夜空の星が見えなかった7月

7月ほぼ日本中梅雨で下手をすれば大雨で災害。コロナもあって厳しい月でした。
それでも天の方は動いています。星座も移っていきます。これは昼の星座なので晴れでも雨でもみえません。
それでも七夕伝説のベガとアルタイルはじめ夏の星座を目にすることのない7月でした。
太陽の紫外線は日照時間が長いこともあり、この時期結構曇っていても肌に日焼け等悪影響を与えます。
それと同じく善悪、吉凶ではなく12星座のサインと呼ばれる領域を太陽が通ります。今は夏の星座獅子座に黄道があります。
紫外線と同じく目には見えずともこの影響を受けているのです。今はしんどくてもきっといい流れに戻る時が来ます。長く感じる今年の梅雨ですが、いつかは明けます。季節と同じです。星の運行はそれ以上に確実に巡っています。
一歩一歩着実に歩んでいきましょう。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】4

カネボウとともに歩んだ人生4

昭和から令和にかけての各時代、カネボウ化粧品の営業現場にいました。
昭和57年、まさに昭和のモーレツ営業の大阪第一南販社というところに転籍配属されました。
今の営業と、本質的には違わないのですが、まず男性ばかりで夏も背広にネクタイ。クールビズなんて無かった時代です。
毎月15日が売上〆、別に月末の売上〆も中間にあり、返品の〆切が月初めにあり、こういうものに追われるスタイルでした。今でも悪夢のように思いだします。「〆だけど足りない」どうしよう、月末〆は空打ちのような売上計上で返品で誤魔化せても、15日〆は末か(口座振替日)にお金が入らないと行けません。なかなか毎月の報告も大変でした。
昭和なんで、人間関係の占める部分が多く、顔を売り人の良さにつけこむ、汗を流すと何とかなる時代。相手も安定した利益の幅があり、お金も持っているけれど在庫もあるというそれはそれで難しい時代でした。
牧歌的と振り返るほど良い時代ではありません。週休2日でもなく隔週に日曜日となぜか月曜日が休みになる変則週休2日程度。残業代のでないサービス残業は毎日4時間以上深夜に及びました。というか営業は外で休んで、遅く会社に帰り幹部の帰りを見計らって仕事をしたり帰ったりでした。〆前だとのうこれは帰れません。テレワークなんぞとは遠い世界でした。
人間を育てる側面もあったかもしれませんが、私はダメでした。
ただその昭和の営業、その力がアダとなり粉飾へと駆け上っていく。そんな苦しさを昭和から平成への時代で映画を極めた化粧品事業にも影を差していくのでした。
商品の架空売り上げが海に浮かんだとかいいうのも実際にありました。そして商品、カネ、女性関係で退社する人間も沢山いました。
もちろん随所で成功してのし上がった人間もいますし、各人の運と力量、相性やタイミングもそれぞれだったのでしょう。資生堂は待遇はいいようでも決して行きたいとは思わない。コーセーはまだまだ個人経営で今ほどの勢いはない、外資のマックスファクターがP&Gになる前でここも泡沫でした。
最後の社長となった帆足隆氏などは伝説のカリスマ営業マンで、粘りと熱意で突破するタイプで上に立てばパワハラになりやすく、下につくものはどうしてもイエスマンになり、事なかれで従い粉飾の温床となるのでした。

それでも歩く

同年代の死、親の死。それぞれキツイと感じるいろんなことがありました。前向きに考えられない出会いや運命もあると思います。
それでも歩いてゆかないといけません。生き残った運命を活かすのが遺された人の宿命です。
昨日死んでいった人が生きたかった明日は、貴方が空しく生きたかもしれない今日です。
今日を大切に生きましょう。

