悲しき女優の死

 最近は女優というとやや不適切となるそうですが、私らの子供時代の美人女優の典型だった俳優山本陽子さんが81歳で先ごろ亡くなられました。
 現在だと、北川景子さんとか、広瀬すずさん、浜辺美波さんとかまあ一人には絞れないけれど典型的な時代を代表する、子供にとってはキレイなお姉さん女優でした。
 昨年末まで長年CMを勤めた海苔の会社を訪れるなどお元気そうで、彼女の場合不幸な人生とは言えないしょう。詳しい晩年は報道程度ですが、特に若い頃、元気さや美貌が印象的だった人の老いと死の報道は胸が締め付けられるようなものがあります。
 俳優さんやアスリートの中には、やはり若い頃チヤホヤもてはやされ、恋愛も遊びも自由でイケイケだった反動の悲しい晩年、地味な晩年というのもあります。、最終的には独りで孤独に晩年という人も報道されます。
 少し時代外れますが、大原麗子さんもやはり、時代を代表するような俳優さんでしたが、結婚運も良くはなかった感じで孤独死のような形で以前報道されました。
 もっと不幸な感じだったのが、若手時代は清楚な美人役で国際スターとも言われた島田陽子さんも、後年は借金で汚れた仕事もされ、寂しい晩年で病死されています。
 時代が変わり、比較的若い頃に俳優をやめ同僚の俳優、一般人、政治家や実業家の富豪と連れ添い幸せそうな人もいます。最近のアイドル女優は若く元気で美しい姿を人々の記憶に刻み、優雅に年齢を重ねていかれるのかもしれません。

中島みゆき「化粧」 飾る女性の思い出

 女性、しかも美しく装う人の多い化粧品会社に勤めておりました。
さまざまな出会いがあり、それこそ女優さんのような「美」を生き方のスタイルにしているような人もいました。
 中島みゆきさんの初期の歌に桜田淳子さんがカバーした「化粧」という哀しい女性の詩があります。
「化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど、」で始まり、振られた男に最後に会いに行くのに「せめて 今夜だけでもきれいになりたい」
 というせつないばかりの意地の女ごころを歌っています。

 あるエリアで勤めていた時、Sという方が本当にきれいな人がいました。化粧も上手い上、元々鼻筋などを少し手直しされている上、若さを保つのにエステだけでない努力もされているのではととかくの噂でした。
 若くして、時のエリア支社のトップに重用されていましたが、取引先からは、話が長く空気が読めない常識を欠いたことがあり、メンタル的にも傷ついて営業スタッフに回っておられました。
 元々、声をかけ辛い美貌で、男性が気楽に談笑できる仲間のMさんには逆に嫉妬していました。Mさんはスタイルはいい方ですが、年齢も上でSに比べれば平凡な顔立ちです。
 ある時積極的にSが誘惑のようなアプローチをかけてきたことがあります。当時、結婚もしてご主人もおられるはずなのと、それよりも当時の上司、エリア支社のトップの女なのでとても淫らな関係はいやだと考え、断りました。それは私が好きというよりも、Mさんと気軽に話す私が何となく羨ましいというのか嫉妬心を抱いたのか、何でも自分が一番で独占したいという複雑な気持ちなのでしょうか。
 ある時、SはMさんのような生き方にスタイルを変えたいと悩んでいました。それでもやはり私とたまに会うときでさえ、すごく丁寧に整え、キレイにならないという見栄なのか矜持のような気持ちに捕らわれるようです。
 販売会社のノルマがすごくキツイ時代で、女性は出世したり、営業成績を上げるのにかなり女性を売って無理をしていた時代の残滓があります。

 もちろん、令和になってそれほどノルマは無くなると、今度はかまってくれる男性、媚びを売る対象が、テレワークだと難しくなったようです。
 Sの前に営業にいた、Nという女性も美人で、営業成績も素晴らしく、何期も連続で達成して表彰を受けていたりしましたが、やはり数字とそういう無理がイヤで、結婚後しばらくして退職されました。Nの連続達成のために、上司や周りも無理をして、こちらも正直その反動や何やで相当迷惑を蒙りました。
 昔は社長や、地区支社トップも女性のセクハラ接待のようなものもあり、そんな機会を昇進や経費流用に活かした女性もいました。枕とは確証もって言えないですがそれに近い悲しさはあります。
 あっさり辞めたNに比べ、Sの辛抱はある面可愛かったのですが、やはり限界はあったようです。
 中島みゆきさんの、「アザミ嬢のララバイ」「化粧」「悪女」「あした」などの儚くせつない女性の歌を聞くと、彼女たちのことを思い出します。
 今も4大卒のかなりの美人さんが親会社に入って来られますが、もう現場営業をすることもないですし、美容現場から営業も難しいのでああいうキャリアの変遷で悲喜劇の女性を見ることはないでしょう。

