会津っぽ、中華そばの思い出

東北には「会津っぽ」という名前でごくメジャーな外食チェーンでした。どちらかと落ち着いた「中華そば」加水製麺とか創業年を謳い、壁にも縁日でのたまの御馳走が中華そばだった時代からのこだわりの物語が描かれていました。
幸楽苑の屋号で全国進出を果たすのですが、290円の激安を売りにして利益が上がらなくなり、追加メニューを工夫するなどしていました。
今のつけ麺やらいろんな創作風のラーメンに比べると、地味な中華そばです。
ラーメン、中華そばがご馳走だった時代からすると、百花繚乱の1000円以上もする高級ラーメン時代等信じられない話ですが、まあ無骨で平凡ですがここのラーメンも餃子も嫌いではありませんでした。
仙台にいた頃5年間、家族で行った近所に店もあったのと、ある流通企業の本部で各メーカー集合させられての棚割り会議の夜食に良く行きました。
関西に戻って酒の量販「やまや」とともに。「幸楽苑」が出店してきたのにも驚きましたが。中華そば290円の安い戦略にもびっくりしました。しかし、その後この企業があの激安ステーキ店で一斉を風靡するとは思いませんでした。
逆に私が東北にいた頃は餃子の王将がまだ出店していませんでした。京都発祥の『天下一品』はフランチャイズで1店あり、懐かしくて行きました。少し個性のあるこってりラーメン、このチェーンも、他の個性あるラーメンに押され下火の時代です。
私も年齢を重ねて、胃も弱くなりましたので、もうそんなに個性的なラーメンを食べ歩きたいとは思いません。素朴な中華そば系ラーメンをたまに具沢山で家で作って食べる程度です。

戦後高度経済成長期はもっと格差があった

子供は純粋であったり、鈍感だったり残酷だったりします。昭和40年代に小学生だった私たちの学校、生徒たちの格差はある意味今より今より大きかったです。
給食や肝油で栄養を補い、その給食費の支払いもぎりぎりの家庭もありました。
高度成長期で、働けば働くだけ儲かりだした時代ですが、まだまだ戦後の厳しい中で苦しい生活の家庭もあったのです。
私は鈍感な方なので、他人がお金持ちか貧乏かというはあまりわからなくて、誰とでも遊びました。
少し大きくなるにつれ、あそこの家は✕✕だなどという情報が入ってきます。公立の小学校ですから、町内によってはいろいろな難しい地域や家もありました。今考えると昭和は個人情報保護も人権擁護もユルユルでした。
空地もなく、公園も狭いので駐車場などで遊んで怒られました。
洒落たお金持ちの家でもそんなにうらやましいとは思いませんでした。大手商社にお勤めの親の家でしたが、まあ狭いながら自分の部屋のある自分の家が誇りでした。
世の中にはお金持ちと庶民がいると本当の意味で実感するのは、大人になりずっと後でした。昭和40年というともう半世紀前、その20年前が終戦、焼け野原の時代からすると大きな格差があって当たり前。しかしやっかみ、妬みというマイナスの感情は格差が大きいから生まれるのではないのかもしれません。庶民から見れば一流の企業に勤めても、官僚になってもさらに上に高等な市民がいることに気付けば、嫉妬は生まれます。
気の持ちよう、心の在り方かもしれません。格差に妬み、自分の境遇を悩む時は誰でもあります。私もいくつかの場面で、居場所を失い悩んだ時があります。そんな時、子供の頃の無邪気さを思い出しましょう。
何かを得たら、次の何かを欲しがり、今の立場を守ることにも汲々とする。そんな時、何もなかった知らなった頃を思い出しましょう。