日本最大の企業の栄光と崩壊【カネボウ】3

カネボウとともに歩んだ人生

化粧品専門店の組織の強さはカネボウが最後まで頼った流通です。私は入社したころ繊維部門で作ったインナーやパンスト等を専門店で売るようになりました。化粧品販売会社を総合商社にしたい向きもあったようです。
制度品と呼ばれるメーカーが直で販売店に卸す化粧品は、価格が決まっていておとり廉売等がされない安定した利益を産む商品でした。
原価率が15%前後ともいわれる商材ですが、ブランド力により市場を大手数社で寡占することと再販制度により価格も維持され販売店も儲かる時代が続き、化粧品事業は順風満帆でした。有力な販売店と優秀な美容部員のマインド、モチベーションを上げ、営業マンを炊きつけることが幹部の仕事になっていました。
高度経済成長期を迎え、バブルを迎えても繊維の構造不況は止まらず、カネボウの持っていた工場や土地のほとんどは売却されました。それでもこの会社の財政の厳しさは変わらず、化粧品の黒字を食いつぶし粉飾を重ねて100周年を終え110周年を迎えようとします。
従来の五角形の多角戦略を替え、情報先端技術等も加えて国内のトップで1兆円の売り上げを目指そうと110計画を中期計画として進めますが、内実は厳しいものでした。国内トップ社員の福利厚生、処遇も掲げましたが110計画はあさり挫折します。
再販制度が撤廃され、ドラッグストアや大手GMSがオフプライスを打ち出すと、長年カネボウを支えていた専門店のシェアも下がり、化粧品の販売はどんどんそれほど儲からない時代に入ります。それは販売する者も作る側もでした。

京都三条会商店街

京都の三条会商店街に実家がありました。
京都で最も長い約1キロ近い東西への広がりを誇る庶民的な商店街。
今は実家の店も人手に渡り、たまに訪れるだけです。近所だった友達や店の人たちを訪れる。
就職して他所の土地へいっても、里帰りで京都駅から市バスに乗り堀川三条のバス停で降りて両親の顔を見に行くのが楽しみでした。やはり実家でごろっとするのが一番気楽で落ち着きました。
私の小さい頃は食料品等の買い出しでにぎわう、京都市の北部や二条駅からの山陰線沿線まで商圏を持った地域最大の商店街でした。スーパー等の台頭が遅れる京都で長くアーケード型商店街は繁栄していました。それでも時代の波で昭和も後半にはジリ貧でした。寺町や錦のような繁華街ではなく、伏見大手筋のような集約性がない。ただ長いだけの商店街はやがてシャッターを閉めたままの店も増えだしました。
八年前に父がなくなりました。商店街の理事長を務めたこともあり、この街への愛着は誰よりもあったはずです。
世代がどんどん交代し、それでも若い世代が集客イベントをして活性化されました。
夏の夜店は関西に戻ったころ愚息らをはじめ子供たちみんなと大人も楽しむ大イベントでした。年を追うごとに拡大し人が増えました。地ビールやお化け屋敷、ジャズ等の音楽イベントなどもスゴイ人出だと聞きます。
生活必需品が大手量販に流れる中、スーパーやドラッグ、コンビニとも共存しながらこじゃれた飲食や雑貨が入ったりして独自色を強めています。
そんな変化を離れた場所で一人暮らす母に報告するように報告していたのも、母の急逝により終了しました。
街にはそれぞれ、昭和の時代から頑張った人たちの息遣いが残っています。

実家の商店街を歩く

昭和9年生まれの母が逝きました。実家のあった商店街に挨拶がてら、散歩。店も代替わりして、コジャレた新しい店もどんどん増えている。戦中戦後まもなくから平成、令和までモーレツに働いた世代の思い出が街のあちこちにあります。

実家の商店街を歩く

昭和9年生まれの母が逝きました。実家のあった商店街に挨拶がてら、散歩。店も代替わりして、コジャレた新しい店もどんどん増えている。戦中戦後まもなくから平成、令和までモーレツに働いた世代の思い出が街のあちこちにあります。

実家の商店街を歩く

昭和9年生まれの母が逝きました。実家のあった商店街に挨拶がてら、散歩。店も代替わりして、コジャレた新しい店もどんどん増えている。戦中戦後まもなくから平成、令和までモーレツに働いた世代の思い出が街のあちこちにあります。

実家の商店街を歩く

昭和9年生まれの母が逝きました。実家のあった商店街に挨拶がてら、散歩。店も代替わりして、コジャレた新しい店もどんどん増えている。戦中戦後まもなくから平成、令和までモーレツに働いた世代の思い出が街のあちこちにあります。

実家の商店街を歩く

昭和9年生まれの母が逝きました。実家のあった商店街に挨拶がてら、散歩。店も代替わりして、コジャレた新しい店もどんどん増えている。戦中戦後まもなくから平成、令和までモーレツに働いた世代の思い出が街のあちこちにあります。