「マルス」1960年に国鉄で誕生した画期的システム

 現在窓口に駅員が案内するJRの「みどりの窓口」は、無人駅はもちろん有人駅でも廃止統合されて、トラブル時にインターフォンで集中センターへ連絡する程度です。
 e予約などですでに、ネットで確定したものを発券するとか、そもそもチケットレスの購入もあります。
 戦後、高度成長期に入り長距離移動が鉄道主流の頃は、切符で指定席などを買うのは結構な行列があり、待たされるのが当たり前でした。国鉄職員も「売ってやっている」という横柄な態度で今では考えられない役人のようないばりようだったとも聞きます。
 そんな悪評プンプンの国鉄ですが、新幹線や在来線でも技術的には世界に先進したシステムを構築していました。今回は車両や路線ではなく、切符の発券のシステムについてです。
 列車の座席を予約するとき、A駅の窓口とB駅の窓口、C旅行会社でそれぞれお客さんが予約に来ると、あずさ1号のどの席が埋まっているか瞬時にわからないといけません。今なら個人でもパソコンやスマホでできますが、昔はそれを中央指令の回転式のテーブルに載った台帳を電話で確かめながら予約して発券していたのです。
 列車の数はそこそこ増えだしていましたし、今よりも多い路線もあり、帰省時などに飛行機や高速道路の選択もない時代、気の遠くなるような手作業です。
 時間もかかり、待たされた上に、ダブルブッキングはよくあり、現場でのトラブル対応も頻発しました。

 その問題を1950年代後半から検討に入り、世界に先駆けて「コンピュータ」による予約システムを構築したのが、国鉄なのです。経営陣の英断、技術陣の苦労も並み大抵ではありません。なにせ、「コンピュータって何?」の時代です。65歳で定年を迎えるような人が生まれた年、1960年に国鉄の指定席予約システム「マルス(MARS)1」がこだま(在来線特急)4列車2300席からスタートしました。
 東京オリンピック、新幹線開業の1964年には本格的に自動発券できるプログラムを内蔵した「マルス101」が実用化しました。
 それ以降もまだまだ世の中にコンピュータが普及する前に、マルスは進化して「マルス105」となり全国の駅、旅行会社に普及、予約期間延長、乗車券同時発売、団体、企画商品などへ対応して現代への流れをつなぎます。
 そこには、試行錯誤、顧客や駅員の要望に応えた苦労があり、サービス部門と技術開発を連係して日本らしいシステムで世界をリードし進化しました。このシステムがあってこそ、日本の高速鉄道のスピードと定時、頻発が実現できたのです。ただ早い列車を走らせても切符が指定して売れなければ沢山走らせるのは無理です。

 それでも国鉄は、構造的な赤字が累積して、多くのサービスシステムで大手私鉄に先駆されるようになります。JR化後再び巻き返し、自動改札で私鉄に追いつき交通系ICカードを総合的なビジネスワールドにまで高めました。
 その基本となったのが65年前に開発された「マルス」で現在はMARS301という世代に入っています。さらなる進化が期待されます。


 ここまで読んだ昭和の別のマニアにはマルスと聞くと、ウルトラマンの隊員が使う武器を思い浮かべた人もおられますが、マルスには133という世代はないです。特撮の方は「火星」由来とされていますが133には特に背景はなく、当時画期的なコンピュータシステムとして話題になったマルス103が特撮関係者の念頭にあったのではと思われます。
 

追悼 70年代皇帝と演歌の時代

 オジサンの昭和回顧マガジンみたいで嫌だが、先日は1970年代のサッカー少年の憧れの一人だったドイツの「皇帝」フランツベッケンバウアーが亡くなった。ペレやゲルト・ミューラーも鬼籍、少しあとのクライフ、マラドーナもいない。その後のベッカム、メッシ、クリロナらスターも多いが、サッカーがポジションが躍動する近代化の魁だった選手であり、優雅な姿は懐かしい。
 そして、また八代亜紀さんの訃報。
 フォークや、ロックだと若者きどりでも、大人びてジャズだクラシックだと言っても1970年代の子供は否応なく演歌は耳に入る。それが昭和ならではでした。
 五木ひろしと八代亜紀、森進一、沢田研二あたりがレコード大賞を競い、北島三郎もバリバリで、美川憲一、森昌子、小林幸子が出だして、演歌やムード歌謡の耳に入る割合は今とは比べられません。
 日本の各地を、自然や風土、人情と恋愛を絡めて力強く歌い上げていた時代でした。