ラジオの時代があった   #AM放送終了

AM放送は何年かするとFMに切り替わり終了するそうです。音声だけのラジオ自体は無くならないでしょうが何だか大きな時代の流れを感じます。

先日京都の郊外でラジオ塔が残っているのを見ました。
大正14年(1925)に日本でラジオの放送が始まった頃、まだまだ高価なラジオは家庭には普及しておらず戦中戦後もしばらくは庶民の娯楽や情報のために重要な役割を果たしていました。当時500以上あったラジオ塔は現在20基あまりモニュメントとして各地に残っているそうです。
戦中や戦後まもなくを描いたドラマ等で、玉音放送や人気のあったラジオドラマのシーンが出てきます。テレビの時代に育ったものには想像しにくい感じです。そういえば私たちの世代は深夜ラジオの時代でもありましたが、今は声だけでなく、ライブで動画を共有になりました。どんどん時代は移りゆくという感じです。

総合スーパー衰勢の時代

今さらの時代の推移ですが、総合スーパーという業態が成熟期を終えて、一気に衰退を迎えています。
イオンモールはもはや総合スーパーではなくデベロッパー、不動産テナント屋さんでモールの中に直営スーパーは細々とです。そのイオンモールでさえ初期の老朽化したモールや不採算立地の撤退が始まっています。
ひと昔前の日本一のダイエーはもう店舗を見つかるのが難しいくらいになりました。イオン参加で冠は残してもかつての勢いはありません。その次の王者とも言えた利益率や商品開発でも優れたイトーヨーカドーも多くの撤退を決めもうこのグループはコンビニ主体です。
メーカー勤務時代、ダイエー、平和堂、イトーヨーカドー、イオン、イズミヤとそれぞれ担当し思い出深いです。
また後の時代をリードしたドラッグストアやバラエティストア、ホームセンターも担当して、総合スーパーが滅びゆく恐竜であることもよくわかって見えました。
私は京都市内の商店街の商売屋に産まれたので、親父が商店街の役員でよく大型スーパーの出店に反対してるのを見てました。大学の頃,大型店舗の出店が難しい京都市内の碁盤の目のぎりぎり線上にイズミヤができ脅威と騒がれました。
それももう40年ぐらい前で、その後イオンモールも進出はしましたが京都市街は狭い道で古い町並みが残り結局便利な大型スーパーはあまりできないうちに流通はカテゴリキラーそしてネット販売等のオンラインの時代に入りました。
私は仕事で地方を転々としましたが、子供が小さい時等が大きな駐車場がありワンストップでそこそこのものが揃う総合スーパーは便利だと思います。
京都の市街地からは少し南にダイエーの藤森店があり大きなマンションとともに盛況でしたが、こちらも40年たちだいぶ古くはなり、ダイエーは看板も変わり小さなSMに業態転換。六地蔵にあったイトーヨーカドーはそれよりもかなり新しい店でしたが今は消えてしまいました。最寄りが売りのタワーマンションはちょっとがっかりでしょう。
20年たつと何もかも予想とは変わります。先は読み辛いものです。

醜女?でも性格の良い相手を選んだA君   カネボウで出会った人2 #カネボウ

写真は本人と関係ありません。

化粧品の会社でしたのですごく社内結婚された方々が多かったのです。私自身は違いますが、同期や同年代の8割がたが社内、美容部員さんもしくは事務の方が大卒男子とというパターンでした。
昭和50年代ですので、大卒女子というのがほぼ皆無の真っ黒な入社式の時代です。
そんな中でい学年下のA君。仕事もできる好感でしたが、部下のチームリーダーだった結婚相手大変ぽっちゃりしたというか太ったお世辞にもつり合いのとれた美人ではなかったです。
二人とも一緒にお仕事したことはありますが、周りはなぜあのA君がもうちょっとマシなん選ばんのかという声が多く、立候補する女性も多かったようです。
彼は笑いながら、暗いとこになったら女の顔などわからないと言いました。
正確や仕事等、若い時だけの美貌で選ばなかったのでしょうか。しかしこのお相手ますます太られてドスコイと呼ばれてました。仕事がら単身赴任も多く、子宝にも恵まれないで、二人別べつに独身のように気楽にやってました。
奥様は太り過ぎが原因かどうか、脳卒中を患い介護の亡くなられたようです。
A君自身も幹部登用手前で不祥事等もあり、長い単身赴任の後も介護等でシンドイ生活のようでした。
子供もなく妻もない、それでもクルマ好きでアウトドアが好きなので気楽な一人暮らしのようです。会社の体制にも無理に合わせず早期退職でがっぽり退職金貰って、すでに家もあるので悠々自適のようです。
多くの人が捻出に苦しむ、子供の教育、マイホームのローンには全く所得を回していないので全然ゆとりの生活です。
それはあえて選んだ運命ではないでしょう。奥様もよく美容講習の帰りに、ファミレスのランチバイキングに行くのを楽しみにされてました。食べるのが大好きで笑顔は可愛いものに映ったものです。
お二人それぞれ幸福だったのかどうか、本当のところは分かりません。出世した人しなかった人もそうですが、自分とは違ういくつも交錯していった人生がありました。

