1970年代とか、80年代とは単純に分けられず、70年代は前半と後半でも大きく社会は進化、変節したのではと思います。
それまでは高度経済成長期で個性的な娯楽は少なく、遮二無二働いた後は、同じ歌謡を口ずさみ、同じテレビドラマや映画を楽しみ、スポーツのヒーローを応援したのです。国民的と言われた歌手やスポーツ選手の知名度は抜きん出ていました。
音楽も、浪曲から歌謡曲、演歌やムード歌謡が中心で、フォークソングや台頭しても、ビートルズやロカビリーだと言っても、やはり主流は歌謡曲でした。
フォークやロック歌手がビジュアルがテレビに向かない、表現しきれないなどの理由で旧来の歌番組には出ない、出さない時代でした。
そんな中、今のJ-POPの下地は、オイルショック後の1970年代の後半にようやく出来始めました。
その大きな動きは、大手の2つの化粧品会社と広告代理店が仕掛けも多大な影響力でした。私がまだ高校生の頃、テレビからも資生堂とカネボウの競い合うCM、斬新な音楽、美しいモデルと情景、謎めいたキャッチコピーが印象的に流れました。
1977年、前年資生堂の「ゆれるまなざし」小椋佳楽曲、モデル真行寺君枝の秋のキャンペーンヒットを受けて、夏は「サクセス、サクセス」ダウンタウンヴギウギパンド楽曲、モデルティナラッツ、追随するカネボウが「舞踏会のワインカラー」新井満の楽曲というキャンペーンで対抗したのが、10年のCM戦争の始まりと言われます。
翌年から、世間の誰もが知るような大ヒットを競い合う形になり、1978夏は資生堂、矢沢永吉の「時間よ止まれ」とカネボウ、サーカス「Mr.サマータイム」という、後世にも歌われ続ける名曲が出ました。キャロルの矢沢永吉も当時から知る人は知っていましたが、テレビでガンガン放送される影響は凄まじいものでした。それでも、レコードの売上、キャンペーンとしてはカネボウ、サーカスの方が当時は少し上でした。
そして、翌年からも春、夏、秋と①キャッチコピー②無名だが魅力的なモデル③実力派のニューミュージック歌手の曲という3つの要素を踏まえ、手を変え品を変え競い合う構図の戦争が続きました。
資生堂はハーフや外国人モデル起用が多かったですが、カネボウは日本人の若手が多く、夏目雅子さんはじめ有名俳優への登竜門となったのも、そのテレビへの露出からの知名度を考えれば分かります。それ以上に、普段テレビには出ない歌手の楽曲が聴かれ、メガヒット、ビッグネームにつながったのは戦略ズバリと当たったものの、当時としては画期的なことでした。その後売れに売れた何組かのアーティストの中にも、きっかけとなったCMソングが、最高のセールス記録というケースも多いのです。キャッチコピーから楽曲を作る難易度の高いものなのに、むしろその制約もメガヒットの要因になったのです。
無名モデルやアーティストの発掘と売り込みの舞台だった化粧品CM戦争でしたが、1984年カネボウがバイオ口紅で既に超売れっ子だった松田聖子をモデルとして使い、楽曲も彼女の歌う「ロックンルージュ」ピュアピュアリップで話題をさらうと情勢は変わります。
これは今までの3点ルールからの逸脱、禁じ手とも言えましたが、大ヒットではありました。
その後も、両社はアイドルや既に売れた歌手をモデルに使い、アイドルグループの楽曲を使い出しました。ジャニーズの台頭とともに、女性用化粧品CMに木村拓哉を使うテスティモの落ちない口紅を大ヒットさせました。
しかし、この頃はもう化粧品CMだけがスポットを占め、テレビを席巻している時代ではなくなったのです。自らの業界パワーを失いアイドルの人気に頼り出していたのです。
もう、無名モデルをスターダムにのしあげ、大ヒット曲を作る勢いはなくなりました。1990年代バブルが弾けると、多極化、個性化の時代に入り、大手ーカーのキャッチコピーとメガ宣伝で誰もが飛びつく時代も終わったのです。
業界としては、バブルだったのでしょうが、広告宣伝費は高くつき、広告代理店ののせられていた面もあったのでしょう。資生堂もカネボウも決算を見ると販管費が高く、利益を出すのが難しい構造になっていました。本体赤字を化粧品でまかないたいカネボウはかなり苦しかって後の債務超過に、繋がります。
世間の誰もが注目したキラキラした1970年代後半から1980年代.そんな時代があったから今のJ-POPがあるのかもしれません。入社した当時から、キラキラは外から見ただけで内情はかなり厳しいものでしたが、それはそれで楽しんでました。