いよいよワールドカップ        サッカー少し昔話

 サッカーのワールドカップが今月開幕します。代表メンバーの発表が先日ありました。
「大迫ハンパない」と言われ、一時代を担った大迫勇也が代表落ちでまた時代の流れを感じるますが、長友佑都が36歳で4大会目の出場ですから頑張っています、4大会というと単純に20年近くトップにいるのですからスゴイものです。
 代表落ちの話でいうと、日本が初めてワールドカップに出場した1998年に、最終選考でキングカズ三浦知良が涙をのんだ会見が今でも思い起こされます。カズから、中田英寿、本田圭佑らの時代を経て、あれ以降毎回ワールドカップには出ている日本ですが、カズが牽引してJリーグとともに日本でサッカーがメジャーな人気になったことは間違いないです。

 そのカズが55歳で下部リーグのJFLながら現役を続けていることは驚異です。

 直前で落選したフランスの4年前、アメリカ大会の予選で出場決定かと思われた最終試合のイラク戦で、土壇場ロスタイムで追いつかれ引き分けで涙をのみ、ラモス、柱谷、中山、森保(現代表監督)らとともに倒れこんだ「ドーハの悲劇」がありました。そのカタール、ドーハで今月開かれるワールドカップです。

 このドーハの悲劇がJリーグの始まった1993年の10月28日ですから29年前になります。

 Jリーグ開始当時は、リーグ戦なのに延長ありのPK戦という、今では考えにくい独自ルールでやっていたり、前後期制プレイオフの時代もありました。

 ドーハの悲劇でロスタイムの失点と書きましたが、まだロスタイムが分からない世代はいないかと思いますが今はあまり使われません。そのうち完全死後になるかもしれません。インジュリータイムとも言われた時代を経て今はアディショナルタイムです。日本語は発音しにくいとか長い言葉を、スポーツでも適当な和製英語にしてしまいますが、ロスタイムも日本だけの言葉でした。TOEICテストなどでADD(付け加える)とかINJURY(負傷)という動詞はあるレベルでよく出ます。ロスよりもポジティブな表現です。


 そういえば初めて日本がワールドカップ出場を決めた、マレーシアでのイランとの第3代表決定戦「ジョホールバルの歓喜」も、今のルールでは廃止された、延長Vゴール、ゴールデンゴール方式で岡野雅行がシュートを決めた時点で、勝利が決まり岡田監督はじめ全員が抱き合って喜びあっていました。日本中が初出場に沸いたのですが、このⅤゴールの光景は現在ではあり得なくなり、試合時間は終了まで行われ相手に追いつくチャンスは今ならあります。

 あれから30年、私の中学とかで見始めた時代からだと50年近くで、リーグの人気も戦術などのスタイルもどんどん変わり、ヨーロッパにとんでもない強豪でお金持ちのクラブが台頭して、ワールドカップや日本代表の意味合いも少し変わってはきています。

 最近の戦術などはもう、子供の方が詳しいようになりました。何せ、ロスタイムどころか、クロスを「センタリング」と呼んでいた時代の人間ですから。
 ただサッカーのルールそのものはラグビーやバレーほど変わっていません。ゴールキーパーがバックパスで手を使えなくなったり、キーパーチャージの反則がなくなったり、攻撃面を有利にさせスピーディな試合にさせる若干の変更のみです。

 試合というよりリーグ戦のレギュレーションとして、勝ち点のリーグ戦では引き分けを1として勝利を2から3として引き分け狙いを防ぎ、攻撃的なスポーツにさせたのです。これは1990年代以前、イタリアとかのとにかく守り切る面白くないサッカーで人気が低迷したことからです。この変革からもう一度サッカーが世界で超メジャーなスポーツに発展します。

 ワールドカップが世界中の注目を浴びる屈指のスポーツの大会であることに間違いはありません。

水墨画の世界を青春小説で 書評『線は,僕を描く』

 基本的に映画と小説は違うものだと思います、最近はこういう俳優がこの役でとか、作家が映画化をイメージして書いている場合もありますし。ノベライズに近いような作品もあります。