 まだ子供でおいそれと旅行にも盛り場にもそう簡単には行けない頃、襟裳岬や知床半島、津軽海峡、能登半島、熊本、鹿児島、長崎、道頓堀や新宿、みんな地理のお勉強よりも、高校野球と歌謡曲から先にイメージを抱きました。
 それにしても、シングルレコードが600円、これA面、B面で2曲だけです。今より高い、LPが10曲以上入って1800円とか2000円でした。レコード買えるのは贅沢な時代でした。当時の歌が版権切れてるのもありますが、ほぼ無料でダウンロードできるとは、他の値段が上がっても便利な時代です。

 新年早々、大変な災害、頑張って能登半島も応援していきましょう。
 
 

4年で変わった大阪、日本

 2019年6月、令和の元年に私は退職して1カ月目で職探しの面接のため大阪を訪れました。
5年間いた大阪の本町、立売堀界隈でしたがこの時は2年ぶりぐらいの訪問でした。午前中に受けた京都での面接の結果も気になり、トンボ帰りに近い形でしたが、心斎橋から本町までは歩き、懐かしい船場センタービルなどを訪れました。
 この時、G20の大阪サミットで御堂筋に全くクルマが走っていない異様な光景を味わいました。
 営業車を停めていたビル駐車場の受付のキレイなお姉さんが、覚えていてくれていて嬉しかった思い出があります。ひな祭りやハロウイン、クリスマスなどにコスプレをして顧客を楽しませてくれました。当時すでに、100円パークキングなどのセルフ発券が当たり前の時代にいつまでも、人の発券しかもキレイなお姉さんなのがとても不思議なぐらいでした。
 先日、元職場の近くのオリックス劇場での観劇の帰りに4年ぶりに同じビルを訪ねると食堂街はほとんどが閉店、カフェと寿司屋だけが残っていて、中華や、カレー、蕎麦屋など行きつけは無くなっていました。コロナ禍の猛威なのか、活気のありそうなウメキタなどに比べ、下町は厳しかったのでしょうか。
 そして、一番楽しみにしていたお姉さんのいた駐車場は、残念なことに味気ないセルフ発券となっていました。営業車を都市部の拠点で駐車場契約することも止め、テレワークも進めていたので、おそらくこのビルとの契約もとうに終わっていたでしょうが、残念dす。
 10年前も4年前も変わらないものもあれば、大きく変わっているものもあります。
 4年前のG20が行われた時は、まだコロナ前であり、もちろんウクライナ前であって、米大統領はトランプ、日本は故安倍晋三さんで、ロシアのプーチンも中国の習近平も一同にインテックス大阪に集まっていたのです。
 今では亡くなった安倍さんは別にして彼らが揃うことは難しい国際情勢にたった3年ほどの間で変わっています。世界の多くの国で、政権が変わったり、大きなインフレがあったり、革命や体制、政策が変わっている国や地域が、この5~10年にありました。それに比べれば日本は変わらない、伝統なのかジリ貧なのかでしょうか。
 大阪の街は、新入社員でも勤め、港や川があり都市高速と地下鉄が縦横に走り、活気があって好きな場所も多いですし、懐かしさと親しみがあります。
 万博をめぐる情勢も複雑ですが、今年は理屈ぬきのアレが起こった関西です。関西が起爆になって、日本が元気になり、世界の平和と安定につながるイベントに変わることを期待します。

書評:「京都を歩けば仁丹看板にあたる」

 うーんついに本まで出た!ど真ん中の趣味過ぎて、書評がしにくいです。
タイトルになるほど、すぐには見つからない看板です。歴史も含めて、内容にはいろいろ知らない情報もありました。
 盗難防止のためか、2階の壁に設置されていたりするので、結構通りが交わる角などでは見上げると見つかる場合もあります。
 コロナ禍の制限が緩和され、インバウンド旅行客が戻り出して有名な寺社などの観光地は本当に外国人はじめ、人が多すぎます。
 私は紅葉の時でなくとも、金閣寺や清水寺には何年も行ってない上、まして混雑時に東福寺とか永観堂とか嵐山に行くのは憚ります。どんなに素晴らしい絵画が来ても2時間も並んで雑踏を見に美術館へ行かないのと同じです。
 街は広く、京都人が京都を歩くのは、こういう地味な古い街並みを味わい、オリエンテーリングのように看板を探すのが健脚にも良いのになあと思います。

