京都番組小学校の跡地

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 時代は幕末から明治の転換期で、首都機能の東京移転などにより京都は衰退の危機にひんしていました。 そこで復興に向けて立ち上がった町衆たちが、とくに力を入れたのが教育だったのです。1869年(明治2年)には、27程度の町を1番組として、上京に33の番組、下京に32の番組、同年中に64校の小学校が開校されました。

 これらの小学校は、1872年(明治5年)の、国家による学校制度(学制)の創設に先立つ、日本で最初の学区制小学校でした。
 琵琶湖疎水を作り、その電気を使って日本最初の市電、路面電車も京都に作られました。
 当時の町衆や市長の、危機感と変革への意欲と迅速な行動は、古都の歴史に残るものでした。私は下京の第一番組、乾小学校、現在の洛中小学校の出身となります。


 番組小学校は、平成に入り、都市部のドーナッツ化子供の減少で、統廃合されました。廃校の一部は施設に転用されてきています。有名なのは上京第25番組龍池小学校の京都国際マンガミュージアムでしょうか、その他も公共施設、教育機関、文化施設、民間のホテルなどに転用されていますが、20年以上経ってまだ放置されているところもあります。
 地域の、防災や体育会にグランドは使われていますが、市内の一等地で長々と待機のままはもったいないと思います。
 転用から20年経ち、老朽化も進み必ずしも、活性していないところも含め、これらを早く有効に使おうという、京都の行政も市民も明治期に比べ、危機感や躍動感が足りなくなってきているような気がします。
 京都に限らずでしょうし、明治維新ほどのドラスティックさがないため、徐々に生気が無くなっていくのが今の日本かもしれません。武士という身分もなくなり。公家もいなくなる「だったら、何をすればいい、何をさせたらいい、社会に何が必要か」根源的な危機が今の中途半端な豊かさの中からは生まれないのかもしれません。
 もう一度、教育の原点、本を読んで必死に勉強しないといけないのでしょう。

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