 しかし、視点人物が散漫な映画やドラマと比べ、小説は約束事がある程度あります。最近はミステリでも叙述トリックなど多元的な視点を加えているものもありますが、基本が主人公の方にとまった鳥の視点で描く小説の方が落ち着きますし、シンプルでフェアです。
 作者的神の、感受性もウンチクも全然オッケーで主人公の肩にとまって感受性と内面描写も情景描写も思うままです。

 出来過ぎというか、うまいこと行き過ぎの御都合もありますが、小気味よいテンポで、伝統的な世界が広がります。

 面白く読めます。それは間違いないですし、青春時代を謳歌するような大学生に戻れるようなスッキリの読後です。

 マンガにもなり、映画にもなり、さらにイケメンの横浜流星が主人公!?
 ちょっとカッコ良すぎです。傷ついたモラトリアムな若者を私は何となくイメージは若い頃の吉岡秀隆みたいに思って読んでいたのですが、流星くんも好演はしているそうですが、あんなにイケメンで資産もあるならモテるし何とかなるとヤッカミを覚えそうです。ツンデレのヒロインは「ちはやふる」のキャラと被る感じ清原果耶、まあそんなところかなとは思います。

 映画見る前に読んで欲しい感じの、本屋大賞3位入賞作です。

15年後、管理費、修繕積立金、電気代などはどうなっているだろう!?

 マンションの理事役員、修繕委員をやってきた大規模修繕工事が終わり引き渡しが終わりました。

 新築で購入して、中学生や小学生で一緒にお風呂に入っていた子供があっという間に社会人ですから14年とは早いものです。ピカピカの新築と思っていても、いつの間にか雨風にさらされ、人々の行き来と使用に耐えてあちこち劣化、老朽化も進んでいました。新しい設備も10年過ぎると想定を超えた不具合や陳腐化が進みます。

 最初の工事からの不具合もあり、かなりの修繕をして回復しましたが、次回はまた予想を超えるものもあるかもしれません。
 ここへ来て。マンションの総合保険が一気に値上がりし、独自の電力会社を使う電気料金も値上げになる雲行きです。電気代抑制のLED化の検証もできぬままに、値上げの嵐です。あと15年の間には何が傷み、料金がどう上がるかわかりませんが、今40代後半という方も15年経つと定年や役職定年で収入も下がり、年金生活者の割合も増えてくるでしょう。
 そうやすやすと管理費を上げ、修繕積立金を上げるのは、マンションの財政うんぬんよりも居住者の支払いからして厳しいもので離脱する方や入居をためらう人が増えれば元も子もありません。

 貯蓄の取り崩しや年金生活になると、すぐには値上げに対応できずその分生活を切り詰めるしかないのが現状でしょう。

 共産党が昨日も辻立ちの演説で、何もかも値上げで、年金は毎年下がる、マクロスライド方式では年金支給は物価が上がっても下がり下がればそれ以上下がりるから改めねばと主張していました。良い方法があれば対案を立てて欲しいのでところです。今のやり方でも、過去からの経緯で直近や現役世代に比べもらい過ぎでいる方の年金支給は少しでも予告しながら減額しないと、給付に充てる財源がありません。本当に物価高、コロナ不況、円安に苦しむ人にはさまざまな救済をするしかないのです。

 野党は「消費税は廃止、年金は増やせ」と当事者能力のまるでない主張を繰り返すからだめなのです。

 もちろん政府側に立ち、体制側に立ち、値上げや財源確保ありきではいけないのもわかります。

 財務省なのから見ればミクロの視点でも長期の視点でも、財源を何とかしたいという思いがあるのもわかります。ところが、景気対策、コロナ対策、防衛費などでは、補正予算も含め大盤振る舞いで「日本が少々のことで破綻しないから、緊急の場合は仕方ない」がまかり通ります。これでは片方で節約し、爪に灯をともし1円を無駄にしないで削る努力は何だったになります。