紙のポスターを貼りまくった思い出

 ただの昭和とか昔の回顧みたいになりそうですが、最近はターミナルやショッピングセンター、バス停なども紙のポスターがなくなりデジタルサイネージと言われるものになっています。

 私が化粧品メーカーに入社して、営業に回された頃は、もちろん紙のポスターばかりで、あとは横長の店頭幕と言われる布を入り口や化粧品コーナーの上に吊るす販促物を、キャンペーンに合わせて設置をチエックするというのが仕事の一つでした。年配の方の店や。営業を丁稚のように使役する店は、自分でやらないとなかなか替えてくれません。コマーシャルが始まっているのに、主力店を幹部が来訪して、販促物が前のままだと、カミナリを落とされ叱咤されました。
 ドラッグストアやバラエティストアなどの企業が主流になると、大型のものや踊り場を占拠する枚数、パウチ加工したものをリクエストされ、逆提案で店の高所や壁周り全体をジャックするような貼りまくりをしたこともあります。ライバルメーカーの営業が来れば地団駄を踏んで口惜しがるような自社モデルの顔で埋め尽くすのは、高所恐怖はあっても快感でした。
 ポスターと合わせ店頭設置のビデオモニターのため、VHSテープやDVDをダビングした時代がしばらく続きました。やがて本部企業から【デジタルサイネージ】にするから、データをこのサイズで送ってくれと言われる、最初はなんのこっちゃでした。
 ポスターをピンやら、ホチキス、テグス糸で止め、屋根近くを忍者のように登っていたのが懐かしい。
 ああやはり、ただの回顧になってしまいました。
 古い街並みを散策して、ホーロー看板の広告などを探すのひそかな趣味になっています。しかしホーロー看板は多少劣化しても丈夫なのですが、紙のポスターは傷み、日焼けして残らないのです。

学歴、職歴、思わぬ自分史を作る機会を得て

 まったく数奇な運命で64歳にして、公的機関で再び採用試験に合格しました。しかし何と高校以降の学歴証明、職歴証明を提出せよと言われました。
 30代ぐらいまでの第二新卒、過年度採用のための書式ではないかと思いました。40年も前のことであり、入社した鐘紡(カネボウ、昭和57年当時は漢字)株式会社という会社は事実上倒産しています。学校も卒業証書や卒業証明ではなく、休学なども含む在籍期間の証明、職歴も仕事撫内容までも含めていったい、そんなの本当に必要で、そもそもはたして手に入るのかと思いました。
 学校関係は成績証明は無理でも、在籍証明は出せるそうです。年金事務の時に逆の立場で学生特例猶予の時にさんざん他人にはリクエストしましたが、卒業ではなく期間在籍の証明で、ネットや郵送で申請して、速達やレターパックで返送してくれました。高校は申請書に3年のクラス、出席番号、担任が分かれば書く欄があり、そこは記憶はすぐには蘇らず、友人の助けを借りました。
 最大の懸念は統合、組織変更した会社の方です。幸い、退社時にも世話になった後輩が花王グループの総務にいていろいろ差配してくれて、入社以来の経歴をうまく組織変更とまとめて記入、代表取締役社長印を捺して返送してくれました。
 高校からの50年におよぶ人生のエビデンス、自分史が完成したのは壮観でした。走馬灯のように見て、これが最後になるのではなく、さらに輝かしいページを加えていけるようにしたいとは思います。
 最後にオチではないのですが、これを提出した後、人事グループは証明を出したところに電話で確認をしてウラを取っていました。その上で、内線で「昭和57年3月21日卒業から、4月1日の入社までは空白期間になりますがアルバイトなどせず無職でしたか?」との確認「はい」と応えましたが、そんな40年前の春休み何してたか、覚えてないなあ(笑)。
 年金事務所では受給資格の足りない人に厚生年金にあたるバイトをしていたら年金が増える可能性はあって確認することはありました。しかしたかが経歴書そこで一週間強バイトしてたと言って何が変わるのかとおもいつつ、何してたのかなと回想しました。社会人になる前でドキドキだったのでしょう。

