杖をつこうが自分の足で歩む高齢者

以前にも杖をついて散歩する高齢者の女性に毎日通勤時に顔を合わせることを書きました。夕方にはストックでリハビリで歩く年配の男性よく見かけます。一方、それらより多くみかけるデイサービスの車に、車椅子で運ばれる高齢者の多いこと。
健康寿命という面では自分の足で歩くことは本当に大切です。
少子高齢化の進む中、高齢者の医療負担、介護負担は社会全体としても大きな重荷ともいえる金額になっているのは間違いないことです。
被保険者である高齢者が負担するか、家族や社会全体で負担するのか、ファイナンスや経済の問題も重要ですがそれだけではありません。生命の尊厳、生き方の尊厳として、歩けないことで失われることは多く大きいです。
運動をしないと、人間は筋肉や骨等その機能をどんどん弱くしていきます。なまくらが命とりになるほど使わないところは衰えます。その上、贅肉がつくと循環器にも負担がきます。寝たきりに一直線です。一度、骨折や疾患で弱ると悪循環に陥ります。
コロナ禍の外出自粛も心配の種です。一人で散歩することで感染する可能性はゼロです。それよりも散歩や運動の習慣をやめるリスクの方が高いです。
まだ仕事をしていて家計を支えている方は必死でリハビリもするでしょうが、リタイア世帯の高齢者が難しいところです。よほどの覚悟をもってリハビリをしないと、人間どこかで甘えが生じます。もういいかなでそのままぽっくりならいいのですが、日本の高齢者医療、終末医療は延命にシフトしており、介護等の費用と周りの手間はかかります。
今まで頑張った老人を支えるのは当たり前という考えが、その甘えをお互いに増長させます。頑張った親や先輩だからこそ、自分で歩けない自立のない尊厳もない老後を送らせてはいけないのです。
尊厳ある生と死のため、生きながらえるだけでなく、しっかり杖に支えられようと自分の愛で歩いていくことが大切です。


五輪、スポーツイベントどうなるか

オリンピック開催をめぐって、コロナ禍の感染対策中でどこでも喧々諤々の議論が叫ばれています。
どうやらここへ来て五輪は観客制限はあれ開催の雲行きですがですが、反対の意見も根強く流動的な情勢です。
イベントもやや緩和の情勢ではあります。
しかし、聖火リレーやワクチン接種会場にサッカー場が使われたりと、何だかお上の非常事態接収を感じる世相です。
スポーツも音楽、演劇も好きです。もちろん爆弾が落ちてくる戦時下でそんなことやってると危険です。でも人々はつかの間に平和と幸せをスポーツ等に感じるのでしょう、シリアやイラク、ミャンマー等政府の思惑があるのかないのかは分かりません。しかし厳しい条件でも参加してくることにコロナ禍克服以上のものを感じます。

【麦秋至】緑色だが「青もみじ」森林浴   #麦秋至#森林浴#青もみじ

5月から6月の腫れた日は、青葉が綺麗に目に映えます。【麦秋至】と呼ばれる麦の穂が実る季節でもあります。
日本では青と緑の色の概念上に区別があまりなかったそうで、「青葉」「青ガエル」「アオムシ」「青信号(少し前のタイプ)」等は緑色をしているのに青を冠しています。
紅葉は秋は期間が限定され名勝は混みますが、緑の季節のいわゆる「青もみじ」は比較的ゆったり見れます。
日本は山国、森の国でほとんどの地方で、都会から少しの時間で森林浴が楽しめる森や山に入ることができます。
施設が休業でストレス発散の場が少ないと言われますが、森を歩くことはそうは咎められない癒しだと思います。