 マンションなどでも、共用部での照明やエアコンの節電、マナー違反や事故などでの汚損破損防止をきめ細かくやり、次の大規模修繕の予算を少しでも抑えるしかないのです。

 それは日本の縮図でもあるはずです。15年後はどうなてちるでしょう。

タイムスリップミステリ 書評「時空旅行の砂時計」

 読書と創作の秋なので、何冊か紹介していきます。

 方丈貴恵さん京大のミス研出身の2019年デビューでまだ新人と呼べる方です。

 題名通り、タイムスリップを扱ったミステリ。主人公が58年前の過去に戻って妻を助ける。2019年上梓の第29回鮎川哲也賞受賞作です。いわゆる設定ミステリ、SF的な条件の中での本格ミステリです。
 瀕死の妻のために謎の声に従い、2018年から1960年にタイムトラベルした主人公・加茂。妻の祖先・竜泉家の人々が殺害され、後に起こった土砂崩れで一族のほとんどが亡くなった「死野の惨劇」の真相を解明することが、彼女の命を救うことに繋がるという。タイムリミットは、土砂崩れがすべてを呑み込むまでの四日間。閉ざされた館の中で起こる不可能犯罪の真犯人を暴き、加茂は2018年に戻ることができるのかという内容です。

  ミステリなのでネタバレは避けます。

 私の書いているのはミステリではないですが、たまたま自分が書いていた小説と少し似ている部分があったので興味深く読みました。時間の流れを正したい者と、乱したい者の葛藤のようなところとエンディングも似ています。

 ただ個人的にはタイムパラドックスとかパラレルワールドというのはどうも好きではなく、せっかく時間をどうこうするのであれば、助けられないままのパラレルとか無数の選択肢の世界があるというのはは違うように私は思うのです。

 設定モノのミステリって、その設定についていけない人がいますが、少し我慢して追いつくととてもミステリの可能性は広がります。そういう意味では昔ミステリは古いとか限界と言われたものがまだまだ広がるような気がします。

田舎の方が食事が美味しかった

 京都市の北西部に市内とは離れた広大な地域があります。平成17年3月31日まで京都府北桑田郡に存在した京北町。京都市右京区に編入され京都市ではありますが、長閑で牧歌的な山間にときおりまばらな集落がある大きな過疎地域です。

 仕事の管轄地域ですが、人口も少なく若者も流出しているためめったには行かないのですが、半年ぶりくらいで来訪しました。
京都市街から小一時間クルマで高雄などを通ってたどり着くとその自然の豊かさと風情に癒されます。町域も広かったので北にも東西にも多くの集落が点在していて、時間もかかり冬などは住んでいる人も買い物などには大変だとは思いますが、考えようではなかなか住みやすいところではないかとも思います。

 市街から1時間で水も空気もきれいで、土地も安いでしょうし、道の駅で買えるお弁当をはじめ、野菜なども新鮮で安いです。

 そのお弁当の安さと美味しさには感嘆しました。今は外食もコンビニも値上げの上に、ご飯の量が減ったりいかにも添加物保存料の多い濃い味付けがされている感じで辟易としていたので、このお弁当には脱帽した感じです。

 パソコン仕事や乗り物で移動中に目を使ったりしたためか、眼精疲労や頭痛がなかなかぬけなかったのですが、ちょっとした自然の多い田舎道のドライブは目の回復に良いようです。

 最近は古民家貸し切りの宿泊施設なども各地にできていますが、民宿や民泊でもこういった田舎にしばらく滞在するのは心身のリフレッシュにいいかなと思います。市街地にバカ高い世界一流のホテルが、これまた高いレストランを備えて林立していますが、京都市内なら今さらそこまで一泊にお金をかけずとも、周辺部で何泊か贅沢したいですね。

脳はサボりたがるから応援する

 剣道や茶道を修行する段階で「守・破・離」という言葉があります。「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。 「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。 「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階です。

 私は、子供の頃から、面白いところにすぐ目移りして地道な学習、修行に飽きっぽい性質でしたので、この言葉は好きではありません。どちらかというと今ならADHD、「注意欠如・多動症/注意欠如・多動性障害」に分類されるタイプだったのでしょう。忘れ物やチエックミス、ケアレスミスは多いけれど、上級学年の学習を先にやっていることはありました。天才型にそういう傾向の人は多いと言いますが、残念ながら凡才ではありました。

 しかしまあ天才型にこの、「守破離」を地道に行えないけれど、すごいアイデアを出す人とかは良くいます。親や部下としては厄介ですが、うまく最低限の適合をさせて、良いところを引き出す教育や指導をすると爆発的な才能を開花させ、強力な味方や戦力になるでしょう。

 世間のつまらないしきたりも、それはそれで必要なのですが、ADHDにはそれが全く見えない時があります。それを威嚇して抑え込むとせっかくの才能も、さぼり始めるとまったく機能しなくなります。