元気の源 子供と老人の朝の挨拶

 今年は暖かい秋でしたが、冬至をすぎ、そろそろ寒くなると、朝の息が冷たくなります。
 私の職場は北側が京都御苑で、南側は小学校です。南北の廊下の突き当りには緑が見え季節の移ろいに癒されます。それ以上に朝は、通学の子供たちと、その子らを交通誘導するボランティア?の地元のおじさんの元気な声で爽やかになります。
 大きな声で時間を確認したり、クルマに注意を促し、冗談をかましたりして、子供たちも笑顔で返します。玄関ドアを開け、そんな光景を眺めるお年寄りもおられます。
 大人が仕事に行くのは毎日毎日楽しい訳ではありませんが、地元の街の未来を支える子供たちと、それをサポートする大人に元気づけられます。

40年ぶりのマックシェイク●●●●●● #コイバナ

昭和51年刊 毎日新聞社1億人の昭和史8

 高校が同じでも、マンモス大学だとほとんどすれ違い。
 幼馴染で大学まで行った恋愛ドラマのような話はそうそうないものです。内部進学で大学に行ける私学校でしたから、実はそのまま大学でも交際してゴールインというケースが友人には多いのですが、私の場合はそんなことはなく就職して、大学時代までにつながりのあった女性は年齢とともに疎遠となりました。
 高校生ぐらいの交際って、今とは時代が違うでしょうか。メールやLINEが無い分ハードルは高い部分もあったでしょう。
 マセた中学生から高校生の頃、関西でもマクドナルドが進出しだしたばかりで、今のようにあちこちにモールやドライブスルーの郊外店があるわけではなく、京都では繁華街の1店舗が関西1号店でした。
 日本で最初のハンバーガーエイジともいえる世代の我々は、親の世代も含めて、繁華街まで買い出しに行くとともに、若者は店先で、待ち合わせして、ストローを挿しシェイクを吸い、ポテトを頬張るのが流行り、今云うトレンドでした。当時の京都の若者には思い出深いマクドナルドですが、今は逆にその地所にはなくて、あちこちにあります。
 四条通を通っていると、ふとその頃の待ち合わせを思い出します。
 もっとずっと古い建物、老舗旅館や料亭、御茶屋もですし、神社やお寺、学校や西洋建築などが残る中で、昭和50年代のこれという価値のない建物やテナントは入れ替わりが激しいものです。
 