いろんな制約、ハンデ、ルール、厳しい条件、不公平もあってメダルの価値がある  #オリンピック#検疫#新型コロナ#いだてん

2年前のドラマで日本から初めて五輪に参加した時の様子を描いた「いだてん」では、日本からシベリア鉄道で長旅して、大変な思いでストックホルムまでたどり着きました。
当時は体格も運動能力もスポーツのあらゆる素地がない国が、参加するだけでも大変な意義出たことが良く描かれてました。こうした日本の勇気ある魁の志による参加が、他のアジアやアフリカに文化や政治、経済の自立と成長へ与えた影響は大きいと考えられます。
1964年のアジア初の五輪もまたその志の成果でしたし、その後当時参加できなかったりメダルに程遠かった国もどんどん参加しメダルを争うレベルとなりました。
それでも、1つの国に世界中の様々な競技者が4年に一度集うのですから、必ずしもその4年間の自己ベストが実現できるわけではありません。また事情により実力がありながら予選敗退や、ケガや政治的な事情等で棄権する場合もあります。
移動は飛行機で時間も短縮されましたがそれでも今回コロナの検疫問題も発生しました。もともと世界中から移動して参加することには、いろんな制約、不公平、厳しい条件、ルールやレギュレーションに縛られたものがありました。
自分の国の中でのコンデションでの記録ではないのです。大陸を移動し、4年の時間、世界中と競ってその中でメダルの価値があるのでしょう。ただの記録ではない、そこにたどり着いたことの価値の証明なのでしょう。
人類がコロナと戦い勝利した証にするというのはさすがに強引な後付けのようなフレーズで好ましくはありません。
しかし、シリアやミャンマーなど相当な戦時下内戦状態の国でも駆けつけることを思うと、一時的にもコロナを忘れ戦争を忘れるイベントの意義はあります。
人類が集い競技を競うことが素晴らしいことには違いはないのです。

飽食の時代

ちょっと外食で贅沢ができない時期ではありますが、食べ放題とかバイキングとかが比較的リーズナブルになった時代です。
先日も廃線散歩で、戦中の軍事輸送に使われた跡の道を行くと、つい飢餓の時代はどうだったのかと思います。
「永遠のゼロ」という百田尚樹原作のセロ戦の映画に「大福が食べたい」とか無理を言う隊員がいて、砂糖等が貴重な時期に何を言うかといわれてるシーンがありました。調理師も何とか無理をして特攻の日までに用意しようとするのですが、結局間に合わないタイミングに空しく大福が出てきます。
また映画で有名になった野坂昭如の「火垂るの墓」での、末期の少女がドロップが食べたくておはじきしかない描写もすごく悲しく心に残っている方も多いでしょう。
今は大福をはじめあらゆるスイーツを作る職人も材料も潤沢にあります。贅沢もできますし、手ごろな値段で少し歩けばコンビニで、何でも揃います。
飲食店やコンビニでは余った食材や賞味期限の切れた弁当等がどんどん捨てられています。
戦後間もない頃は、ホテルの残飯が浮浪者たちに闇でふるまわれていましたが、衛生上今はそんなこともありません。
ただ、美味しいはずのスイーツですが、当たり前にあり過ぎてありがたいともあまり感じることもありません。
味が肥えだすときりもないのでしょうか。
何だか、恵まれているはずが、どこか喪っているものも多い時代なのでしょうか。

老人が死ぬのは節理。でも訃報はつらい。

まだ老人とか高齢者と言われたくない世代のですが、かと言って現役バリバリとは言い難い還暦超えの年齢です。
著名人の結婚や訃報、不祥事のニュースは毎日のように見られます。ちょっと上の世代の方は高齢で持病があったり、がんを患って療養とかで亡くなられる便りも多くなっています。
これから青春のど真ん中とか社会で一旗とかの年代の方が、コロナや難病で苦しむとか、事故等に巻き込まれる悲しみとはレベルが違うとは思います。年寄りが死んでもいいというのと、悟ればいいというの違うと思います。
とはいえ、自分の身の回りで「死)があると、生きてきた意味を問いたくなるのでしょうか。妙な焦りのような迷いが沸いて、悟りきれない自分もいます。

登米の思い出

今年の朝ドラで宮城県登米市が舞台になっています。
私も転勤で仙台在住のおり、(2002年から2006年ぐらい)仕事や家族とのレジャーで何度も当時の登米郡、本吉郡を訪れています、
平成の大合併の前で、当時の町名全てを覚え理解はしていません。子供向けのテーマパークのあった石越町、その他取引先のあった南方町、迫町、地名として佐沼、長沼、新田駅を覚えてるくらいです。
交通も鉄道では東西に路線があるだけでやや不便な内陸の田園や山村です。緑豊かなまあ何もないような田舎といえば田舎です。今は廃線となった「くり電」くりはら田園鉄道というのに乗って細倉鉱山跡のマインパークにも行きました。もう子供たちも完全に忘れます。
長沼には、毎年冬に白鳥や渡り鳥を見に行きました。
フードピア公園の風車のある建物はドラマにも登場しています。
日本の原風景的なところではあります。個人的には宮城県は一番バランスのとれた住みよい県だと思います。仙台は新幹線で東京とも直結した東北唯一の大都会ですし、そこに1時間前後で行けます。かつ自然も豊かで、産業もそれなりにあり、歴史的な史跡もあります。
東京や首都圏その他メガ都市圏に疲れたら、ぜひ訪れたらとおすすめします。