 天才にしろ、平凡にしろ、人間の脳はそれなりに経験し対処法を合理的に考える力はあります。企業などの現場で起こっている課題に対処するアイデアや自分なりにステップアップする方法は、実際に経験している人間がバイアスにとらわれず考えると、思いのほか浮かんでくるものです。

 ところが、良いアイデアを出せという上司や、もっと勉強してレベルアップせよという指導者は、前例や組織などのいろんなしがらみに囚われてそれを抑え込み尊重しません。

 提案をしても、それはこうだからできない俺の言う通りやれと言われると、脳は考えるのをやめて、言われたことを消化するだけのイエスマン脳になります。なぜなら考えるのにはエネルギーがすごく要り、褒めらる尊重されるなどの快感ドーパミンをもらえないと辛いだけだから、合理的な脳はもう考えることを止めます。ルーティンを効率よくやる、考えることをサボるのが脳の動きになるのです。

 良いアイデアを出せる人、営業や研究などを長く続けられる人は我慢強い面もあり、良い教育者、指導者に恵まれ環境も良く、本人もそのパーソナリティを知り、自分のスイッチの淹れ方をよく理解したのでしょう。

 ADHDに天才や優秀な人が多いと言って、俺はルーティンは嫌いでサボってもいいではただの変人です。最低限上司や同僚への理解を求める姿勢がないと、社会では残念な人で終わります。こういう知識も含め、アイデアを出し合えれば、良い職場や社会環境になっていくのではと思います。

日本人の好きな「まがいモノ」はカラダに悪い?

 明治維新以降急速に西洋文化を取り入れ、戦中から戦後にかけてのモノの少ない時代にも、日本人は限られた中で知恵と工夫でいろいろ純国産でやりくりをしました。

 学問や文化も日本流に、日本人が応用しやすいようにわかりやすい翻訳をした先人の功績でもあります。

 戦中、入手が困難になった珈琲豆を大豆で代用した話もありました。
カップ麺へと続くインスタントラーメンが発明されたのも戦後の貧しい食糧事情からです。本家中華とは似て非ざるものになっていますが、今や百花繚乱のカップ麺が店先に並んでいます。
 ちょっと前の人はバターとマーガリンをごっちゃにしていますが、牛乳が豊富でなかった頃マーガリンは日本の食卓、給食にパン文化とともに並び出しました。トランス脂肪酸が身体に悪いので世界的には食されていないと言われだしたのは最近で、昔は植物性のマーガリンがヘルシーと言われた時代もあります。

 酒税を逃れて、お酒を安く味わうという日本の民間企業らしい工夫で発泡酒や第三のジャンルというお酒もまた沢山の種類が生まれました。今やメタボ対策、ヘルシーの要素も加わり、糖質ゼロとか、プリンタ体、カロリーオフ、ノンアルコールなども多く出ています。
 アルコールゼロの、ビールやワイン、チューハイ、日本酒のようなものもでています。それなりのテイストですが。それだけの味を作って、アルコールゼロ、糖質ゼロにするにはどういう努力がされ、何が入っているのかはどうも疑問です。

 そんな「まがいモノ」までして、チューハイとか味わうのは心理もよくわかりません。少し我慢して本物を飲めばと思います。肝臓のためや、運転するため、アルコールがダメなら水かお茶、普通のソフトドリンクでいい気がしますが、それだけニーズがあるのでしょう。

 カップラーメンに栄養バランスを考えた完全食が発売され、マーガリンもトランス脂肪酸が少ないものが発売されています。健康とまがいモノの境界は難しくなっています。日本人の知恵と庶民のリテラシーやどれだけお金持ってるかが問題になるのです。

短いようでそれなり長い秋

 夏は猛暑の印象が強く、しのぎやすい秋は短く感じます。
 冬への一歩一歩季節が変化するため、夏日があったと思えば、コートのいるような肌寒い日もすぐ来ます。変化の前の季節、後の季節のインパクトが強いので吸収されそうですが、秋はそれなりに長いです。
 コスモスのや彼岸花の咲く9月から、紅葉の11月まで3カ月はあります。

