ払いやネットに書き込みする人が山のようにいます。でも全て結果論であり、Aの選択をしてメリットデメリットがあり、Bの選択にも同様にあるのです。結果さえ見れば、Aが間違いに見えますがBを選んでも変わらない場合もあるでしょうし、今は結果はたまたまでなかったAの選択による失敗も実は良い経験となり今後につながることは多いのです。

 世の中にはこういうことはよくあります。学校や勤める会社の選択、友人やパートナーの選択、あの時この会社を選ばなければ、あの時あの人を選んでいなければとか、後悔することも多いでしょうが、それはどちらも間違いではないことが多いのではないでしょうか。そう思うと人生少し楽になり、ポジティブになれます。

 政治の選択や、大きなお金のかかるようなことは議論になり、命や大金を無駄にはできず議論は白熱し、分断を産むような対立がおこります。しかし、本質は同じです。どちらも正しい誰も悪くはないのです。

追悼 稲盛和夫氏 ビジネスマン時代の心の師

 私の後輩にD君という、けっこうイケメンだがどこか冷めたところのある社員がいて年は離れているが結構ウマがあいました。よく呑み歩いたり議論もかわし、アドバイスもしました。
 性格的に似ているので同じようなパターンでつまずくので、よく相談にものりました。他の後輩もたまに薦めたが、稲盛会長の本は優秀だが斜に構えたようなタイプの人がスランプに落ちた時に、熱く自分を奮い立たせることができる本だと思っています。

 私自身は若い頃、とても稲盛さんの京セラに入っていたらついていけないような、ダメ社員だったと思います。1982年くらいの京セラの噂はリクルートしている学生にも耳に入っていました。今の自分が思えば、そこで稲盛さんに出会い心酔していれば人生変わったかもしれないので、そういう選択もありかなという気がしないでもありませんが、やはり無理でしょう。

 私とD君もそこまでは熱くなれないという感想を共有しつつ、やはり自分の甘さやらネガティブな感情を稲盛流なら克服できることは感じ取りました。
 それでもなおかつ、ミステリ作家森博嗣の気楽に生きるようなエッセイもいいなという感じで共有していました。人間適度に熱くなり、ときどきは気楽に生きるのが一番のようにも思いました。

 歴史を見て、今の境遇に甘えないで少し冷静に自分を見て足りないところを補う、最低限のところは、私と後輩D君は学べたと思います。

 稲盛さんは一時民主党を支持されていて、政権交代後に失望されて政治とは距離を置かれていました。それでも政府に乞われJALの再建に白羽の矢が立ち、冷静でかつ熱い稲盛さんに重要な経営再建を遂行しました。まさに適任でした。
 90歳での大往生、心よりご冥福を祈ります。

いつ終わるウクライナの戦争 核使われたら責任は?

 核軍縮、核不拡散、原子力の平和利用を3本柱とする「核不拡散条約」(NPT)の再検討会議は26日午後(日本時間27日未明)、米ニューヨークの国連本部で最終日を迎えた。コンセンサス(意見の一致)による「最終文書」の採択をめざしていたが、ロシアが同意せず、決裂した。
 という報道で、まあいかにもロシアが悪役のような報道だが、ロシア擁護ではなく、一体戦争の終局はどこにあるのか。停戦の道筋が見えず、当初西側大国メディアがロシア経済が崩壊して早晩ギブアップするという局面はいつまで経っても来ないようです。
 広島、長崎で被爆経験がある日本は、核を使う可能性に言及するロシアに対して、ただの脅しとスルーして経済制裁、後方支援を続けていて良いのかという議論はあまりなされません。脅しの可能性があるにせよ、核は世界を壊滅させる脅威であり万一使われたらとんでもないことです。その局面だけはどんな外交手段を使っても止めないといけないのです。
 今でさえ悲惨な状況のウクライナ東部です。プーチンを怒らせて、さらに悲劇が起これば誰が責任を負えるのでしょう。プーチンが悪いとか悪くないではなく、プーチンの存在はそんなものとして、止める責任は見切れなかったウクライナ側に生まれます。

 だいたいプーチンは精神的におかしくなった狂人だと主張する人もかなりいましたが、狂人が核をもってそれを使うかもしれないと言っているのに、喧嘩を売り続けるというのはどういう了見かよくわかりません。いやまだ理性はあって世論や世界情勢は気にしていて判断力はあるという分析をされている方もおられ、恐らくそうなので核は使われないという見立てというか楽観的判断があるのでしょう。もちろん核を使う可能性は低いことに間違いあないでしょうが、ゼロではありません。脅しに屈するとかではなく、狂人でないのならあらゆる手段を講じちゃんと停戦の交渉をして市民の安全を守るのが、国家の代表と周辺国同盟国の義務だと思います。国家主権を全て手放す無条件降伏とごっちゃに思う日本人が多いですが、主義主張はいったん棚上げして戦闘を止めましょうというのが停戦交渉です。
 東西冷戦のキューバ危機、必死になって世界の破滅を止めた時、どっちが悪いからなどと言ってられなかったのです。戦争をする以上どちらも相手が悪いと罵り合いますが、それよりも次元の高いレベルに核攻撃を止めないといけない欲求があるはずです。日本は被爆国であり、東日本大震災でも福島の原発事故を経験し、核と放射能の恐ろしさはどの国よりも知っているはずです。日本の立場で核は禁じ手としての局地戦争を止める手立てを模索すべきです。