雨に歌おう   #梅雨入り

雨の音が好きな人っています。何か外の音が聞こえて、孤独が癒されるような気持ちが分かるような気がします。
梅雨入りした地域もあります。
雨の音が、何らかのリズムで歌いだせるような音感の人もいれば、不協和音に聞こえる場合もあるようです。
晴れと雨は決して、善と悪ではありません。雨も必要な天気です。飲料水や農業のためにも絶対必要で、昔は雨ごいも行われました。
世の中の周期はいろいろです。朝と夜、晴れと雨、夏と冬、男と女、、どちらも必要なものです。どちらが良いとか悪いではないのです。

誕生日を迎え、良い1年を祈念します

もしコロナがなかったパラレルワールドがあれば、すでに今の日本は東京五輪を終え感動しまくり、オリンピックロスに苦しんでいるかもしれません。
人生には実はパラレルワールドはないでしょう。今の人生をふんばるしかありません。選択を後悔してパラレルワールドを思うのなら、次の選択を誤らない教訓にすべきです。

コロナの影響を受けて厳しい生活に追い込まれた人もいます。そんな中で業績を伸ばしたところもあります。コロナの社会的影響は大きく範囲も広いですが、世の中全てが真っ暗ではないのです。夕日を憂い嘆くところもあれば暗闇から抜け朝日を見るところもあります。
還暦を過ぎ、ある意味1年ごとに何だかまわりも激変するような気がします。還暦どころか不惑の境地にも程遠い落ち着きの無さですが、またこの1年を踏み出していきたいです。

働かずにお金をもらってしまうデメリット 生業を補償だけで失くしてはいけない

この新型コロナ感染症による緊急事態宣言等により、自粛の要請等で大いに労働環境は変わりました。
何より、仕事を失った方、本業が喪失してしまった方は無念の思いでしょう。
大きな会社でも運輸や旅行等も軒なき厳しい決算でした。そして影響が直撃した中小零細のところも経営破綻かそれに近い開店休業状態も増えています。
大きな会社は仕事を休んでも、給料が保証されたり、減額程度で済んでいる場合もあります。また業種によっては休業補償ももらえて、その方が楽でと思う人も中にはおられます。
補償すらもらえない業種から見れば、苦労してやっと手に入れる儲けを休んで貰えるのは不公平とも思えるでしょう。
ただ、今回ここで書きたいのはその不公平の問題ではなく、「働かずにお金をもらってしまうことのデメリットです」
一つの例として、入社して経験の浅い2年目ぐらいの社員がまるまる1年も2年も仕事をしないで給与を貰ったとしたら幸せでしょうか。労働を苦行、金銭のための手段とすれば悪くないとも思う向きもあります。しかしずっと会社にいるとしたら段々中堅社員となり仕事の厳しさも面白さも分かり、未熟だったころとはスケールの違う仕事観を持てた時期です。次の段階に早く到達できる芽が摘まれ、飛躍の可能性が減ったともとれます、
もう一つ少し悪い例ですが、今、コロナで医療崩壊になると医師会が騒ぎ、日本は病床数もICUもが多いわりに感染症で使わる割合が少ないと言われています。今のところ、感染症を受け入れていない病院はいつも通りです。コロナを受け入れると、他の部門を制限しないといけません。
これは一時的にせよ、病院は顧客を断り『後で』『他所へ行って』と言っているわけです。本業重視で少し我がままですがこの理論は分かります。
継続した診察や手術等の流れが断たれる訳です。非常事態なら仕方のないことですが、生業を維持するためにはこれは大事なことです。ある地域のモール等の店が閉まり、雑貨でも化粧品でもクリーニングでも他所の店を利用したとすると、『ああここでもいいじゃん』『こっちにも義理ができた』となって顧客は離れます。
もちろん戻るケースもありますが。医療等もいったん移ると再度戻せない場合も多いでしょう。生業、本業を喪失してしまうことは。この間の損失だけではないのです。家賃を待ってもらい利益を補償してもらえば済む問題ではないのです。
非常事態となると、そういう日常の継続を歪めて戻れなくしてしまいます。
確かに労働をした後の休日は嬉しく、必要です。しかしそれが連日となるとどうでしょう。毎日遊んで暮らせることを覚えたら、働くことを忘れてしまい向上心もなくなります。とくに経験を積まないといけないときは、働いた方が良いのです。
もちろん失業は厳然とした問題です、何とか働く機会、生業に戻れるよう社会全体がコロナ禍を克服できる日を切望するものです。