 そして、活動、運動にも適し、味覚の収穫も多い季節で、そのためお祭りや運動会もこの時期に多いです。

コロナ禍でここ2年以上みかけられなかった大きな祭の賑わいも戻りました。
昨日も、学校のグラウンドに鈴なりのような人が集まり、運動会を見ている光景に出会いました。

 日本の場合まだまだ、マスクを過剰に離せない人もいたり、次の波が煽られ、ワクチンの強要的な報道も続きますが、人々はこの秋を今までに戻しながら楽しんでいました。
 地球温暖化も良くは分かりませんが、毎年秋が来て冬も来て、季節は廻ります。その中に歳時があり、イベントがあることは素晴らしいです。

ちょっとした贅沢

 前にも珈琲や嗜好品の話は書きましたが、この間ヴィドフランスというチエーンのカフェベーカリーでサイフォンの珈琲を久々に飲みました。やっぱりそれが美味かったのです。

 サイフォンは、その美しいメカニズムから来るワクワク感とともに、真空ろ過という独自の勢いで引き出す味があるのでしょう。あまり贅沢をする時間もお金もないですが、時にはサイフォンの動きを見て、その後の珈琲を味わいたいものです。

 朝の定番、大袋の挽き豆からペーパーで自分で淹れるヤツ、昼はセブンかスタバとかがしょっちゅうでこれらも悪くはないけど、専門店でいれてもらったサイフォンやさらに上質の豆はまた良いです。

 お茶やお酒、その他のグルメや遊びにも人それぞれこだわりがあって、散財する人もいるでしょうが、それがないと人生やはり味気ないものなのでしょう。
 確かに、すべてのものに最上級の嗜好を求めると、キリもなくお金もなくなりますが、能動的に働く意欲、あるいは節約する吝嗇、我慢などの気持ちというのは、こういうちょっとした贅沢のためなのかもしれません。

人間の脳も身体も薬と思っていても どんどん毒やゴミが溜まる

 人間の脳は基本的に足し算はできても引き算はなかなか自然にはできないそうです。
 何か、不祥事やミスが発生するとチエック体制や対処方法が追加されて、法律や稟議が厳しくなり、ミス自体は防げても組織が不活性になり、時間もかかり別のトラブルに繋がったり増します。ミスの原因を起こさないシステムの開発こそ急務で、余分なことを足すと人間が引くことができないので、かえって失敗をするのだそうです。
 たとえばお薬を処方されると、別の病気でかかっている医者の薬にプラスしてそれを飲み、何か調子が悪いと頭痛薬などの常備した薬も飲みがちです。
 痛みを和らげるには鎮痛剤など、咳が出るなら咳止め薬、熱なら解熱剤、鼻なら、、といった具合です。痛みや熱などは、自分の身体が弱っているので休んで回復せよというサインでもあり、あまり先々にこれを処方で止めると自然の回復力が弱まります。

 ましてや重大な飲み合わせもありますが、薬を飲み続けることは身体に負担を増やすことなのです。薬とは結局、少量の毒を身体に入れ自身が刺激を受けて、病気を治そうとする力が沸くようにするのです。ワクチンなどもさらに負担の多い、身体に脅威を与えて抗体を作り増やそうとするものです。
 腎臓の慢性疾患の患者は、ロキソニン系の鎮痛解熱剤は服用できません。その他の鎮痛剤にせよ、他の薬にせよ少しずつ腎臓に負担をかけることに違いがありません。
 日本人がハマりやすい薬漬け状態が続くことが、やがて糸球体という組織の経年劣化を呼び腎臓疾患に繋がり、透析に至るケースも多いのです。

 これでは薬を良かれと思って使っていて、身体を悪くする本末転倒です。
 薬、ワクチンもそうですが、メリットデメリットは端折って説明されると、単独の使用だけしか分かりません。長期にわたり併用された場合どうなるか、デメリットに上げられてメリットでカバーできると思われていたことが全て悪い方向に行くのです。

 もちろん病状を悪化させないため、絶対服用を忘れてはいけない薬はあります。しかし、それと別の薬、常備薬と足していった時の弊害は、一度利害のからまない薬剤師さんなどに相談しないといけません。利害のからまないと書いたのは、当然その病気の薬を処方した医者は結果を出すため、その薬を飲んで欲しい短期的なミッションしかないからです。
 生活習慣やらいろんな悪い方への知識や発想も無駄な毒として脳に溜まっていくのでしょう。