【麦秋至】緑色だが「青もみじ」森林浴   #麦秋至#森林浴#青もみじ

5月から6月の腫れた日は、青葉が綺麗に目に映えます。【麦秋至】と呼ばれる麦の穂が実る季節でもあります。
日本では青と緑の色の概念上に区別があまりなかったそうで、「青葉」「青ガエル」「アオムシ」「青信号(少し前のタイプ)」等は緑色をしているのに青を冠しています。
紅葉は秋は期間が限定され名勝は混みますが、緑の季節のいわゆる「青もみじ」は比較的ゆったり見れます。
日本は山国、森の国でほとんどの地方で、都会から少しの時間で森林浴が楽しめる森や山に入ることができます。
施設が休業でストレス発散の場が少ないと言われますが、森を歩くことはそうは咎められない癒しだと思います。

飽食の時代

ちょっと外食で贅沢ができない時期ではありますが、食べ放題とかバイキングとかが比較的リーズナブルになった時代です。
先日も廃線散歩で、戦中の軍事輸送に使われた跡の道を行くと、つい飢餓の時代はどうだったのかと思います。
「永遠のゼロ」という百田尚樹原作のセロ戦の映画に「大福が食べたい」とか無理を言う隊員がいて、砂糖等が貴重な時期に何を言うかといわれてるシーンがありました。調理師も何とか無理をして特攻の日までに用意しようとするのですが、結局間に合わないタイミングに空しく大福が出てきます。
また映画で有名になった野坂昭如の「火垂るの墓」での、末期の少女がドロップが食べたくておはじきしかない描写もすごく悲しく心に残っている方も多いでしょう。
今は大福をはじめあらゆるスイーツを作る職人も材料も潤沢にあります。贅沢もできますし、手ごろな値段で少し歩けばコンビニで、何でも揃います。
飲食店やコンビニでは余った食材や賞味期限の切れた弁当等がどんどん捨てられています。
戦後間もない頃は、ホテルの残飯が浮浪者たちに闇でふるまわれていましたが、衛生上今はそんなこともありません。
ただ、美味しいはずのスイーツですが、当たり前にあり過ぎてありがたいともあまり感じることもありません。
味が肥えだすときりもないのでしょうか。
何だか、恵まれているはずが、どこか喪っているものも多い時代なのでしょうか。

登米の思い出

今年の朝ドラで宮城県登米市が舞台になっています。
私も転勤で仙台在住のおり、(2002年から2006年ぐらい)仕事や家族とのレジャーで何度も当時の登米郡、本吉郡を訪れています、
平成の大合併の前で、当時の町名全てを覚え理解はしていません。子供向けのテーマパークのあった石越町、その他取引先のあった南方町、迫町、地名として佐沼、長沼、新田駅を覚えてるくらいです。
交通も鉄道では東西に路線があるだけでやや不便な内陸の田園や山村です。緑豊かなまあ何もないような田舎といえば田舎です。今は廃線となった「くり電」くりはら田園鉄道というのに乗って細倉鉱山跡のマインパークにも行きました。もう子供たちも完全に忘れます。
長沼には、毎年冬に白鳥や渡り鳥を見に行きました。
フードピア公園の風車のある建物はドラマにも登場しています。
日本の原風景的なところではあります。個人的には宮城県は一番バランスのとれた住みよい県だと思います。仙台は新幹線で東京とも直結した東北唯一の大都会ですし、そこに1時間前後で行けます。かつ自然も豊かで、産業もそれなりにあり、歴史的な史跡もあります。
東京や首都圏その他メガ都市圏に疲れたら、ぜひ訪れたらとおすすめします。