 そう、そんな中で何度か待ち合わせのため、その繁華街のマクドナルドに行きました。
 就職の内定が一つ決まった頃だったと思います。
 今はキャリアセンターとかフューチャーセンターとか言われている、大学の就職課の前で何年かぶりかであった高校の同級生T子さん。当時、私は国立大の歯学部に通う年上の彼女と同棲まがいでしたが、気持ちは離れていた頃でした。
「ひさしぶり、就職決まりそう」と声をかけると
「まだ、大阪でも京都でも真ん中へんだから通えるんやけど、なかなか、内定ゼロ、どんくさくて大事な時に、顔怪我しちゃったし」剣道少女は照れ臭そうに鼻の絆創膏を見せてくれて、笑いました。就職前の大学4年生を少女と呼ぶのも変なのですが、ノーメイクのあどけない彼女の笑顔は少女そのものでした。
「大丈夫や、みんな本命はこれから!」
 私に彼女がいることは、どこかで見知っていた節があり、部活で演劇をやっていることもなぜか知っていたことには驚きました。
 高校時代は一方的に私が片思いしていたようでした。その時期も告白以前にそれぞれ相手がいたりタイミングが合わないままで、マンモス大学で学部もサークルも違えばどんな足跡かも分からない4年間でした。
 何かを押しのけての熱烈な恋愛でもない感情だったのだろうとその時は思っていました。何気にお互いの世間話、就職の苦労話をしていました。でもやはり、心の中ではドキドキしていました。
 本来なら、T子さんとは市バスの後は、別の電車でしたが、寄り道してマクドナルドに行こうということになりました。
 二股とかそういう罪悪以前に、憧れていた人と話すことに心臓のドキドキが止まらなかったのです。
 それでも、少し彼女は内定が出ないことの焦り、悩んでいたようでした。
 当時の女子大生の就職事情は今とは雲泥のものです。自宅から通うというとそれもハンデで、大企業の総合職の割合はまだ少なく、女性に求められる価値観がまだ「結婚までの腰掛け」と思われていた時代です。偏差値も全ての能力で優れた女性が同じ職場で、コピーや書類のファイリングやお茶出し程度というのもあった時代です。そして、コネ入社でねじ込むのが当たり前でした。
 彼女の悩みを聞きつつ、自分自身もまた、情けないことに家業や結婚という逃げ場のない次男という立場を嘆いていました。
 気楽に何でもチャレンジできるとは思えず、不安と億劫な思いに満ちたモラトリアムな若者でした。
 今、目の前にいる彼女こそ大好きで抱きしめることができず、就職で忙しいから、まだ別れていない恋人がいるからと言い訳を考え、胸の鼓動を抑えました。
「私、マクドのシェイクすきなんやけど。あんまり家から行かへんし、これオイシイわあ。サイズ大きいのにしようかな。やけ食い!」
 彼女はポテトのLとマックシェイクのストロベリーを頼んでいました。サイズは女の子が頼むSではなく、MだかLだかまあまあ大きい方でした。バーガーとともにポテトは私も頼みかけていたので、分けようとやめました。
「男の人はいいよ、大きな会社で全国どこでも飛び回れるやん」
 内定が出ない彼女の嘆きがむしろ、社会に出ることにおびえている自分を励ましてくれました。
 シェアしたポテトを譲り合い、指が振れけけるのを微妙に意識し合うのがわかりました。
「〇〇さんやったら、きっといい仕事につける」
 私はありきたりな語彙で平凡な言葉で励ますしかその場を凌げなかったのですが、T子さんは同級生の言葉に元気づけられていたようでした。
 私が当時付き合っていたのは、歯医者さんになるために文化住宅を借り猛勉強していたハングリーな女性でした。その人に比べれば、T子さんは、お嬢様でもあり、また自分の未来へ悩みがあるのだなとも思いましたが、共感する部分は多かったと思います。
 内定を一つ貰って少しだけ優越と不安が混じった甘い考えしかもたず何もできない私は、遠慮する彼女を家まで送っていくと言いました。
「すごく、市内?の井上君の家に比べたら、遠い田舎やで」
 断られかけても、久しぶりに遭えた縁なので話の続きがしたいと私は少し強い意志で彼女を見つめ食い下がり、何とかついていきました。話題が尽きたらどうしようかと思いましたが、同級の昔話や、面接した会社ややりたい仕事など、幸い話題は尽きません。私鉄の駅から、バス停で3つ4つの道をてくてくと歩きました。
 彼女は話を聞いてくれたことにとても感謝し、いい時間だったと言ってくれました。
 次に会うような約束はしませんでした。
「これ、さすがに大きかった、余っちゃった、口つけっちゃったけど、もったいないかあ良かったら井上君持って帰って飲んで、ストローは洗ってからね」
 そんな衝撃的なプレゼントが貰えるとは、今までの話題が飛んでしますほど嬉しかったです。
「頑張りや、もう少し、僕も頑張る」
 内定決まったら会いたいとか、気の利いた次の展開を考えることもできずに、彼女の家の前で別れました。
 いくつもの大きなお屋敷に囲まれた、古い格式のありそうな大きな家でした。高校生ぐらいの弟さんが出迎えて、好奇心いっぱいの目で私を見て会釈しました。
 帰り道をまたてくてくと、甘いマックシェイクを飲みながら、何となく嬉しさに浸りました。

 ずっと後に仕事で、その近くを通った時は、もうその地所のお屋敷は整理されて、こじゃれた駐車場のある建物になっていました。
 今はマックのハンバーガーも高熱調理器で、オーダー後に手早く焼く調理をしていますが、昔は作り置いたバーガーを順番に渡していて、パンが蒸れていた感じなのが今昔の味の違いでしょうか。サムライマックとか月見とか様々新商品もある中、ウーバーで宅配されたり、決済もオーダーも変わりましたが定番の商品も健在です。
 あのマックシェイクのストロベリー味を40年ぶりに頼んでみました。ストローは環境保全のために、素材が変わっています。あの時の彼女のストローの味も、さすがにもう忘れています。

学生時代 通り過ぎた人、初体験話 #コイバナ#ヰタセクスアリス  – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)

剣道少女は負けない #コイバナ#ラノベ – 天使の星座 (seizafpkotodama.com)