朝ドラ「おちょやん」生瀬勝久     #おちょやん#生瀬勝久#NHK朝ドラ

NHK朝ドラ「おちょやん」生瀬勝久演ずる脚本家長澤のセリフ『ラジオドラマを通じて、戦争で親を亡くし、傷ついた子供たちに生きてさえいれば、人生面白いことが起きると伝えたい』なんだか万感の思いがします。
終盤短い登場ですが、私と同世代の生瀬の演技にもぐっとくるものが。京大の劇団そとばこまち出身ですが、京大卒ではなく、彼は私と同志社大学の一年後輩。
キャンパスにはたぶんほとんどいなかったでしょうが、同志社の第三劇場という劇団から辰巳琢郎(当時つみつくろう)の誘いで移籍しました。
槍魔栗三助というとんでもない芸名の熱いし、インテリでもあるのですが何をしでかすかわからないエキセントリックなヤツでした。
NHK等に主演するおり本名としました。もう芸能界で40年、仲間由紀恵と、「ごくせん」「TRICK」の脇で共演、朝ドラや大河にも数多く出演し、もはや円熟のバイプレーヤーになったなあと改めて感じます。
かつて探偵ナイトスクープ、初代探偵やった時、中国出征のおじいさんを称え「戦争称賛」かと上岡龍太郎を激怒させて、干されかけた時期がありました。
それがターニングポイントとなりバラエティとは基本縁を切り、ピュアな役者人生にシフトしていったように見えます。先輩の辰巳は、プロデューサー力はあってが、演技と胡散臭さには問題あった女たらしやったから、料理やクイズ番組でのテレビ出演に変わり薄い存在で見かけない今の立ち位置には学生時代から見ていてなんとなく納得します。
それにしても、NHK朝ドラ一代記で土曜もなくなっての半年はやはり短いなぁ。いい内容で作りこみが深いとこもあるけど、テンポが早くはしょり過ぎる。ヒロインも、このところ演技派かつ有名な俳優だけど、やはりおしん方式の子役と壮年役は別の役者のがスッキリする。

家呑み    #東北復興

昨日は5月にしては寒い一日で日本酒が呑みたくなり伏見大手筋まで行きましたが、利き酒ができなくてどうもしっくりくるお酒が見当たらず。
御池まで戻って「やまや」東北の一押し「雪の松島」純米吟醸を購入しました。
東北有数の景勝地、松島がイメージできる。きりっとした中に甘くフルーティさもある微妙な辛口です。
伏見とはまた違った、また他の東北の酒や新潟の酒とも違う雰囲気があります。
宮城県もコロナもまん延したまま。あの震災から10年の今年も大きな地震がすでに2度ばかり起こっています。
10年前、3.11、日本はまさに非常事態で、テレビも娯楽番組もCMもなくなり被害状況を伝えていました。それに比べると。コロナ禍というのは感染症として警戒はしなくてはいけないのですが、オリンピックの是非や、コロナの自粛と経済との並列が議論されるだけまだ平時の中の危機なのでしょう。
オリンピックも招致には「復興五輪」「簡素な五輪」という言葉を使われましたがまた東北の人は裏切られ利用されただけと思ってしまわれているのか心配です。
オリンピックの誘致や開催に多額のお金が要り、儲ける業者などの輩がいるのは分かりますが、もはや開催すら微妙ですが、オリンピックの開催が、東北を目に見えるような形でできれば持続可能な形にして何か支援をする形にはできなかったものでしょうか。
あの震災から東北の人達、今も復興に尽力する人、避難生活に難渋する方。生き抜いた街を微力ながら思い、応援していきたいと思います。